03 柳橋美湖 著 『八月のハムレット』
【梗概】
八月の終わり、下北沢の小劇場〝ステディオ21〟観劇デート。二人の初々しくも確かな絆がより深まってゆく。
八月終わりの土曜日は、小雨がしとしとと降っていて、肌に触れる空気が少しだけ涼しかった。
その日、私は小田急線の登戸駅のホームにきた。ベンチに腰を下ろして、傘を叩く小雨の粒をぼんやりと眺めていた時のこと、「おはよう、朋代さん」と、耳に心地よく響く穏やかな声が降ってくる。
顔を上げると、そこには私の目の前にすっと影が落ちていて、彼――城山さんが立っていた。二ヶ月前からお付き合いを始めた、私の大切な恋人。今年で三十歳になる彼は、私の職場がある新宿の高層ビル街の近くで、〝サンジェルマン〟というフレンチレストランを経営するオーナーシェフをしている。もともとは、私が仕事帰りの「ソロ活」で見つけたお気に入りのお店だった。それが今では、こんなふうに駅のホームで待ち合わせをする関係になるなんて、人生というものはどこでどう転ぶか分からない。
「おはようございます、城山さん。お待たせしてしまいましたかしら」
「ううん、僕も今着いたところだよ。少し肌寒いね、風邪をひかないといいけれど」
自分のことよりまず私を気遣って、優しく微笑んでくれる彼。そのあまりの真っ直ぐさが、なんだか私の胸の奥をひどく擽ったくさせる。気恥ずかしさを隠すようにして、私たちは滑り込んできた上りの準急列車に乗り込んだ。
小田急線の準急といえば、千代田線へと直通するあの鮮やかなエメラルドグリーンのカラーリングが特徴的だ。ぷしゅう、と静かに扉が横に開き、車内へと足を踏み入れる。どこか見慣れた、すっきりと清潔感のある内装が私たちを迎えてくれた。
車内は土曜日の午前中ということもあって少し混み合っていたから、私たちはサイドシートの前に並んで立つことにした。城山さんは細身のシルエットだが、やっぱり男の人なのだ。つり革を掴む手がすごく男らしくて格好いい。電車が揺れるたびに、さりげなく体で私を庇うように空間を作ってくれるその仕草に、私はまた、自分の心臓の音がひどく大きな音を立てているような錯覚に囚われてしまう。小雨に濡れた窓の外の景色がどんどん後ろへ流れていくのを眺めながら、準急列車は滑らかに加速して、私たちは最初の目的地である下北沢へと向かった。
「今日行く劇場、駅から少し歩くんだ。雨の中、連れ出しちゃってごめんね」
つり革を掴んだまま、城山さんが申し訳なさそうに視線を下げて私に話しかけてきた。
「いいえ、お散歩みたいで楽しそうですわ。どのくらい歩くのかしら」
「下北沢駅の南西口か東口からだと、徒歩で十三から十五分くらいかな。道のりにすると一キロメートルちょっと。もしお隣の世田谷代田駅の東口からなら十一分くらいで、八百から九百メートルってところだけど……今日は下北沢の雰囲気を楽しんでもらいたくてね」
「まあ、嬉しい。下北沢はあまり詳しくありませんので、とても新鮮です」
そんなふうにお喋りをしているうちに、列車はあっという間に下北沢駅へ滑り込んで、私たちは賑やかな南口商店街へと繰り出した。若者たちの流行りのお店や古着屋さんが並ぶ喧騒を通り抜けていくにつれて、不思議なことに、周りの賑やかな声が少しずつ、でも確実に遠ざかっていく。
二人、傘をさして辿り着いた先は、さっきまでの駅前の華やかさが嘘のように、驚くほどに閑静な住宅街だった。
「このあたりは、本当に静かですのね」
「そうなんだ。環七通りや梅ヶ丘通り、茶沢通りみたいな大きな幹線道路から一本奥へ入っているからね。車がすれ違うのがやっとという、静かな生活道路なんだよ」
城山さんの言う通り、きれいに舗装された濡れたアスファルトが、雨脚の落ち着いたしっとりとした光を反射していて、歩いているだけで心がしんと落ち着くようだった。
