第59話 兄が歌っていた歌
「知ってる?」
カイは答えなかった。
子守歌は短い。
四つの音を繰り返すだけ。
でも彼の顔から血の気が引いている。
「カイ」
「兄が歌っていた」
予想していた答えなのに、胸が重くなる。
「子供の頃?」
「ああ。俺が眠れない時に」
「ユリウスさんが?」
「……なぜさん付けだ」
「恋人のお兄さんだから」
「変なところで律儀だな」
少しだけ空気が戻る。
でも透明な糸は消えない。
「誰かが兄の記憶を使ってる」
カイの声が低い。
「可能性は高い」
「なら殺す」
「早い」
「兄の死体を使っているなら十分だ」
初めて見る種類の怒りだった。
静かで、冷たい。
俺が教団に攫われた時とも違う。
俺は彼の手首を掴んだ。
「殺すかどうかは、見てから決めよう」
「ノア」
「その人が本当に死者を利用してるのか、理由は何なのか、まだ分からない」
灰色の目がこちらへ向く。
「怒るのはいい」
「……」
「でも怒ってる時のあなた、判断が速すぎる」
しばらくして、カイが息を吐いた。
「分かった」
「えらい」
「子供扱いするな」
「今のは恋人扱い」
手首を離そうとしたら、逆に掴まれた。
「離せ」
「嫌だ」
「今度は何」
「……少し、このままでいい」
珍しい。
俺は何も言わず、手を握り直した。
夜明けの城壁。
兵士たちは下で片付けをしている。
透明な糸の向こうから、もう一度歌が来た。
今度は最後に、男の声。
『カイ』
カイが立ち上がった。
俺も立つ。
『遅かったな』
兄の声を聞いたあと、カイは一人で武器庫へ行った。
追いかけると、剣の手入れをしている。
「寝ないの?」
「眠れない」
正直に言ったので、隣の木箱に座った。
「話す?」
「何を」
「ユリウスさん」
研磨布が止まる。
「兄は、俺が騎士になるのに反対していた」
「意外」
「向いていないと言われた」
「もっと意外」
「人の命令を聞かないからだ」
「納得」
睨まれる。
「でも最後は同じ戦場にいた」
「ああ」
「仲直りした?」
「していない」
そのまま死んだ。
言葉にされなくても分かった。
だから帰糸は、カイにとって残酷だ。
カイは砥石をもう一度滑らせた。
俺は何も聞かず、その隣に座った。
刃の擦れる音が止まるまで、二人とも兄の名前を口にしなかった。




