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自作小説倶楽部 第33冊/2026年下半期(第193-198)  作者: 自作小説倶楽部
第195集(2026年09月)/テーマ 「感謝」
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02 柳橋美湖 著 『ハーベスト・フェスティバル』

【梗概】 九月半ばの秋雨の土曜日。商社OLの朋代は恋人である美形シェフの城山と、いつもとは趣向を変えて小田急線と神奈中バスを乗り継ぎ「町田リス園」へプチ遠出デートに向かう。一眼レフでエゾリスの撮影に没頭する彼に少しヤキモチを焼く朋代だったが、数日後の定休日、サンジェルマンを訪れると、あの日の思い出を生き生きと描いた城山作の水彩画と秋の特製パフェが待っていた。二人の絆がより深まる大人の日常恋愛オムニバス。


Après la pluie, le beau temps.

(アプレ・ラ・プリュ、ル・ボー・タン)

「雨の後にはよい天気がやってくる」


 大学の第二外国語でフランス語を選択したけれど、使う機会もないから大半は綺麗さっぱり忘れてしまった。けれど、教科書の片隅にあったこのフレーズだけは、なぜだか今でもよく覚えている。


 九月半ばの土曜日のこと。

 たまたま最寄り駅が同じ登戸にある城山さんと私は、千千代田線から直通してきた、エメラルドグリーンのラインをまとった小田急線の準急列車に乗り込んだ。

 お付き合いを始めて四ヶ月目に入った彼と私は、柔らかなロングシートに肩を並べて腰掛けている。休日とはいえ、外はしとしとと降り続く秋雨。お出かけを躊躇う人が多いのか、車内は思いのほか混み合っていなかった。

(うーん、週末の準急だし、もっとぎゅうぎゅうに混雑するかと思ったんだけどな。そしたら、はぐれないようにって、彼にそっとハグされちゃうかも……なんて期待した私は、ちょっと単純すぎたかな)

 脳内プロセッサが弾き出した甘い妄想は、あっけなく空振りに終わる。

 やがて列車がスピードを落とし、目的地である町田駅へ滑り込んだ。ドアが開き、私たちは島式のホームから階段を下りて、地下の改札口へと向かう。頭上の巨大な駅ビルを小田急線がそのまま貫通しているという、どこか要塞じみた構造の駅だ。

 今回、町田をデート先に選んだのは、数日前、勤務先である新宿の商社同期、香織さんとの他愛ない雑談がきっかけだった。社会人になって数年、いくら親しい間柄とはいえ、私たちは互いに「さん」を付けて呼び合う絶妙な距離感を心地よく保っている。

『朋代さん、いつも都心のビル街とかお洒落な駅カフェばかりじゃデートもマンネリ化しちゃうよ? たまには都内近郊の穴場スポットを巡ってみたら?』

 香織さんのそのアドバイスを城山さんに話したところ、「それは楽しそうだね」とトントン拍子に話が進み、今日のプチ遠出が決まったのだ。

 北口を出ると、ビルを繋ぐデッキがちょうど大きな屋根のようになっていて、雨に濡れずにバス停へと向かうことができた。私たちが停留所に着いたのと同時に、タッチの差でお目当てのバスが排気ガスを残して走り去っていく。いつもなら家族連れでごった返す路線らしいけれど、今日の待ち行列は、運良く私たちを含めてわずか六人だけだった。

 十数分後、白地に鮮やかな赤と黄色の横ラインが走る、お馴染みの〝神奈中バス〟が水飛沫を上げてやってきた。

 中央のドアからステップを上がって整理券を引き抜き、車内奥の席へと足を運ぶ。町田リス園までは、ここからバスで二十分ほどの道のりだ。ふと振り返ると、雨粒のついた窓ガラスの向こうに、この街のランドマークになっているタワーマンションが、ぽつんと一棟だけ煙って見えた。

 動き出した車窓の向こうには、整然とした新しい町屋や住宅街が広がっているけれど、バスが進むにつれて少しずつ窓の外の緑が濃くなっていく。天気のせいか、バスの車内は列車同様にガラガラで、私たちはまたしても並んで座ることになった。窓を打つ雨粒を見つめながら、私は少しだけ期待外れな気持ちを抱きつつも、すぐ隣にある大好きな人のぬくもりに、静かに胸を弾ませるのだった。


