憑依者は逃げ出す
突然の提案にジェーンは目を見開いた。
「国中の人たちは愚か領地に住む人たちを賄うほどの蓄えはないが、それでも十分稼いだ。二人の逃走資金くらいはあるだろう」
「……でも、……私は……」
ジェーンは戸惑っていた。前世の名前を呼んだカイラスは、一切の冗談を言っているようには見えなかったからだ。
いつも感情を表に出さない、宝石のように綺麗な瞳。その奥にはジェーンも戸惑うほどの感情が渦巻いている。
「王子がジェーンに敵意を抱いているという事は、断罪劇だってジェーンが知っているタイミングで行われるとは限らない。なにより、ジェーンが不安に思っていることが僕は嫌なんだ」
カイラスは動揺するジェーンに近付くと腕を伸ばし、そっと優しく引き寄せるように抱きしめた。
「……逃げよう、僕と一緒に」
カイラスはジェーンの耳元で囁いた。普段の彼からは想像もつかないほど、低く、甘く、そして有無を言わせない強引さを含んだ声。そんなカイラスにジェーンは思わず不安な気持ちを忘れ、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「っ…!」
【……か、かっこい……いや、待って!キャラ崩壊してない!?こんなキャラじゃなかったよね!?】
成長してから攻略対象として、それはもう素晴らしい成長をしたと普段から思っていたジェーン。あまりにも素敵な成長と同時に、弟という姉に甘えるカイラスの姿も可愛く、毎日のように胸をキュンキュンとさせていたが、この時ばかりは違った。
ジェーンの心臓がバクバクと暴れ出す。ついでに頭で湯が沸きそうな比喩表現も本当かもしれないと思うほどに、顔を真っ赤に染めていた。
脳内で慌てふためくジェーンの心の声は、ジェーンを抱きしめていることで確認することは出来ないが、それでも首まで真っ赤に染めているジェーンが何を考えているのか察しが付くカイラスはふと笑った。
「ぁ……か、カイ!私、私は―」
ジェーンが言いかけたその時だった。
―ガシャン!!
なにかが割れる音が耳に入る。
ジェーンは思わずカイの体を押しのけると、真っ赤な顔で周りを見渡す。 高い生垣で何もわからなかったが、それでも騒ぎ立てる声が校舎の方から聞こえてくることもあり、ジェーンは「行ってみよう!」とカイラスに告げると走り出した。
【ああああ!!!やばかった!本当に!!】
【あんなん断れるわけないじゃん!なんなのあの色気!ヤバすぎるでしょ!!カイってば私をどうしたいのよ!】
【本当に邪魔が入ってよかった!…って邪魔って違うでしょ!助けよ助け!バカバカバカバカ!】
後姿でも心の言葉を見ることが出来るカイラスは、ジェーンの様子を見て嬉しそうに口元が緩む。
今まで可愛いという理由でジェーンをときめかせることが出来ていたが、今回は明らかな変化を見せたジェーン。どう考えてもカイラスのことを一人の男として意識したわかる反応と心の言葉に、カイラスが嬉しく思わないわけがなかった。
カイラスは走るジェーンを追いかけるために足を動かした。
あっという間にジェーンの横に並び、ニコニコと普段のカイラスからは想像できない満面の笑みをジェーンに向ける。
するとジェーンはそんなカイラスに再び顔を真っ赤に染めて、更に走るスピードを上げたのだった。
◇
ジェーンとカイラスは騒ぎの元へと駆け付ける。
人が集まりがやがやと騒ぎ立てていた為、詳しい場所を知らずともすぐ辿り着くことが出来た。
「あの……なにがあったのですか?」
ジェーンは野次馬のように様子を窺う一人の生徒に話しかけた。生徒が言うには薬物に触れようとした女子生徒が誤ってガラス瓶を割ってしまったという。何故薬物に手を伸ばしたのか、その理由はわからないが、その薬物は皮膚をかぶれさせることが出来るようで、薬品を被った女子生徒を通りかかったアリスが抱え上げて医務室へと連れて行ったと話した。
