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02-善意の対価は、あまりにも安い

 夕食を終えた俺は、宿の裏手にある共同浴場で汗を流した。


 石造りの小さな浴槽は、壁に埋め込まれた火属性の魔石で温められている。


 初めて見たときには魔法文明すげえ、と素直に感動したものだが、ひと月も暮らせば感想も変わる。


 今日は少しぬるい。


「これ、もっと熱くできないのか」


《可能です》


 反射的に返事が来たので、俺は湯に浸かったまま天井を見る。


「……自分で調べれば分かる?」


《はい》


「じゃあいい」


 浴槽の端に、火力調整用らしき金具があることには気づいていた。

 むしろ明日にでも女将へ聞けば済む。


 こういう判断ができるようになるまで、300年分の寿命を使ったことになる。

 正確には302年104日と少々だ。


 風呂を出て2階の部屋へ戻ると、今日持ち歩いていたものを机へ並べた。


 数枚の銅貨。

 小さなナイフ。

 紙片。

 何かに使えると思って拾った紐。

 それから、この世界では一銭にもならない財布とスマートフォン。



 電池の切れた黒い板を手に取った。


 カードも紙幣も免許証も役には立たない。

 それでも捨てる気にはなれなかった。

 

 俺が別の世界から来たことを示すものは、もうこれくらいしかない。


 スマートフォンを机の隅へ戻してから、寝台へ腰掛けた。



「なぁ、精算期限まであと何日だっけ?」


《三百六十日です》


 ――約1年。

 その数字を聞くたび、胃のあたりが重くなる。


「期限が来たら、未精算残高とやらが俺の生命時間から取られるんだよな」


《はい。未精算残高に相当する生命時間が差し引かれます》



「俺はあと何年生きられるんだ?」


《健康的な生活習慣は、長期的な生命維持に寄与します》



 またこれだ。



「健康相談してねえんだよ。俺自身の残り寿命を聞いてる」


《十分な睡眠、適切な食生活、定期的な運動を推奨いたします》



「300年分の寿命が引かれて、生きてられるとでも思ってるのか?」


《将来の生命活動について保証はいたしかねます》



 いつも通りの返事に俺は思わず鼻で笑った。



「普通、死ぬだろ」


《健康的な生活習慣を推奨いたします》



「健康に気をつけたら300年くらい伸びるのか?」


《健康維持に関する情報をご希望でしたら――》



「いらん」


《承知いたしました》


 こいつは、俺自身の寿命についてだけ妙にはぐらかす。

 理由を聞くこともできるのだろう。

 ただし有料で。


 そして、その答えにどれほどの情報価値があると判定されるか分からない。


 怖くて聞けない。


 だから今の俺にできるのは、300年分の『寿命』を1年以内に返済すことだけだった。


 方法は聞いている。


 コイツを利用して発生した対価である俺の寿命は、他人からの『真正な正感情』とやらで相殺できるらしい。



 要するに、他人から本気で感(・)謝(・)さ(・)れ(・)れ(・)ば(・)負(・)債(・)が(・)減(・)る(・)。



 それを知ってからというもの、俺は柄にもなく人助けを始めた。


 荷物を持ち、道を教え、迷子を送り、壊れた荷車まで直した。

 今日なんて朝からほぼ1日中だ。


 さすがに、それなりには減っているだろう。


 俺は机の上の銅貨を革袋へ戻しながら、できるだけ何でもないことのように言った。



「……精算」


《承知いたしました。本日分の返済実績をご案内いたします》


 待っていました、とでも言いたげな間でHELP機能が応じた。


 荷運び、道案内、迷子の保護、荷車の修理。


 それぞれから発生した真正な正感情が読み上げられていく。


 数字を聞きながら暗算しようとしたが、途中でやめた。

 最後にまとめて聞けばいい。



《以上を合算し、本日の返済額は生命時間換算で三時間四十一分となります》


 革袋の口を縛っていた手が止まった。