「あちらに見えるのは、緑道かしら」
「そう、北沢川緑道だよ。散歩にぴったりんだ」
すぐ近くを通る緑道から、雨に濡れた瑞々しい木々の匂いが、心地よくあたり一帯を満たしていた。
静かな住宅街をさらに奥へと進んだ先に見えてきたのは、昭和のモダニズムを感じさせる、すっきりとした白い近代建築風の建物だった。それこそが、今日のデートの本当の目的地である劇団21の本拠地、小劇場〝ステディオ21〟だった。
「あそこが今日の劇場だよ。僕の古い友人がここの団員でね。役者じゃなくて脚本家兼照明係なんだけど、今回は彼が初めて自分で脚本を書いたから、そのお祝いを兼ねて観劇しに来たんだ」
城山さんは、なんだか自分のことのように誇らしげに、愛おしそうに目を細めて教えてくれた。私を休日のデートに連れ出す口実を一生懸命考えてくれたんだと思ったら、彼の不器用な優しさがたまらなく愛おしく思えてくる。
劇場のすぐ横には関係者用の専用駐車スペースがあって、周辺には一軒家風のおしゃれなカフェ&セレクトショップ「ハイムッシュ」や、上品な低層マンションが並んでいる。演まではまだ一時間近くもあったから、私たちは劇場の狭い路地を挟んだ真向かいにひっそりと佇む、ひときわ異彩を放つ古い建物へ足を向けることにした。
「開演まであそこで少し時間を潰そうか。下北沢を代表する伝説的な純喫茶なんだ」
城山さんが相合い傘を傾けながら指差したのは、「世田谷 〝茉莉〟(まつり)」という一九六五年創業の歴史ある純喫茶だった。作家の森〝茉莉〟をはじめ、多くの文豪や演劇人に愛されてきた名店らしい。小雨を凌ぐため、私たちはその重厚な扉を叩いた。
そこは、蔦の絡まるレトロな木造二階建ての一軒家だった。古びた木の看板とレトロなランプに導かれて扉を開けると、チリンと小さなドアベルが優しく響く。
一階のキッチンを囲むカウンター席を通り過ぎ、私たちは非常に急な木製の階段を上って二階へと向かった。一歩足を踏み入れた瞬間、あまりの静寂と濃密な影に、私、本当に息を呑んでしまった。
「まあ……とても不思議な空間ですのね」
「驚いた? 昼間でもかなり暗いんだ。まるで昭和にタイムスリップしたみたいだろう」
彼の言う通り、小さな窓から差し込む小雨の光はかすかで、琥珀色のペンダントライトがわずかに空間を照らしているだけ。壁から低い天井にかけて、古い振り子時計やアンティークのキセル、古いカメラといった骨董品が、文字通り隙間なくびっしりとディスプレイされていた。まるで誰かの秘密基地に迷い込んでしまったかのような、心地よいおこもり感に満ちていた。
屋根裏部屋のように傾斜した低い天井の下には、列車のボックス席のように背もたれが高く仕切られた、コンパクトな木製の四人掛けテーブル席が並んでいる。全三十席ほどの空間を見回しても、大きなピアノを置くスペースなんてどこにもなさそうだった。ただただアンティークの柱時計が、チクタク……とノスタルジックな時を刻んでいる。大音量のジャズが流れるような尖ったジャズ喫茶ではなくて、店内に流れるのはごく静かなクラシックの調べだけだった。
私たちは向かい合って席についた。メニューをめくってみると、がっつりとしたお料理はないようで、ハニートーストなどの軽食が中心だった。
「僕はペーパードリップのコーヒーにするけれど、朋代さんはどうする?」
「私は、このお店の名物だという『あんみつ珈琲』をいただいてみようかしら」
「お、いいね。マスターが丁寧に淹れてくれるから、少し楽しみに待っていて」
開演までの小一時間。
チクタクと響く時計の音と、時折遠くの街から聞こえるボーンという柔らかな鐘の音を聞きながら、私たちは薄暗いランプの光の中で、周りの静寂に溶け込むようにそっと囁き合うように言葉を交わした。
