03 奄美剣星 著 『エルフ文明の暗号文 31』
【梗概】甲殻虫が襲来し新大陸植民地辺境部が蹂躙される。港湾都市ダンケルクに集結した将兵33万を対岸にある要塞島ドーバーに脱出させることにシナモン少佐は成功する。そこへ飛行船でやってきた本国・ヒスカラ王国のオフィーリア女王が、新たなる勅命をレディー・シナモンに下す。ドンファン副王、バステト大尉、そして少佐とドロシー博士は、甲殻虫を操る演算装置のある地下〝霊廟〟に突入すべく、カーチス飛行機に乗って、ダンケルクに舞い戻った。
31 絆
漆黒の闇に溶ける甲殻に覆われた、ぬらぬらと光る甲殻に包まれた細長い頭部に、元は人間であったアベラールの顔が貼りつき、その頭部から鮫に似た第二の顎であるインナーマウスが突き出される。剥き出しの銀色の歯列から腐食性の酸の粘液が滴っている。節足動物のような硬質な四肢は鎌となって振りかざされたかと思えば時折、軟質化して触手となり、鞭のように私たちに襲い掛かる。
ドンファン副王殿下とバティスト大尉のルガーP08は、軍用拳銃の機能美を体現していた。トグルジョイントが独特の音を立てて上部へと跳ね上がるたび、剥き出しのバレルから排莢口へと火薬の匂いが弾け飛ぶ。激しい反動を逃がすショートリコイルの機構が正確に作動し、尺取虫のようなリンク機構が確実に次弾をチェンバーへと送り込んでいく。
装弾数八発の弾倉から放たれる一撃一撃が、鋼鉄の部品群の冷徹な連動によって生み出され、闇の中で確かな火線を創り出していた。
鋼鉄の稼働音が虚空を震わせるたび、飛び散る火花がアベラールの肉壁を焼き、腐食性の体液を周囲へと撒き散らす。弾丸が外骨格を弾く硬質な金属音と、怪物と化した男の底昏い咆哮が、地下大聖堂の厚い石壁に反響して不気味に増幅されていた。
黄金の髪をひるがえした副王殿下が、
「少佐、博士、今のうちに、奥へ」
殿方の二人が殿となって食い止めてくれている間に私たちは、地下大聖堂とでもいうべき空洞の奥へと進む。背後からはさらに激しさを増す銃声と、肉を切り裂くような凶悪な風切り音が追いかけてきたが、私と少佐はただ前だけを見据えて走り続けた。
するとそこには、潮の満ち引きを利用した、まだ生きている、巨大な水車式計算機があったのだった。
それは暗渠の底で厳かに蠢く時計仕掛けだった。海水に濡れた水車が満ち潮を呑み込み、無数の歯車を噛み合わせる。数千年をかけても、貝類が付着や錆びることを拒否した謎の希少金属。その規則的な回転は、冷徹な論理を紡ぐ演算回路そのものだった。
複雑極まる真鍮のシャフトが交錯し、潮汐のエネルギーが二進法の情報へと変換されていく。湿った闇の中、甲殻虫のそれをスライスカットした円盤レコードが奏でられていた。濡れたフレームの軋む音は、まるで地下の心臓が刻む異形なる鼓動のようであり、私はただその圧倒的な質量に息を呑んだ。
そして演算装置の向こう側に、〝黄金の繭〟とでもいうべき、エルフの棺たるカプセル装置が鎮座していた。
それは古代の失われた技術が結晶した、息を呑むほどに奇怪な美構造物であった。琥珀色に融解した金属のような輝きを放ち、表面には微細な幾何学模様の回路が絶え間なく明滅している。内部からは、まるで胎動のように均整のとれた未知のエナジーが拍動していた。
黄金の髪を後ろで束ねた若い貴婦人が、装置に手を触れた瞬間、室内の青白い光が、一瞬にして混濁した赤へと染まった。それは、数千年の安眠を侵された王女の、原始的な恐怖の表れであった。半透明の〝黄金繭〟が〝白〟となり、外殻が透明となる。シルエットから判断すれば、サピエンス種の十歳前後というところであろうか。半透明 of 殻の向こう側で、エルフの〝王女〟が、青白く、しかし神聖な美しさを湛えて浮遊している。その人が、薄く、その瞼を開いた。碧眼のレディー・シナモンと、その鏡像のような王女の瞳が重なる。
*
「ブレイヤー博士、この波長って、実際は超音波とかあってもっと複雑なのでしょうけれど、私たちには、前奏曲『舞姫たち』によく似ていますね」
静謐な闇のなかでヴァイオリンの変ロ長調の楽曲に似た、信号音が奏でられていた。