     ☆


「終点、薬師池です」というアナウンスとともに、バスのドアが開いた。

 ステップを降りる。

 コバルト色をした花柄のお気に入り傘をパッと差す。城山さんはシンプルな折り畳み式の黒い傘だ。

 終点のバス停は駅前の喧騒から隔絶された、緑豊かな薬師池公園に隣接する瑞々しい丘陵地だった。目の前に現れた『町田リス園』の入り口には、カラフルでどこかユーモラスな手書きのウォールアートが描かれていて、思わず笑みがこぼれてしまう。いつも城山さんと行くような、銀座や新宿の洗練されたビストロとは対極にある、アットホームな世界観が新鮮だ。

 木製の格子戸がついたどこか温かみのあるウェルカムゲートの脇に、小さな有人窓口の券売所があった。城山さんがスマートに二人の入場券を買ってくれ、私たちは中へと足を踏み入れる。アスファルトの順路にも可愛いリスのイラストが続いていて、雨傘を差しながら歩くだけでもなんだか楽しくなってくる。

「雨の日のリス園も、静かで落ち着いていていいね」

 園内にいる来場者は私たち二人だけ。隣で傘を差す城山さんが、すっと通った鼻梁を少し動かして微笑んだ。今日の彼は、いつもの純白のコックコートではなく、上品なアースカラーのマウンテンパーカーをラフに着こなしている。細身のスタイルにアウトドアテイストの組み合わせが驚くほど似合っていて、圧倒的な清潔感は私服になっても健在だ。

(うぐっ、都会的な美形は何を着てもサマになるのね……! コックコートも反則だったけど、このギャップは心臓に悪いわ)

 私の脳内プロセッサが、彼のビジュアルの破壊力を測定して勝手に非常事態を宣言している。

 園内のメインである放し飼い広場には、二百匹の台湾リスたちが暮らしているそうだ。売店でひまわりの種が入ったミトン付きのエサ袋が売られていたので、購入してみた。いつもなら観光客の手からエサを奪い合うように賑わっているらしいけれど、今日の広場は秋雨のせいで驚くほど静かだった。

 リスたちも濡れるのが嫌いなようで、エサを差し出しても、切り株の陰や巣箱の軒下からこちらをじっと見つめるばかりで近寄ってこない。雨に打たれた自慢の尻尾も、心なしかボリュームが減ってぺたんこになっているのだけども、なんだか健気でいい。

「朋代さん、あっちに行ってみようか」

 城山さんに促されて向かったのは、広場の一角にある大きなゲージだ。幅と奥行きは三メートル、高さは二メートルというところあろうか。中に立派な木が組まれている。

「わあ……耳の毛がふさふさしていて、可愛い」

「うん。僕、これがどうしても見たかったんだ。エゾリスだよ」

 ケージの中で、一匹の大きなリスがちょこんと丸まっていた。台湾リスよりも一回り大きく、まだ雨に濡れていない毛並みは、もふもふとした冬毛の温かみを残している。

 城山さんはケージに一歩近づくと、子供のように真っ直ぐな瞳を輝かせて、エゾリスが小さな両手で木の実を器用にかじる様子をじっと見つめていた。その純粋な横顔がなんだか愛おしくて、私は自分の胸の奥が、トクンと小さく跳ねるのを感じていた。


     ☆


「ちょっと待ってね」

 城山さんはそう言うと、マウンテンパーカーの大きなポケットから、ずっしりとした佇まいの一眼レフカメラを取り出した。クラシカルな黒いボディに、金属製のシャープなレンズ。どこか職人肌の彼にお似合いの、本格的な機材だ。

 彼は慣れた手つきでファインダーを覗くと、ケージの中のエゾリスにレンズを向けた。

 カシャ、カシャ、と静かな園内に小気味よいシャッター音が響く。

 ファインダーを覗き込む城山さんの表情は、厨房でフライパンを振るう時と同じくらい真剣そのものだ。すっと通った高い鼻梁に、切れ長の美しい目元がファインダーの枠越しにさらに鋭さを増している。エゾリスが動くたびに、彼はしなやかな指先でダイヤルを回し、流れるような動作でベストショットを切り取っていく。

