第46話 俺を見ろ
十一度目の鐘。
黒刃がカイの肩を裂いた。
血が飛ぶ。
「カイ!」
「前を見ろ、ノア!」
彼は振り返らない。
剣を逆手に持ち替え、エドガーの第二撃を受ける。
「俺を信じろと言った!」
叫ばれる。
怖い。
見たい。
でも、俺は核へ向き直った。
「分かった!」
残りの人間糸は三割。
十二度目まで時間がない。
俺は固定具を一本抜き、位置を変える。
術式の流れが歪む。
「教授!」
「何じゃ!」
「黒糸だけ固定できる?」
「理論上は!」
「今それ一番嫌な言葉!」
「やれと言ったのはお前じゃ!」
教授が触媒を投げる。
俺が受け取り、核の側面へ打ち込む。
黒い層だけが一瞬止まった。
「今だ!」
人間の糸をまとめて引く。
痛くない。
でも重い。
腕ではない。
頭が千人分の名前を一度に抱えるみたいに重い。
エマ。
セシル。
知らない子供。
知らない夫婦。
全員に生活がある。
「戻れ!」
俺は叫ぶ。
糸の束が核から抜け、天井を突き抜けるように王都へ散っていく。
十二度目の鐘。
街中の糸が一斉に震える。
エドガーが怒鳴った。
「なぜだ!」
初めて、声が崩れた。
「なぜ苦しみに戻す!」
「本人が選ぶからだ!」
「選べば失う!」
「そうだよ!」
俺も怒鳴り返す。
「だからって、最初から何も持たせない権利はあんたにない!」
最後の束。
抜けない。
黒糸の芯に絡みついている。
そこへ、銀赤の糸と同じ色の残滓が見えた。
「……これ」
十年前のもの。
PAIR-07。
俺とカイの実験記録が、核の最深部に残っている。
エドガーは最初から、俺たちの異常な糸を完成の鍵にするつもりだった。
「カイ!」
「何だ!」
「核の中に俺たちの術式がある!」
「どうする」
「逆に使う!」
銀赤の糸へ両手で触れる。
自分の命ではない。
二人の間に積み上がったもの。
雨の日。
喧嘩。
朝食。
手。
名前。
選んだ時間。
「カイ、俺を見て!」
今度は俺が叫ぶ。
戦闘中の男が一瞬こちらを見る。
灰色の目。
「信じて」
「ああ」
それだけ。
銀赤の糸を核の芯へ通す。
黒い術式が反発する。
でも、これは教団が作った線じゃない。
俺が十年前に結び、二人で十年かけて太くした線だ。
「ほどけろ!」
黒い芯が裂けた。
最後の人間糸が抜ける。
「今!」
カイが動く。
エドガーの刃を弾き、懐へ入る。
エドガーが最後の黒刃を七本同時に放った。
普通なら避ける。
カイは前へ出た。
一振り目で三本。
二振り目で二本。
六本目は肩を掠める。七本目だけが俺へ向かう。
「右、半歩!」
俺の声と同時に、カイの身体が滑った。
黒剣の切っ先が最後の一本を下から跳ね上げる。
刃はそのまま止まらない。
エドガーが防御へ上げた腕の外側、術式だけが走る場所へ正確に入った。
肉を深く斬らず、黒い紋様だけを断つ。
最強なのは、殺せるからじゃない。
殺さずに必要なものだけを斬れるからだ。
俺は息を呑んだ。
カイがさらに一歩、懐へ入る。
一撃。
仮面が割れる。
初めて男の顔が見えた。
老いていない。
でも、生きてもいないような顔。
「十三!」
教授が叫ぶ。
十三度目の鐘。
カイの剣が核を貫いた。
音が消えた。
次の瞬間、光が爆発した。
金。
青。
赤。
白。
紫。
名前のない色。
王都二十万人分の縁が空間を満たす。
俺は膝をついた。
カイが受け止める。
「終わった?」
「まだだ」
エドガーが立っていた。
仮面はない。
身体から黒い亀裂が広がっている。
「なぜ」
彼は俺を見る。
「縁は、苦しみしか生まない」
「違う」
「私は見た。妻が死んだ。息子が死んだ。救えなかった」
「だから苦しかったんでしょう」
「そうだ!」
「愛してたから」
エドガーが止まる。
俺は立ち上がる。
「忘れたかったんじゃない。戻ってきてほしかったんでしょう」
男の顔が初めて歪んだ。
「……黙れ」
「全部切ったのに、三十年その話してる」
「黙れ」
「忘れられてないじゃん」
黒い亀裂が胸まで上がる。
「だったら」
声が小さくなる。
「どうすればよかった」
答えられない。
簡単な正解なんてない。
「分からない」
俺は正直に言う。
「でも、他人の人生まで消すことじゃなかった」
エドガーは笑った。
泣いているようにも見えた。
「若いな」
「二十四なので」
「そういうところだ」
最後に彼はカイを見る。
「また失うぞ」
カイの腕が俺の背へ回る。
「それでも持つ」
迷いのない声。
エドガーの身体が黒い塵になって崩れた。
何も残らないと思った。
でも床に、小さな金色の糸の欠片が落ちた。
誰かとの縁の残滓。
妻か。
息子か。
俺には分からなかった。
礼拝堂の奥から騎士たちがラウルを連れてくる。
「彼は?」
「終わった」
ラウルが目を閉じる。
「そうか」
カイが前へ出る。
「今度こそ裁判を受けろ」
「ああ」
拘束具がラウルの手首にかかる。
その瞬間。
俺には見えた。
ラウルからカイへ、細い青い糸が戻る。
「カイ」
「何だ」
「戻ってる」
「何が」
「糸」
彼の周りを見る。
一本。
二本。
三本。
王都のどこかへ向かって、失われた糸が少しずつ戻っている。
全部じゃない。
十年は簡単には埋まらない。
それでもゼロじゃない。
「戻ってるよ」
声が震える。
カイは糸を見ない。
俺を見る。
「そうか」
「もっと喜んで」
「喜んでいる」
「顔」
「出ない」
「今、俺泣きそうなんだけど」
「なぜお前が泣く」
「知らない」
言ったら本当に涙が出た。
カイが困った顔をする。
「どうすればいい」
「……抱きしめて」
腕が回る。
でも今日は急すぎると思わなかった。
胸に顔を埋める。
「カイ」
「何だ」
「戻った糸、いっぱいある」
「ああ」
「俺とのは、一番太い」
腕の力が少し強くなる。
「それは、嬉しい」
初めて。
彼がそう言った。
勝ったからじゃない。
カイの肩から、力が抜けた。
遠くで誰かが泣き、別の誰かが笑った。
鐘はもう鳴らなかった。