しばらくして、私たちのテーブルに注文したものが運ばれてきた。
城山さんの前には、マスターが丁寧に淹れてくれた芳醇な香りのペーパードリップの珈琲。そして私の前には、楽しみにしていたお店の名物「あんみつ珈琲」がそっと置かれた。
「まあ……面白いですわね」
思わず声を漏らしてしまう。器の中には、涼しげな寒天と艶やかなあんこが美しく盛られていた。そこに、別添えの小さなピッチャーから、イタリアンローストの深い苦味が利いた温かい珈琲を贅沢に注ぎ入れる。
「どう? 口に合うといいんだけど」
城山さんが悪戯っぽく微笑みながら私を見つめているので、なんだか照れくさくなってしまって。スプーンですくって一口含んでみると、珈琲の鮮烈な苦味と、あんこの濃厚な甘みが口の中で絶妙に溶け合って、寒天のみずみずしさがそれを上品にまとめてくれた。
「とっても美味しいです。珈琲の苦みがあんこの甘さを引き立てていて、なんだか癖になりそう」
「よかった。朋代さんのお口に合わなかったらどうしようって、実は少し緊張していたんだよ」
三十歳の大人で、新宿のフレンチレストランで堂々と腕を振るうオーナーシェフの彼が、私の顔色を窺うようにしてホッとした息をつく。二カ月前にお付き合いを始めてから、彼はいつだって私を最優先に気遣ってくれる。その真っ直ぐな優しさに触れるたび、私の胸の奥は少しだけ甘酸っぱく、くすぐったいような気持ちで満たされるのだった。
「ねえ、城山さん。今日お祝いされるご友人は、どのような方なんですの?」
私はあんみつ珈琲をもう一口味わってから、気になっていたことを訊ねてみた。
「彼とは学生時代からの長い付き合いでね。普段はちょっと不器用で口下手なんだけど、ものづくりに対しては人一倍熱い男なんだ。いつもは劇団の照明係として裏方に徹しているんだけど、ずっと温めていた脚本が今回初めて採用されてさ。本当に僕も我がことのように嬉しいんだよ」
彼が本当に嬉しそうに語る様子を見て、お互いを深く尊重し合える素敵なご友人なのだと、私の心まで温かい気持ちで満たされた。
「そんな大切な節目に、私もご一緒させていただけて光栄ですわ」
「ううん、僕の方こそ。朋代さんと一緒に彼の晴れ舞台を観たかったから。……それに、こうしてデートをする理由が欲しかったのも本当だしね」
喫茶店の薄暗いランプの光の向こうで、城山さんがこれから観るお芝居のパンフレットをめくっていた。今回、彼のご友人が脚本を手がけた作品のベースになっているのは、あのウィリアム・シェイクスピアが千六百年頃に書き残した、世界で最も有名な悲劇『ハムレット』なのだという。
『マクベス』『オセロ』『リア王』と並ぶシェイクスピア四大悲劇の最高峰。文学史に残る名セリフの宝庫でもあるその傑作を、彼の友人がこの令和の時代にどう料理したのか。
お嬢様学校に通っていた頃、文学の授業で一通りは嗜んだつもりでいたけれど、城山さんの口から改めてその物語の輪郭を聞かされると、ひどく新鮮なものに感じられた。
ランプの薄暗い光のせいにしたくなるほど、城山さんの瞳が優しく私を射抜く。まだ「城山さん」と苗字で呼ぶことしかできないほど初々しい私たちの距離が、チクタクと時を刻む柱時計の音に守られて、ほんの少しだけ縮まったような気がした。
開演の時間が近づき、私たちは贅沢な雨宿りをさせてくれた〝茉莉〟を後にした。
狭い路地を挟んだ真向かいに佇む小劇場〝ステディオ21〟へと、私たちは一つの傘に身を寄せ合って一歩ずつ足を進めた。改めて見上げると、昭和のモダニズムを感じさせる白い近代建築風の外観が、雨の住宅街にすっきりと溶け込んでいる。