 聞き間違いかと思ったが、確認すれば料金がかかる。


 なので慎重に、別の聞き方をした。



「今の数字、単位は?」


《時間です》



「日じゃなくて?」


《はい》



「朝から働いてたよな、俺」


《行動履歴上はそのように確認できます》



「果物屋の親父とか、かなり感謝してたよな」


《真正な感謝が確認されています》



「迷子の母親なんか泣いて喜んでいたぞ」


《真正な感謝が確認されています》



「それら全部合わせて?」


《三時間四十一分です》



 俺は静かに革袋を置いた。

 ここで怒っても残債は減らない。


 深く息を吸い、302年と3時間41分と言う数字を頭の中に思い浮かべて……やめた。


 比較する意味がなかった。



「……こんなんで300年分、返せるかよ」


《現在の返済効率を基準とした完済予測期間を算定可能です》


 俺は顔を上げた。



「絶対いらない」


《承知いたしました》



「どうせ絶望的な数字なんだろ」


《回答をご希望ですか?》



「その手には乗らねえよ」


《承知いたしました》


 こいつ、やっぱり人格あるだろ。


 俺は深いため息をついて、狭い部屋を見回した。


 壁には染みが浮き、隣からは男のいびきが聞こえている。


 窓を開ければ酒場帰りの酔っ払いが騒ぐ声まで入ってきた。



 1年後には、300年分の生命時間を請求される。


 その返済のため朝から人助けをして、今日減ったのは3時間41分だけだ。



 善行を積み重ねればどうにかなる、なんて考えが甘かったらしい。



 もっと大きい何かが必要だ。

 道案内でも荷運びでもない。

 誰かが心の底から、こいつに助けられた、と思うような――。


 ――コン、コン。


 俺の思考を遮るように扉がノックされた。

 こんな時間に誰だ。


 女将ならノックと同時に入ってくるし、この世界で俺の部屋を訪ねてくるような知り合いはまだほとんどいない。



「……誰だ?」



 返事はない。


 しばらく待っていると、今度は遠慮がちに3度ノックされた。



 仕方なく立ち上がって扉を開けた。



 そこにいた女を見て俺は一瞬だけ言葉を失った。

 まず、この宿には似合わない見た目だった。



 深く被ったフードの下から淡い金色の髪がこぼれていた。


 外套には泥が跳ねていたが、生地そのものは俺でも分かるくらい上等なものだろう。



 そして、かなりの美人だった。


 警戒するより先に胸元へ目が行ったことについては、男なので許してほしい。



 女は一度だけ背後の廊下を確認すると、意を決したように俺を見上げた。




「あの……こちらに、人捜しをしてくださる方がいると聞いたのですが」



 人捜し。

 まだ看板すら出していないのに、俺の話をどこから聞いた。


 そう問い返そうとして、やめた。


 目の前の女は明らかに困っているようで、憔悴しているようにも見えた。


 どうも、ただ知り合いと連絡がつかない、という程度の顔ではない。




 さっき聞いたばかりの「3時間41分」と言う数字が頭をよぎった。


 この先、荷車を10台直しても、迷子を100人送り届けても、300年分にだ到底届かない。



 だったら――。




「……とりあえず、話を聞こうか」


 俺が身体をずらして部屋へ招き入れようとすると、頭の中でHELP機能が静かに告げた。



《その判断を推奨いたします》


「お前に突然そう言われると不安になるからやめろ」


「……え?」


「いや、こっちの話」



 不思議そうな顔をする女へ椅子を譲り、俺は寝台の端に腰を下ろした。



 このときの俺はまだ知らなかった。


 朝から善人の真似事をして3時間41分しか稼げなかった俺が、この女の持ち込んだ件をきっかけに、もっと効率のいい返済方法を知るることになる。




 そして――。


 300年分の借金を返すために始めたそれが、いつの間にか俺の仕事になることも。


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