第102話 切らない決着
保護区画の部屋に入ると、エレナは窓際に座っていた。
机の上には、薄い書類が一組置かれている。
「お待たせしました」
記録官が声をかけた。
エレナは立ち上がった。
「これが、決定書ですか」
「はい。国王の裁可を受けたものです。内容をご本人に確認していただきます」
彼女はすぐには手を伸ばさなかった。
「私が読んで、決めていいのですね」
「もちろんです」
「誰かが代わりに署名するのではなく?」
「あなたご本人の署名が必要です」
エレナは椅子に座り直した。
俺はその横に立った。
リヒトは反対側にいた。
記録官が一枚目を開いた。
「まず、RETURN-000に付与されていた管理上の権限を解除します」
「管理上の権限」
エレナが繰り返す。
「はい。研究院の管理者が、あなたを研究成果として扱うために使用していた権限です。ゲオルク・ハインツに与えられていた管理権限も、すでに停止されています」
「彼が、私を呼ぶときに使っていた番号ですね」
「そうです」
「私は、あの番号ではありません」
「そのとおりです」
記録官は次の項目を示した。
「王国の所有物として登録されていたRETURN-000の記載は、法的効力を失います。今後、あなたを王国の所有する研究成果として扱うことはできません」
エレナは紙面を見つめた。
「では、RETURN-000という記録は消えるのですか」
「いいえ。過去にその番号が使われていた事実は、調査資料として残ります。ただし、それはあなたの名前ではありません。王国があなたをどのように扱っていたかを示す記録です」
「私を忘れるために残すのではなく?」
「責任を明らかにするために残します」
リヒトが口を開いた。
「母さん。番号は残っても、母さんがその番号になるわけじゃない」
エレナがリヒトを見る。
「そうね」
彼女はゆっくり頷いた。
「次は、研究への参加についてです」
記録官が続けた。
「今後、あなたに対して研究や検査を行う場合、必ず本人の同意を得ます。同意しない場合、実施できません」
「途中でやめることも?」
「できます」
「一度同意したからといって、最後まで続けなければならないわけではないのですね」
「はい。あなたが希望を変えた場合も、その意思を尊重します」
エレナは一度だけ目を閉じた。
「三十年間、そんなことを聞かれたことはありませんでした」
誰もすぐには答えなかった。
俺も言葉が出なかった。
彼女が何度逃げようとしたのか。
何度記憶を処理されたのか。
どれだけの時間、自分の意思を無視されてきたのか。
俺たちは、全部を知っているわけではない。
「記録の閲覧については?」
エレナが尋ねた。
「あなた自身に関する記録は、本人の権利として閲覧できます。第三者の個人情報や、現在も保護が必要な人の情報については、必要な範囲で保護措置を取ります」
「私のことなのに、私が読めない部分があるのですか」
「あなた自身の記録については、原則として閲覧できます。ほかの被害者の情報まで無制限に公開することとは別です」
エレナは少し考えた。
「それなら、分かりました」
最後に、保護区画の条件が確認された。
扉は内側から開く。
研究参加は本人同意。
記録閲覧権は本人が持つ。
保護は拘束ではない。
「この扉は、私が外へ出たいと思ったときに開けられるのですね」
「はい」
「誰かに許可をもらわなくても?」
「はい。安全上の案内や支援は行いますが、外へ出ることを管理者が拒否することはできません」
エレナは、部屋の扉を見た。
そして自分で立ち上がり、取っ手に手をかけた。
扉は開いた。
ただ、それだけのことだった。
けれど、彼女が自分の手で開けた扉だった。
「これでいいです」
エレナは席に戻った。
署名欄にペンを置く。
「エレナ・セイン」
彼女は自分の名前を書いた。
番号ではない。
研究成果でもない。
誰かの所有物でもない。
一人の人間の名前だった。
記録官は署名を確認し、決定書を受け取った。
「これで、所有登録は無効となります。過去の管理記録は証拠として保存されますが、あなたを管理する権限はありません」
「ゲオルクにも?」
「ありません。彼の管理者権限は停止されています。今後の処分は、別途進められる責任追及によって判断されます」
「そうですか」
エレナは小さく息を吐いた。
リヒトが彼女の隣へ移動する。
「母さん」
「なあに」
「外を歩きませんか」
「ええ」
彼女は立ち上がった。
リヒトの金色の糸は、まだ細いままだった。
30年分の時間が、一度に戻ったわけではない。
名前を確かめる。
昔の話をする。
覚えていることと、覚えていないことを、一つずつ確かめる。
それだけで、結び目が一つずつ増えていく。
「リヒト」
「はい」
「あなたが、私を探してくれたのね」
「はい」
「ありがとう」
「僕のほうこそ」
彼は少しだけ俯いた。
「もう一度、母さんと呼べると思っていなかった」
エレナが彼の手を取った。
「何度でも呼んでいいのよ」
俺はその二人を見ていた。
彼女は生きている。
息子も、ここにいる。
金色の糸は細い。
それでも、切れていない。
誰かに命令されて結ばれたものではなく、二人が自分の名前を確かめながら結んでいるものだった。
王国が彼女を所有することは、もうできない。
零番という番号は、彼女の未来を決めない。
俺たちは二人の後ろを歩いた。
開いた扉を、誰も閉めなかった。