(……うん、文句なしに格好いい。格好いいんだけど……)

 三分が経過した。城山さんのレンズは、未だにエゾリスのふさふさした耳を捉えたままだ。

 私の脳内プロセッサが、じわじわと不満のエネルギーを蓄積し始める。

(ちょっと城山さん、リスに夢中になりすぎじゃない? 今日は二人きりの雨の日デートなのよ? 私、今日のために秋らしいお気に入りのブラウスを卸して、髪だって丁寧に整えてきたのに。来場者は私とリスしかいないのに、彼の視線を独占しているのがリスの方なんて、なんだか納得いかないわ!)

 ついに耐えかねて、私は差していたコバルト色をした傘をほんの少しだけ傾け、彼の視界に割り込むように一歩踏み出した。

「ねえ、城山さん」

 少し唇を尖らせて、拗ねたような声を仕込んでみる。

「リスの写真ばかりじゃなくて……私の写真は撮ってくれないの?」

 その言葉に、城山さんはハッとしたようにファインダーから目を離す。驚いたように目を見開いた後、失態に気づいたように、大人の余裕を少し崩し、「あはは、ごめんね」と、子供っぽく照れたように笑った。

「そうだね。世界で一番綺麗なモデルさんが、目の前にいるのを忘れていたよ」

 そう言うと、彼は贅沢すぎる低音ボイスを響かせながら、今度は迷いなくレンズの銃口を私の方へと向けた。カシャ、と響いたシャッター音。私は不意打ちの褒め言葉に、上気した顔を隠すように慌てて、お気に入りの傘で顔を半分隠した。


     ☆


 町田での雨の日デートから、数日後の月曜日。

 仕事帰りに私は、定休日でひっそりとした〝サンジェルマン〟を訪れた。オーナーシェフである恋人の特権で、「新しい試作のデザートがあるから、オフタイムの店においでよ」と、秘密の招待を受けていたのだ。

 ガラス張りの重厚なドアを押し開けると、いつもなら響くクラシカルなベルの音も、今日ばかりはどこかプライベートな響きを帯びているように感じられる。営業中の心地よい賑わいは身を潜め、消灯された客席の奥で、暖色系のスポットライトだけが柔らかく店内を照らしていた。

「いらっしゃい、朋代さん。待っていたよ」

 厨房から出てきた城山さんは、コックコートではなく、ラフな白シャツの袖を腕まくりしたリラックスした私服姿だった。その飾らない格好よさに、またしても私の心臓が小さな不意打ちを食らう。

「お邪魔します。秘密の試食係なんて、なんだか少し緊張します」

 すっと背筋を伸ばしつつも、私は彼の案内でいつもの窓際席へと向かった。その時、ふと白い壁の一角に視線が吸い寄せられ、私は思わず足を止めた。

「……これ、もしかして」

 そこに飾られていたのは、小さな木製の額縁に収められた、B5サイズほどの水彩画だった。

 描かれているのは、あの雨の日に町田リス園で見たエゾリスだ。ピーターラビットの絵本を彷彿とさせるような、淡く優しい色使い。それなのに、今にもスケッチブックから飛び出してきそうなほど、小さな両手やふさふさの尾の動きが躍動感にあふれて描かれている。

「驚いた? 実は僕、仕事の息抜きに、街の小さな絵画教室にずっと通っているんだ。あのとき撮った写真を見ながら、どうしても描きたくなってね」

 城山さんは少しはにかむように、端正な顔を緩めた。

 美味しい料理を創り出すその指先は、スケッチブックの上でもこんなに温かく、繊細な魔法を紡ぎ出すことができるなんて。彼の底知れない才能と、何よりあの日の思い出をこんなに美しい形にしてくれたことが嬉しくて、私は絵を見つめたまま、ただただ深く感動していた。