一階のコンパクトなエントランスを入ると、小劇場特有 of 親密な熱気が満ちていた。広くはないが、開場時にはチケットの確認やパンフレットの配布が行われる、すごくアットホームな空間だ。特設の受付デスクでチケットの確認を済ませたその時、奥の扉から一人の男性がひょっこりと顔を出した。
「あ、城山! 来てくれたんだな」
黒いワークシャツを着たその方は、少し髪がボサボサとしていて、いかにも舞台の裏方さんといった雰囲気だった。
「やあ、照月。初脚本、本当におめでとう。こっち、僕がお付き合いしている朋代さん」
城山さんに紹介され、私は一歩前に出て丁寧に一礼した。
「初めまして、朋代と申します。本日はお招きいただきありがとうございます。とても楽しみにしてまいりました」
「あ、いや、こちらこそ! こんな綺麗なお嬢さんを連れてきてくれるなんて、城山の奴、果報者だなあ。あ、僕は脚本と照明をやっている照月です。狭いところだけど、ゆっくり楽しんでいってね」
照月さんは少し照れくさそうに頭を掻きながら、それでも嬉しそうに目を細めた。城山さんが「普段は不器用で口下手」と言っていた通りの温かそうな人柄に、私の緊張もすっと解けていくのを感じた。
「最高の照明、期待しているよ」
城山さんが太鼓判を押すと、照月さんは「任せとけ」と力強く頷き、再び慌ただしく舞台の裏手へと戻っていった。
照月さんと別れ、私たちは案内された客席へと足を踏み入れた。
中に一歩入ると、外観からは想像もつかないほど開放的な空間が広がっていて、私は小さく息を呑んでしまった。
「天井がとても高いのですのね」
「うん、五メートルもあるんだ。この規模の小劇場としてはかなり珍しいらしいよ。この高さを活かしたダイナミックな照明演出ができるのが強みんだって、さっきの彼が自慢していたよ」
その高い天井の下には、固定席のない可動式のひな壇型客席がしつらえられていた。演出や舞台セットに応じて標準的なひな壇配置がおよそ七列前後、空間を広く使いたいときは四、五列へと座席数が変動するシステムなのだという。
私たちは中央の席に並んで腰を下ろした。
劇場全体がコンパクトな奥行きに設計されているため、私たちの席からでも舞台が驚くほど近くに感じられる。
「本当に、舞台との距離が近いですのね」
「そうだね。これだけ近いと、最後列であっても舞台上の役者さんの息遣いや視線が、はっきりと客席まで届くんだ。ものすごい臨場感だよ」
城山さんの言葉通り、ここは演者と観客の距離が極めて近い、濃密で親密な小空間だった。
まもなく、客席の照明がゆっくりと落とされ、劇場全体が深い闇に包まれていく。照月さんが手がけた『ハムレット』をベースにした復讐劇。その幕が上がる瞬間を待ちながら、私は暗闇の中で、隣に座る彼の存在をとても愛おしく感じていた。
舞台はデンマークのエルシノア城。
主人公である王子のハムレットは、父である国王の急死と、その直後に母のガートルードが叔父のクローディス――つまり新しい国王――と再婚してしまったことに深く苦悩していた。そんなある夜、彼の前に父王の亡霊が現れ、「自分はクローディスに毒殺された。復讐してくれ」と告発する。そこから、この壮絶な復讐劇の幕が上がるのだ。
ハムレットは真実を確かめ、叔父の警戒を解くために「狂気」を装う。頭がおかしくなったフリをしながら機会を窺うのだけれど、本当に復讐すべきなのか、亡霊の言葉は真実なのかと悩み、行動を躊躇し続ける。「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」という、あまりにも高名なあの独白は、そんな彼の深い精神的葛藤のなかから生まれたものだった。
やがて、悲劇は連鎖していく。
