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自作小説倶楽部 第33冊/2026年下半期(第193-198)  作者: 自作小説倶楽部
第193集(2026年07月)/テーマ 「絆」
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3/5

02 柳橋美湖 著 『ベーカリーカフェでまた明日』

【梗概】オフィスに近いレストランで出会った城山シェフは、偶然にも最寄り駅が同じだった。ベーカリーカフェでの再会、そして日曜日の貸し切りレストランで紡がれるデザートと恋の予感。これって運命の出会いかな?






 高い天井から吊り下げられたモダンなペンダントライトが温かみのある光を投げかけ、ガラス張りで通路に面したカウンター席が整然と並んでいる。ベイカリーカフェ〝エスターテ〟店内には香ばしい焼き立てパンの香りと軽やかなシャンソンが心地よく漂い、行き交う人々を眺められるその空間は、どこか都会的な洗練さを纏っていた。客席を見渡せば、私と同じように出勤前の時間を惜しむ三十歳前後のサラリーマンやOL、熱心に参考書をめくる学生たちの姿があり、それぞれが静かな朝のひとときを過ごしている。


 *


 カウンターに美しく並んだパンの中から、黄金色に焼き上がったクロワッサンを選んでトレイに載せ、レジへと進む。

「お飲み物はいかがなさいますか?」

 丁寧なアルバイトの女の子の問いかけに、私は「アッサムティーで」と応じ、手際よくお会計を済ませた。

 急な朝のタスクに対応するため、いつもより少し早い電車に乗った私は、お気に入りのカウンター席で静かにクロワッサンと温かい紅茶を楽しんでいた。学生時代から慣れ親しんだ、お気に入りのアッサムティーの豊かな香りにホッと一息つく。慌ただしい一日の始まりにある、ささやかな日常のオアシスだった。

 その時、すぐ隣の席からコト、と微かなコーヒーカップの音が響く。何気なく視線を向けた私は、思わず息をのんだ。

「あ……おはようございます。先週は、僕の店へお越しいただきありがとうございました」

 驚いたように切れ長の目を見開いたのは、こないだランチをいただいたレストラン〝サンジェルマン〟の美形シェフ・城山さんだった。

 上品なネイビーのサマーニットをスマートに着こなしており、モデルのような高い身長は私服姿でも健在だ。朝の駅カフェの喧騒の中で、そこだけが静謐で洗練された空気に満ちている。

「城山さん、お早いのですね。驚きました」

「ええ、仕込みの前にいつもこの駅で乗り換えるんです。ここで朝食をとるのが日課で。……朋代さん、でしたよね。またお会いできて光栄です」

 大人の包容力あふれる低音ボイスが、お店の時よりも少し柔らかく耳に届く。

 ――真鍮のプレートに書かれた細い文字を一度見ただけなのに、私の名前を覚えていてくださったなんて……。それにしても、私服姿も本当に素敵で、少し緊張してしまうわね。

 普段の仕事やプライベートでは、それなりに落ち着いて人と接することができるはずなのに、彼の真っ直ぐな視線を前にすると、どうしてもうぶな少女のような鼓動を覚えてしまう。

「あの、お邪魔じゃなければ……お隣、よろしいですか?」

 ふっと品よく微笑む彼に、私は、「ええ、喜んで」と、努めて冷静に、大人のゆとりを持った笑顔で応じた。短い会話の合間、どちらからともなく自然な流れで連絡先を差し出し、私たちは静かにメールを交換し合った。

 カフェを出て、小田急線・登戸駅の上りホームへと向かう。梅雨の晴れ間の青空が広がるホームには、すでに多くのサラリーマンや学生たちが列を作り、今か今かと電車の滑り込みを待っていた。やがて、滑らかなステンレスの車体に小田急伝統の鮮やかなインペリアルブルーの帯をまとった準急列車が、静かにホームへと滑り込んでくる。開いたドアから次々と人々が乗り込んでいく波に混じりながら、私は先ほど交わしたばかりのメールの余韻を胸に、一歩を踏み出すのだった。


