第55話 死者は斬れる
「下がれ!」
カイの声と同時に、死人が跳んだ。
速い。
腐った身体とは思えない。
爪が俺の喉を狙う。
黒い刃が横から入った。
一閃。
腕が落ちる。
死人は止まらない。
「頭じゃない!」
俺は糸を見る。
黒く染まった白糸は、身体じゃなく地面の下へ続いている。
「右足!」
カイが迷わず斬る。
右足首に絡んでいた黒い結び目が切れた。
死人が崩れる。
でも死なない。
這いながらマティアスへ手を伸ばす。
「隊長……帰ったんです」
マティアスが震えていた。
「ローデン」
「帰るって、言ったから」
声だけは人間だった。
俺は膝をつき、白い糸に触れる。
冷たい。
記憶が流れ込んだ。
雪。
血。
若い兵士。
死ぬ直前、家へ帰りたいと何度も思っている。
妹に買った髪飾り。
マティアスに預けた手紙。
そして。
誰かが、その「帰りたい」という願いを糸として引っ張った。
「ノア!」
視界が戻る。
カイが俺の肩を掴んでいた。
「勝手に触るな」
「ごめん。でも分かった」
死人を見る。
「この人、蘇ってない」
「なら何だ」
「残った願いを、誰かが身体に縫い戻してる」
俺は白い糸の先を見る。
北。
「死者を帰してるんじゃない」
喉が乾く。
「帰りたかった死者を、無理やり歩かせてる」
ローデンの口から、小さな声が漏れた。
「……帰りたく、ない」
俺たちは全員、動けなくなった。
「もう、帰りたくない」
白い糸が震えた。
「眠りたい」
ローデンの記憶に触れたあと、俺の手はしばらく震えていた。
自分の記憶じゃないのに、妹へ髪飾りを渡せなかった悔しさが胸に残る。死ぬ瞬間の寒さまで皮膚に貼り付いたみたいだった。
カイが水筒を差し出す。
「飲め」
「命令口調」
「手が震えている」
言い返せず飲んだ。
「共鳴なしで記憶に入った」
「うん」
「二度目はするな」
「必要ならする」
カイの目が鋭くなる。
「でも、次は先に言う」
続けると、少しだけ険が取れた。
「あの大喧嘩、無駄じゃなかったでしょ」
「忘れるわけがない」
「俺も」
ローデンが「眠りたい」と言った時、カイは剣を下ろした。戦場で死者を何人も見てきた男が、命令を待つようにこちらを見る。
その信頼が重い。
だからこそ、間違えたくなかった。




