02 奄美剣星 著 『エルフ文明の暗号文 32』
【梗概】甲殻虫が襲来し新大陸植民地辺境部が蹂躙される。港湾都市ダンケルクに集結した将兵33万を対岸にある要塞島ドーバーに脱出させることにシナモン少佐は成功する。そこへ飛行船でやってきた本国・ヒスカラ王国のオフィーリア女王が、新たなる勅命をレディー・シナモンに下す。ドンファン副王、バステト大尉、そして少佐とドロシー博士は、甲殻虫を操る演算装置のある地下〝霊廟〟に突入すべく、カーチス飛行機に乗って、ダンケルクに舞い戻った。
32 感謝
教会の廃墟地下。何世紀もの星霜に耐えてきた頑強な岩盤をくり抜いて作られた施設全体が、突如として五臓六腑を震わせる轟音に包まれた。地下空間全体が激しく上下に揺さぶられ、古代の灯火を反射して怪しく輝いていた結晶体の天井から、無数に尖った鋭利な破片が凶器となって降り注ぐ。
「何事だ、地上で何が起きている!」
少尉の軍服を着た長い黒髪の私――ドロシー博士は、悲鳴まじりの声を上げながら、これまでの研究成果が詰まった貴重な計測器を我が身で覆い庇った。
すると傍らで、すでに人間の形を失い、硬質な甲殻と蠢く軟体触手からなる異形の生命体へと変異を遂げたアベラールが、不気味な複眼を明滅させた。彼は地上の光景を見通すかのように、忌々しそうに崩落しかけた天井の隙間から、遥か上空を仰ぎ見た。
「……連合種族帝国の黒い飛行船団だ。奴ら、この施設ごと我々を塵にする気のようだな。どこまでも愚かで、傲慢な奴らどもめ」
顔だけがアベラールの面影を残す異形生物。その歪んだ口元から漏れる声には、どこか昆虫の羽音めいたものがあった。
上空からは、重厚で冷徹な金属の駆動音が、地響きとなって足元から伝ってくる。
帝国の飛行船は、大型のもので二百メートル級。ブリキの装甲に覆われ、船体内部の複数の気嚢には不燃性のヘリウムが充填されている。高射砲の焼夷弾が命中したところで、爆発を起こすことはない無敵の要塞だ。帝国の司令官は、我がヒスカラ本国がこの地下で「旋律の武器化」という禁忌の研究を進めていることをとうに察知していたのだろう。それが完全に完成し、手に負えなくなる前に、圧倒的な火力で消滅させようという腹積もりに違いない。
だが、彼らが上空から投下したのは、単に建造物を破壊するための爆弾だけではなかった。大気中の周波数を強制的に乱し、あらゆる通信ネットワークを遮断し、生者の精神を内側から粉砕する非道な兵器――「音響爆弾」である。
ドォォン、と鼓膜を直接引き裂くような、重苦しい低音が地下空間を直撃した。
「あ、あああ……っ!」
私は激しい吐気と、脳を太い針で何度も突き刺されるような激痛に襲われ、耳を押さえてその場に崩れ落ちた。視界が激しく明滅する。ふと目をやると、王女が眠るカプセルの強化ガラスに、稲妻のような激しい亀裂が走っていた。カプセルを満たす溶液が漏れ出し、彼女の穏やかだった脳波に致命的なノイズが生じたのだろう。次の瞬間、ガラスの向こうの王女の歪んだ唇から、狂気と悲鳴の混じった超高周波が放たれた。
黄金の髪を後ろで束ねた軍服姿の若い貴婦人、レディー・シナモンが火花の散る制御装置にしがみつき、必死にレバーを操作しながら叫んだ。
「おやめください! 王女の〝心核〟を完全に壊す気ですか!」
しかし、その願いも虚しく、第二、第三の爆撃が容赦なく降り注ぎ、地下の岩盤を削り取っていく。想像するだけで背筋が凍る。地上では今頃、この暴走した王女の旋律を受信して発狂した数千の甲殻虫たちが、敵味方の区別を失い、互いの肉を食い荒らす阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されているはずだった。
破滅的な状況の中、異形の甲殻虫と化したアベラールは、崩落する壁の影に身を潜めながら、歪んだ歓喜に震えていた。彼は王女の悲鳴から生じる莫大な負のエネルギーを、手元の結晶記録盤に貪欲に吸い取らせようとしていたのだ。
「素晴らしい……この『絶望の旋律』こそ、世界を我が手で滅ぼすための究極の武器になる。レディー・シナモン少佐、君はもう用済みだ」
「いいえ、終わらせませんわ」
突きつけられた絶望を拒絶するように、シナモン少佐は、煤と血に塗れた顔を上げ、凛とした力強い声で言い放った。
「ドロシー博士、バティスト大尉! このまま爆撃が続けば王女の意識は完全に砕け散り、エネルギーの暴走でこの新大陸そのものが、生命の住めない死の大陸になりましょう。上空にいる帝国の爆撃を止めなければなりません。……ここから私が、王女のパニックを相殺する『逆位相』の旋律を送り出します。どうか、そのための時間を稼いで!」
王女が眠るのは、ラグビーボールに似た大きさの珪素質の容器である。かつて月ほどの天体が衝突した際、その鉱脈に含まれていたという新大陸特有の金属――銀の系譜に連なりながらも、鍛えれば鉄より硬質化し、黄金のごとく錆びない特性から、本国アカデミーの研究者が〝ミスリル〟と呼ぶその幻の金属が、保護用のフレームとして容器を強固に支えていた。
爆撃の轟音が轟く合間、地下施設の片隅では、水車式計算機がカラカラと音を立てていた。潮流を利用し、甲殻虫の殻を削って作られたレコード盤が、逆位相の計算のために回り続けている。
「姫様。あんな、でかいだけの風船ども、俺が煙にしてやる」
姫様の傍らにいた偉丈夫、バティスト大尉が不敵な笑みを浮かべた。幾度も死線を潜り抜けてきた男の手に握られているのは、長年愛用してきたワルサーP38。プロップアップ式ショートリコイル機構やデコッキング機能、シグナルピンなどの最先端構造を備え、9mmパラベラム弾八発を装弾、有効射程五十mという驚異的な性能を持つ、彼が最も信頼する相棒だ。
「ドロシー博士、君はここで姫様を守ってやってくれ。ここからは俺の仕事だ」
飛行服を着た大尉は力強く瓦礫を蹴り、砂塵と崩落が続く闇の螺旋階段を、地上へ向かって一気に駆け上がっていった。
続く
【登場人物】
01 レディー・シナモン少佐:王国特命遺跡調査官
02 ドロシー・ブレイヤー博士:同補佐官
03 グラシア・ホルム警視:新大陸シルハ警視庁から派遣された捜査班長
04 バティスト大尉:依頼者
05 オスカー青年:容疑者。シルハ大学の学生。美術評論家。
06 アベラール:被害者。ジャーナリスト。洗濯船の貸し部屋に住む。
07 エロイーズ:被害者。アラスの寄宿学校教師。アベラールの妹。
08 シャルゴ大佐:シルハ副王領の有能な軍人。
09 フルミ大尉:ヒスカラ王国本国から派遣された連絡武官。
10 トージ画伯夫妻:急行列車ラ・リゾンで同乗した有名人。
11 サルドとナバル:雑誌社〈ラ・レヴュ〉報道特派員。記者とカメラマン。
12 フランクリン将軍(大将):ヒスカラ王国海外領土シルハ副王国駐留軍総司令官