 *


 そうして七月を迎えた。

 朝、いつものように小田急の準急列車の車内に飛び込むと、冷房の効いた車内を見上げる。乗車ドアの上や車両接続部の上にある細長い電光掲示板には、次の停車駅や駅の順番を示す文字が、静かに現れては消えていく。車内を見渡せば、色とりどりの広告を見つめながら吊り革を掴む勤め人や学生をはじめ、平日の朝らしく病院に通うお年寄り、大きなランドセルを背負った小学生や、母親の手を引く幼稚園児の姿も混じり、それぞれの日常を乗せて列車は走っていた。

 そんな喧騒の中でも、週に何度か、その人と時間がぴったり重なる日がある。そんな朝は決まって登戸駅の同じカウンター席で言葉を交わし、そのまま小田急線の同じ準急列車へとまた乗り込んだ。

 高架に上がった列車の窓から、朝日を浴びてきらきらと輝く多摩川の広い水面と、青く澄み渡る夏の空が広がっていく。そんな美しい車窓の風景を眺めながら過ごす時間は、私にとって一日の始まりの、何より特別なプロローグになっていた。

 満員電車の揺れの中、城山さんはその長い体躯を活かして、さりげなく私を周囲の混雑から庇うように立ってくれた。お気に入りであるコバルト色の花柄の傘を大切に抱え、ヒールの足元を気遣いながら、至近距離から漂う彼の爽やかなシトラスの香りに、私の胸は密かに高鳴る。

「最近、新しいデザートの試作で行き詰まっていて。朋代さんは、どのような甘みが好みですか?」

「そうですね……バニラビーンズが自然に香るような、濃厚だけれど後味がすっきりしたものが素敵だと思います」

 車内で交わされるのは、そんな何気ない、けれど心地よい会話ばかり。お店を離れた彼は、どこか少しだけ肩の荷を下ろしたような、柔らかな表情を見せてくれるようになっていた。

 そんな日々が続いた七月の下旬、通勤の終わり際に彼から手渡されたのは、小さな手書きの招待状だった。

「今度の日曜日、お店の定休日なんです。もしよければ……僕の特別な試作の試食係を、引き受けていただけませんか?」

 真っ直ぐに見つめる彼の綺麗な瞳と、大人の色気を孕んだ低音ボイス。

 ──たぶん、拳銃で心臓を撃ち抜かれるって、こんな感じ?

 不意打ちすぎる彼の誘いに、私は胸の中で心地よい目眩を覚えながら、ただ小さく頷くことしかできなかった。


 *


 日曜日の城山さんのレストラン〝サンジェルマン〟は、私の貸し切りになった。

 カーテンの隙間から柔らかな陽だまりが差し込む店内に、磨き上げられたカトラリーが整然と並び、美術館のような静けさを湛えている。

 あの日と同じ、窓際の二人掛けの席にちょこんと座った私。目の前でその人が仕上げてくれる特別なデザートコースを堪能した。きらきらと輝く飴細工、甘酸っぱいベリーのソース。すべてが完璧で、私はただただその美食の世界に酔いしれた。

 ──ああ、太っちゃう。明日からジョギングのメニューを増やさなくっちゃだ!

 そんな嬉しい悲鳴を心の中で上げていると、彼がふっと柔らかく目を細めた。

「朋代さん、いつも本当に美味しそうに食べてくださるので、料理人冥利に尽きます」

 微笑む城山さんの顔を見て、私はふと思った。こんなに完璧な料理を作る彼は、普段の生活では一体どんなものを口にしているのだろう、と。

「あの、城山さん……もしよろしければ、今度は私のうちで……本当に、ふつうの家庭料理なのですが、お礼に作らせてくださいませんか?」

 お互い大人として、プライベートな空間に招くことの意味は分かっている。

 ――わっ、やっちゃった。

 と焦りつつも、私は真っ直ぐにその人を見つめた。

 彼が驚いたように見開いた綺麗な瞳に、窓の外の柔らかな光が反射している。

 ベーカリーカフェ〝エスターテ〟の朝から始まった私たちの日常が、少しずつ、けれど確かに新しい形へと動き出そうとしていた。


(了)

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