第51話 北へ伸びる糸
北へ伸びる光は、朝になっても消えなかった。
銀赤の糸から枝分かれした、ほとんど透明な一本。
窓辺に立つ俺の胸からカイへ、カイからさらに北へ。そんなふうに見える。
「昨日より濃い」
言うと、背後で食器の音が止まった。
「距離は」
「分からない。王都の外。かなり遠い」
「痛むか」
「今は別に」
振り向く。
カイは朝食のパンを切りながら、もう出発する顔をしていた。
「その顔やめて」
「どの顔だ」
「三十分後に馬車を出す顔」
「一時間は必要だ」
「ほら」
俺は椅子に戻った。
特殊命糸事案対策室が正式に動き出して三日。主任鑑定官になったばかりなのに、もう出張らしい。
「北って、どの辺?」
「ヴァルクハイト領の可能性が高い」
パンを持つ手が止まる。
「あなたの領地?」
「ああ。北境戦争の旧戦線も含む」
初めて聞いたわけじゃない。
カイが十九から二十七まで北で戦っていたことは知っている。
でも彼は戦争の話をほとんどしない。
「行きたくない?」
聞くと、灰色の目がこちらを見る。
「行く必要があるなら行く」
「必要じゃなくて、気持ち」
少し間があった。
「好きではない」
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
聞けるようになったからこそ、聞かない方がいい時も分かる。
食後、王宮から正式な命令書が届いた。
北境の町レグナで、不可解な集団失踪が続発。
失踪者は三十二名。
全員、夜になると家族の名前を呼びながら北の森へ歩いていったという。
そして最後の一文。
――失踪者のうち七名は、死亡届が出ている。
「死んだ人が失踪?」
「書き間違いか」
「だったら平和なんだけど」
俺は命令書から顔を上げた。
透明な糸が、北へ強く張った。
まるで。
向こう側から、誰かが引いたみたいに。
出発の支度をしながら、俺は新しい辞令を鞄に押し込んだ。主任鑑定官。肩書きだけなら立派だが、部下はまだ二人、執務室は元倉庫、予算は財務官と三回喧嘩してようやく机が増えた程度だ。
「新部署、初仕事が死者の失踪って縁起悪くない?」
「お前の部署に縁起を求めるな」
「上司が言う?」
玄関ではミラが荷物を確認していた。薬、保存食、毛布、命糸記録用の硝子板。最後に彼女は俺の首へ厚い襟巻きを巻いた。
「北は王都より十度は寒いです」
「母親みたい」
「ノア様が子供みたいなんです」
カイが横から頷く。
「そこ同意しないで」
笑いながら馬車へ乗る直前、俺は屋敷を振り返った。あの事件のあと、ようやく「帰る場所」になった家を、こんなに早く離れるとは思わなかった。
カイが隣で立ち止まる。
「帰ってくる」
「分かってる」
「言っておきたかった」
俺は少しだけ笑った。
「じゃあ、帰ってこよう。二人で」
銀赤の糸が一度だけ脈打った。
出発命令書の裏には、現地から送られた失踪者一覧が付いていた。年齢も職業もばらばらだ。十五歳の見習い鍛冶、六十七歳の助産師、退役兵、パン職人。七人の死亡届だけが赤い印で囲まれている。
「死人だけの事件じゃない」
「最初からそう見ている」
カイは一覧を折らずに革鞄へ入れた。戦場の話を嫌う男が、北へ行く準備だけは異様に早い。革鞄の留め具を確認する指に、迷いだけがない。
玄関を出ると、秋の王都はまだ暖かかった。北へ行けば雪になる。季節を何週間も飛び越えるような旅だ。
俺は胸の透明な枝糸を見た。昨日より確かに濃い。向こうからこちらを見つけようとしているみたいだった。




