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第45話 十三の鐘

 期限の日。


 旧王都地下礼拝堂は、十年前の記憶よりずっと広かった。


 いや、広いんじゃない。


 壁が消えている。


 黒い糸が石壁の境界を覆い、空間そのものが暗闇へ繋がって見える。


 中央には巨大な核。


 人の背丈より大きい黒い球体が、脈打つたびに王都方向から無数の糸を吸い込んでいる。


「来たか」


 白い仮面の男――エドガー・セインが祭壇の前に立っていた。


 ラウルはいない。


「名前、分かりましたよ」


 俺が言う。


 仮面の奥で目が細くなる。


「ラウルか」


「あなた、三十年前に死んだことになってる」


「死んだよ」


 静かな声。


「妻と息子を失った日に」


 教授が前へ出る。


「エドガー。まだ戻れる」


「戻る?」


 仮面の男が笑う。


「誰のところへ」


 その一言だけで、三十年分の空洞が見えた気がした。


 でも同情はしない。


「だから王都全員から縁を奪う?」


「奪うのではない。解放する」


「本人に聞いた?」


「苦しみの中にいる者は、鎖を愛情と呼ぶ」


「じゃああなたが決めるんだ」


「私には分かる」


「一人になったから?」


 仮面の奥の目が、初めて揺れた。


 カイが剣を抜く。


 北境で《黒剣》と呼ばれた理由を、俺はこの日初めて目の前で知った。


 剣が黒いからじゃない。


 振ったあと、相手の攻撃だけが世界から消えたように見えるからだ。


 彼が手首の革紐へ親指をかける。三銅貨の触媒が銀赤に呼応した。


「ノア。死角を頼む」


 守れ、ではない。


 頼む。


「任せて」


 俺も同じ革紐へ触れた。


「行こう」


 遠くで鐘が鳴った。


 一度。


 黒い核が脈打つ。


 二度。


 床から黒糸が槍のように立ち上がる。


「散開!」


 カイの号令。


 騎士たちが三方向へ分かれる。


 俺と教授は中央後方。


 三度。


 黒い糸が天井から降る。


 カイの剣が一閃する。


 ただ切るのではない。


 黒糸が伸びる根元だけを斬り、味方へ触れさせない。


 二本、五本、十本。


 人間の動きじゃない。


 最強騎士という呼び名を、俺は初めて本当の意味で見た。


「左!」


 俺が叫ぶ。


 見えるのは糸の流れ。


 カイには見えない。


 でも俺の声だけで剣を振る。


 黒い槍が空中で砕ける。


「次、床!」


 跳ぶ。


 そのまま壁を蹴り、エドガーへ斬り込む。


 仮面の男も黒刃を出す。


 金属音が礼拝堂を震わせた。


 四度。


 五度。


 鐘が鳴るたび、王都から伸びる糸が黒く染まっていく。


 視界の端で、遠い誰かの金糸が薄くなる。


 母親が子供の名前を思い出せなくなる。


 そんな感覚が、糸越しに流れ込む。


「ノア!」


 教授の声。


 俺は我に返る。


「核を!」


 そうだ。


 敵を倒すだけでは止まらない。


 俺は核へ走る。


 すぐ黒い糸が足首へ伸びた。


「しゃがめ!」


 カイの声。


 反射で伏せる。


 頭上を剣圧が走り、黒糸をまとめて切る。


「今!」


 核へ触れる。


 瞬間、王都二十万人分の縁が頭へ流れ込んだ。


「――っ!」


 家族。

 友人。

 恋人。

 憎しみ。

 借金。

 約束。

 謝れなかった言葉。


 多すぎる。


 膝が落ちる。


「ノア!」


「来るな!」


 俺は叫んだ。


 今カイが俺へ触れれば、全部流れ込む。


 六度。


 七度。


 核の構造を見る。


 黒い術式と、人間の糸が完全に絡んでいる。


 このまま核を壊せば、市民の縁まで吹き飛ぶ。


「壊すな!」


 俺が叫ぶ。


 カイが剣を止める。


「理由」


「人の糸が巻き込まれてる! 先に剥がす!」


「できるか」


「一人じゃ無理」


 カイがこちらへ来ようとする。


「待って!」


 俺は命糸固定具を床へ打ち込む。


 三点。


 教授が叫ぶ。


「共鳴陣を作れ!」


「カイ、右手!」


 戦いながら彼が腕を伸ばす。


 指先だけが触れる。


 銀赤の糸が一気に太くなる。


 八度。


 俺は初めて、自分の能力を「見る」だけではなく、操作する。


 色で分ける。


 黒は術式。

 白は損傷。

 青金赤は人間の縁。


 一本ずつじゃ間に合わない。


 なら、束でほどく。


「教授、固定具を第二層へ!」


「できるのか!」


「やる!」


 九度。


 黒糸の束を逆流させる。


 初めての使い方。


 核が悲鳴のような音を出した。


 エドガーが振り向く。


「何をした」


「あなたが結んだ順番、逆にしてる!」


 黒糸が一本ずつ外れる。


 その分、俺の視界が焼ける。


「ノア、止めろ!」


 カイが叫ぶ。


「まだ!」


「血が出てる!」


 鼻から落ちた血が床へ落ちる。


「命は削ってない!」


「それでも止めろ!」


 約束。


 俺は一瞬止まる。


 呼吸を整える。


「あと十秒」


 カイの顔が歪む。


「十秒だけ」


「……分かった」


 彼が信じた。


 十度。


 残り三回。


 そこへエドガーが黒刃を振り切った。


 カイが受ける。


 床が割れる。


 十一度目の鐘が鳴った。


 俺の視界が一瞬、王都そのものへ開いた。


 屋根の下。地下室。病室。夜勤の厨房。誰にも見られていない場所で、人と人のあいだに無数の線が張っている。


 二十万。


 数えられる量じゃない。


 それでも全部が“誰か一人”から伸びている。


 俺は両手を核へ押しつけた。


「一人ずつは無理だ」


 なら、街を一つの束として見るのをやめる。


 家ごと。通りごと。名前を知っている者から知らない者へ。


 銀赤を足場に、視界の焦点を何度も切り替える。


 一本目の固定具が赤熱した。二本目がひび割れる。


「ノア、限界なら言え!」


「まだ!」


 初めて、自分の能力が怖いほど大きいと思った。


 でも同時に、初めて誇らしかった。


 俺は誰かの後ろに立つだけの鑑定官じゃない。


 この街の縁を、今ここで見分けられるのは俺だけだ。


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