ハムレットは旅役者たちに父の暗殺劇を演じさせ、それを見た叔父の動揺から犯行を確信した。けれど、その後の激しい錯乱のなかで、恋人であるオフィーリアの父親――宰相ポローニアスを、叔父と誤って刺殺してしまう。
そこからの破滅は、目を覆いたくなるほどに急速だった。
父を失ったショックでオフィーリアは本当に心を病んでしまい、川に落ちて溺死を遂げる。彼女の兄であるレアティーズは、父と妹の復讐を誓い、新国王クローディスと結託してハムレットを罠に嵌めようと画策する。
結末に待っているのは、ただただ壮絶な惨劇。
クローディスが仕組んだ剣術試合の場で、毒を塗った剣と毒入りのワインにより、レアティーズも、王妃も、クローディスも、そしてハムレット自身も毒に冒され、主要な登場人物のほとんどが命を落とすことになる。
――そして、万雷の拍手の中、舞台の幕が下りた。
照明がパッと明るくなり、現実の世界へと引き戻される。興奮の冷めやらぬ劇場を出て、私たちはロビーで再び彼を待った。
仕事をやり遂げた清々しい顔で現れた照月さんが、私たちを見つけて声をかけてきた。
「どう、朋代さん、ご感想は?」
「単なる復讐劇っていうより、人間とは何か、生と死とは何かを悩み抜く心理描写が、現代でもすごく共感されていると思いますわ。照月さんの作られたあのダイナミックな光の演出が、ハムレットの心の闇をそのまま映し出しているようで、本当に素晴らしかったです」
「うーん。とっても大感謝祭。超うれしい!」
私が精一杯の言葉で伝えると、照月さんは小躍りして笑っていた。
*
下北沢での瑞々しい観劇デートから一週間が経ち、季節は九月へと移り変わっていた。
あの土曜日の小雨が嘘のように今夜の新宿はすっきりと晴れ渡っていて、高層ビル群の合間を吹き抜ける風には、どこか秋の気配が混じっている。
金曜日の仕事を終えた私は、いつものように西新宿にあるフレンチレストラン〝サンジェルマン〟の扉を開けた。ソロ活でこのお店を見つけた頃と同じように、お気に入りのカウンターの端の席に腰を下ろす。
「いらっしゃい、朋代さん。一週間ぶりだね」
厨房の奥から、白いコックコートに身を包んだ城山さんが、あの日と同じ穏やかな笑顔を見せてくれた。劇場の客席で隣り合っていた時とは違う、プロフェッショナルとしての彼の引き締まった横顔に、私はやっぱり少しだけ胸をときめかせてしまう。
今夜のディナーにと彼が目の前に差し出してくれたのは、美しく仕立てられたデザートの一皿だった。
「まあ……これは」
思わず目を丸くしてしまう。それは、ガラスの器に盛られた瑞々しい寒天と、上品に練り上げられたショコラの餡。そこへ、城山さんが手元から温かいエスプレッソを、まるでソースのように優しく注ぎ入れた。
「先週のお礼を込めて、サンジェルマン風の『あんみつ珈琲』を作ってみたんだ。照月もね、朋代さんが照明を褒めてくれたって、あれからずっと大喜びでさ」
「城山さん……」
「僕たちの出会いのお店で、あの日を思い出すような一皿を出したくてね」
温かいエスプレッソに溶けていくショコラ餡をスプーンですくい、そっと口に運んだ。あの薄暗い「〝茉莉〟」のランプの下で感じた苦味と甘みが、より洗練された味わいとなって、私の口いっぱいに広がっていく。
「とっても、とっても美味しいです」
私が満面の笑みでお答えすると、城山さんは心底安心したように、少年のように屈託なく笑った。
二カ月前、このカウンター越しに始まった私たちの恋。
まだ彼のことを「城山さん」としか呼べないほど初々しい私たちだけれど、下北沢の路地裏で共有したあの濃密な時間は、確かに私たちの距離を縮めてくれたのだと確信している。
チクタクと時を刻む古い柱時計はここにはないけれど、新宿の夜景を望むこの場所で、私たちの新しい季節が静かに幕を上げようとしているのを、私は心地よく感じていた。
了




