第52話 恋人になって初めての出張
恋人になって初めての長距離出張で、同じ馬車に八時間。
普通なら少しくらい甘い雰囲気になると思う。
「近い」
「道が悪い」
「だからって俺の腰を掴む必要ある?」
「揺れる」
「手すりあります」
「遠い」
「俺の腰より近いです」
カイは手を離さなかった。
向かいに座る副官エリオットが窓の外だけを見ている。
絶対聞いている。
「エリオット」
「何も聞いておりません」
「まだ何も聞いてない」
「失礼しました」
俺は顔を覆った。
王都から北へ進むにつれ、景色は変わる。
麦畑が減り、黒い針葉樹が増えた。街道脇には古い見張り塔。ところどころ壁に剣傷が残っている。
「ここ、戦場だった?」
「ああ」
カイの返事が短い。
俺は窓の外を見る。
街道沿いの小さな墓地から、無数の白い糸が立ち上がっていた。
死にかけた人の糸は白くなる。
死ねば、普通は見えなくなる。
なのに墓から白い糸が伸びている。
「止めて!」
御者が馬を止める。
俺は飛び降りた。
「ノア」
「墓から糸が出てる」
カイも降りる。
墓石は十二。
日付は九年前から四年前。北境戦争の兵士たちだ。
糸は全部、北へ向かっている。
「同じ方向だ」
俺たちの銀赤から伸びた透明な糸と。
墓石の一つに名前があった。
ユリウス・ヴァルクハイト。
カイが動かなくなった。
「知ってる人?」
聞いた瞬間、答えを間違えた気がした。
カイは墓石を見たまま言う。
「兄だ」
風が針葉樹を揺らした。
俺は初めて、カイに兄がいたことを知った。
昼過ぎ、馬車が旧戦線を横切った。石造りの農家の壁には、砲撃で欠けた跡がそのまま残されている。修復しなかったのかと思ったら、道標に「戦争記憶保存区」と書かれていた。
「残すんだ」
「忘れないためにな」
カイは窓の外を見たまま答える。
その横顔に、俺の知らない八年間がある。
恋人になったからといって、過去まで共有したわけじゃない。それを当たり前だと思っていたのに、今は少しだけ悔しい。
「何だ」
「見てただけ」
「糸を?」
「顔を」
こっちを向いた。
「何か付いているか」
「付いてない。格好いいなと思って」
エリオットが今度こそ小さく咳き込んだ。
カイは数秒固まり、それから窓へ戻った。
耳だけ赤い。
「……突然言うな」
「さっき家であなたもやった」
仕返しは成功した。
でも墓地でユリウスの名を見つけた瞬間、その小さな勝ち誇りは消えた。カイの銀赤以外の糸が、ほんのわずかに震えたからだ。