ならば何故まだ人だかりが出来ているのかと尋ねれば、管理していた教師が号泣しているのだという。
「……なんで?」
令嬢らしからぬ言葉遣いのジェーンにギョッとしながらも生徒は答える。
「さあ……、ですが意図していなかったとしても貴族令嬢を傷つけてしまったのです。流石に責任を取らなければと嘆いているのではないでしょうか?」
「………本当に、そうなのか?」
カイラスは人と人の隙間から様子を窺うとそう疑問を口にした。「どういうこと?」とジェーンは尋ねた。
「あの教師、薬品を片付けもせずに眺めているんだ。令嬢を傷つけた責任に嘆いているのならば、薬品を片付け医務室へと向かうだろう?皮膚をかぶらせるのなら、その度合いによって要求事項が変わるからな」
「確かにそうね。じゃあ根っからの研究者ってことかしら。大切にしていた薬品が台無しになったから……」
「その線の方が濃厚かもな」
カイラスはなんてことない事件に「戻ろう」と告げる。ジェーンも既にアリスが女子生徒を助け、残されたのは泣いている教師だけという事で、作中のイベントと関係なさそうな事件に踵を返そうとした。
だが何の運命か、婚約者であり、そして後にジェーンを断罪するシグルド第二王子が現れる。
「やはりお前か、ジェーン!」
低く、怒気を孕んだ声が人だかりを割って響いた。
振り返ると、そこには端正な顔を怒りに歪ませた第二王子、シグルドがいた。背後には、第二王子を護衛するギルバートが慌てた様子でやってくる。だがアリスの姿がないことから、アリスは今も女子生徒の傍についているのだと推測出来た。
「……騒ぎが気になって、様子を見に来ただけですが……」
シグルドの放つ威圧感にジェーンが眉をひそめると、シグルドは容赦のない鋭い視線を向けた。
「白々しい。すべて聞いたぞ。被害に遭った令嬢からな」
「………一体どういうことですか?」
「お前に脅されて、アリスの鞄に薬品を染み込ませたハンカチを仕込もうとしたと。だから薬品を盗もうとしたといったのだ」
「……は?」
ジェーンが呆気にとられる中、シグルドは懐から布切れを取り出し、ジェーンの前に叩きつけるように提示した。それは間違いなくジェーンのイニシャルが刺繍された、彼女自身のハンカチだった。
「その令嬢は、お前に命じられて、泣く泣くこの肌をかぶれさせる薬品を染み込ませたハンカチをアリスの鞄に忍び込ませようとしたのだ。すべてはアリスに罪を着せ、陥れるためにな!だが、令嬢は罪悪感から手が震え、誤ってガラス瓶を割って薬品を浴びてしまったのだ」
シグルドの言葉に、周囲の野次馬たちが一斉にざわめき立つ。
なるほど、とジェーンは脳内で状況を整理した。
【つまり、姿も知らない令嬢はおそらくセリア様の取り巻きの一人。私を陥れるための偽装工作と、ついでにアリスを痛めつけようとした結果、自爆したってことね。それをこの王子は「私が令嬢を脅して実行させた」と誤認している。と】
「待ってください。私はそんな指示などしていません。そのハンカチも、いつの間にか紛失していたもので――」
「またそれか。つい最近、お前の髪飾りも紛失したと都合のいいことがあったな。だがそんな言い訳はもう通じない!実行犯の証言もあるのだぞ!嫉妬に狂い、罪のない令嬢まで巻き込んでこんな卑劣な騒ぎを起こすとは……」
「馬術授業の件も、怪しいものだ」と厳しい視線を向けるシグルドに、ジェーンは内心で溜め息をついた。
「馬術授業の件は学園に調査をお願いしております。この事件とは関係ありませんし、私の髪飾りの件だって既に解決していることでしょう」
「私は認めた覚えはない!」
「っ」