     ☆


「さあ、絵の鑑賞の後は、お待ちかねのデザートだよ」

 城山さんは嬉しそうに微笑むと、厨房から江戸切子の透明な青いお皿を運んできた。

 差し出されたのは、秋の収穫祭を詰め込んだような、美しく仕立てられたマロンと洋梨のパフェだ。何層にも重なった自家製カスタードとひんやりとしたラム酒風味のジュレ、そして一番上には、まるでリスの好物のような香ばしいナッツが贅沢に散りばめられている。

「美味しい……! 濃厚なのに、洋梨の酸味でいくらでも食べられちゃいそうです」

「よかった。朋代さんが美味しそうに食べてくれる顔を見るのが、僕の一番の元気の源だからね」

 スプーンを動かす私を、城山さんは頬杖をつきながら、あの切れ長の優しい瞳で見つめてくる。やっぱりこの人の大人の包容力は、私の心臓に甘すぎる。

 ふと視線を向けると、ガラス張りの厨房はいつもと違ってひっそりと静まり返っていた。初めてこの店を訪れた水曜日、私の食欲を激しく刺激したあの小気味よい包丁の音や、お肉の焼ける香ばしい音、アンド何より、純白のコックコートを美しく着こなして腰のエプロンをキュッと締めていた彼の凛々しい姿が、鮮明に脳裏をよぎる。

 けれど、目の前にいる今の彼は、ラフな白シャツの袖を腕まくりしたリラックスした私服姿だ。すっと通った高い鼻梁や、一八〇センチを優に超えるモデルのようなすらりとした細身のスタイルはそのままなのに、どこかプライベートな柔らかさを纏っている。

(ううん、やっぱり都会的な美形は何を着てもサマになるのね……。目の保養すぎて、私の脳内プロセッサがまた非常事態を宣言しそうだわ)

 贅沢なデザートをすっかり平らげ、温かい紅茶で一息ついたとき、私はもう一度、壁に飾られたエゾリスの優しい水彩画に視線を戻した。見れば見るほど生き生きとしていて、彼が過ごしたオフタイムの温かな時間が伝わってくるようだ。

 ふと、私の脳内プロセッサが、またしても突飛なアイデアを叩き出してきた。

(……待って。あの日、城山さんは私の写真も撮ってくれたわよね? ということは、彼のスケッチブックには、私が知らない私の姿も残されているのかしら)

 普段のオフィスでは、サラリとした黒髪のボブカットの毛先をストレートアイロンでほんのり「外ハネ」にアレンジし、ヘアオイルで今っぽい艶を出した【切りっぱなしストレートボブ】が私の定番だ。けれど今日の私は、特別な秘密の招待に合わせて、いつもは下ろしている髪をハーフアップにして上品にまとめ、サイドをねじってクラシカルに仕上げるおめかしモードを仕込んできていた。

 なんだか急にそのこだわりが気恥ずかしくなりつつも、私は紅茶のカップをそっと置き、彼に向けて少し悪戯っぽい微笑みを浮かべてみせた。

「ねえ、城山さん。こんなに素敵な絵が描けるなら……」

「ん? どうしたの?」

「今度は、私をモデルにして描いてくれません?」

 少しだけ上目遣いでおねだりしてみる。

 城山さんは一瞬驚いたように端正な目元を丸め、それから、「もちろん、喜んで。ずっと描きたいと思っていたんだ」と、嬉しそうに声を弾ませた。一八〇センチの長身を少しだけ屈めるようにして、私の目線に合わせてくれる仕草がなんというか。

 彼のその真っ直ぐな快諾に、私の心臓がまたトクンと浅い鼓動を打つ。それと同時に、私の脳内プロセッサは大慌てで追加の制約条件を弾き出し、私は心の中で叫んでいた。

(あ、でも、もちろんヌードは絶対にNGですからね! 清楚系オフィスレディのプライドにかけて、そこだけは死守しなくちゃ!)

「ふふ、世界一魅力的な絵にしてみせるよ」

 そんな私の暴走を知る由もない城山さんは、ちょっとずるすぎる素敵な笑みを浮かべ、私の手を優しく包み込む。窓の外にはいつの間にか澄んだ秋の夜空が広がっていて、二人の甘いハーベスト・フェスティバルは、心地よい余韻とともに更けていくのだった。

 (了)

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