「王女よ、お聞きくださいませ」少佐は震える声を絞り出した。「私たちは、貴女を支配したいわけではございません。貴女の夢を汚す〝不協和音〟を止めるための、新しい和音を探しに来たのです。どうか、私を拒絶しないで欲しいのです」
彼女は信号音に合わせて、ハミングした。
低音の底で、主音である「シ♭」がオルゲルのように、あるいは空間を繋ぎとめる見えない錨のように、絶え間なく、深く鳴り響いている。その持続音の海の上で、和音は〝機能〟という名の鎖から解き放たれ、ただ純粋な光の色彩として移ろっていく。
第一小節、祈りのような主和音「Ⅰ」が厳かに提示される。第二小節、上声部が静かに身をよじり、下属和音「Ⅳ」の響きを淡く経由して、再び「Ⅰ」の平穏へと帰っていく。
そして第三小節。音楽は伝統的な和声学が〝禁忌〟とした領野へ、ためらいなく踏み入る。解決という終わりを求めぬまま、同じ形の和音をただ平行にスライドさせていく「並行和音」の技法――「ⅥM7」から「Ⅶ♭7」、そして「Ⅷ」へ。それはまるで、古代の舞姫たちが等間隔の列を崩さず、ステップを踏みながら遠ざかっていくかのような、あるいは大聖堂のステンドグラスを透過した光が、そのままの輪郭を保って床を滑っていくかのような、奇妙で美しい並行の世界だ。
第四小節、フレーズの終わりで「Ⅴ7―Ⅰ」という古典的な終止形が一瞬だけ顔を覗かせ、現世の重力がよみがえったかのように、最初の楽節が静かに閉じられる。
しかし、そこに残るのは教会の古い旋律がもたらす、どこか遠い時代の気配。従来のローマ数字の分析だけでは決して捉えきれない、独自の浮遊感と謎めいた空間の広がりが、ただ煙のように五線譜の彼方へと立ち上っている。
*
すると後方から嘲笑を交えたアベラールの声がした。
「無駄だよ、少佐。〝王女〟にとって我々は、静寂を乱すノイズに過ぎない。君の知性も、すぐさま彼女の悪夢の糧となるだけだ」
彼がここにいるということは殿をしていた、副王と大尉を斃してきたということか? 私は背筋に冷たい戦慄が走るのを覚えた。あの強靭な二人が、この異形を前に力尽きたという最悪の想像が脳裏を過る。しかし、レディーは恐怖に屈することはなかった。
若い貴婦人はポシェットから野帳を取り出して、
「この霊廟は本来、永遠の夢を見続ける〝王女〟のために奏で続けられる、永遠の楽曲であったはず」
私がライトで照らしてやったそこには、ヴィジュネル方陣をベースにしながら、音階の周波数を組み合わせた、彼女独自の〝対話用譜面〟が書き殴られている。
どうやら少佐はエルフの言語を解読していたらしい。超音波こそできなかったようだが、虚ろいだ眼差しの〝王女〟が、どうにか理解できる程度には、再現できたようだ。
私でも判る。
王女の精神波が、刺々しさを失い、穏やかな波紋へと変わった。だが、その平和な瞬間を、地上の〝不協和音〟が無慈悲に引き裂いた。
アベラールが再びその触手を振り上げ、私たちの間に割って入ろうと突進してきたのだ。その漆黒の外骨格は、地下大聖堂のわずかな光を吸い込んでぎらぎらと狂気に濡れている。少佐は手にした譜面を強く握り締め、王女の瞳をまっすぐに見つめ返した。その二人の絆だけが、崩壊へと向かう世界のなかで、唯一の確かな調和としてそこに存在していたのだった。
続く
【登場人物】
01 レディー・シナモン少佐:王国特命遺跡調査官
02 ドロシー・ブレイヤー博士:同補佐官
03 グラシア・ホルム警視:新大陸シルハ警視庁から派遣された捜査班長
04 バティスト大尉:依頼者
05 オスカー青年:容疑者。シルハ大学の学生。美術評論家。
06 アベラール:被害者。ジャーナリスト。洗濯船の貸し部屋に住む。
07 エロイーズ:被害者。アラスの寄宿学校教師。アベラールの妹。
08 シャルゴ大佐:シルハ副王領の有能な軍人。
09 フルミ大尉:ヒスカラ王国本国から派遣された連絡武官。
10 トージ画伯夫妻:急行列車ラ・リゾンで同乗した有名人。
11 サルドとナバル:雑誌社〈ラ・レヴュ〉報道特派員。記者とカメラマン。
12 フランクリン将軍(大将):ヒスカラ王国海外領土シルハ副王国駐留軍総司令官。




