第26話 アガペーとポン
俺は帰還したアガペーの『ごめん、失敗したわ』という言葉を聞いて、無言で眉間をつまむように指を当てた。
「……アガペー、まずは無事でよかった。ケガはないか?」
「少しかすり傷はあるけれど問題ないわ」
「なら休んだ後でいいから、何があったか詳しく聞かせて貰えるか?」
「いえ、時間が惜しいからすぐに話すわ」
続け様に話すアガペー。
「まず、ここを出た後、一日も経たずにクロノス王国に辿り着けたわ。それで尻尾と蛇髪を隠して王城に向かったのだけれど、門前払いだったわね。仕方ないから夜中にトラップやセンサーをくぐり抜けて王の寝室へ潜入したの」
アガペーは自前のイスに腰掛けて続ける。
「でもそこに居たのは王ではなく、青い鎧を纏った三十代くらいの男だったの。ステータスを分析してみたらクロノス王国の“第一王子”という肩書きと“セイド”という名前だけわかったわ」
彼女は息継ぎをして話を続ける。
「私は人語が話せないし、ほぼ聞き取れないから恐る恐る書状を渡してみたの。そしたらソイツは書状に目を通した後、私に何か話しかけてきていたけれど、理解する前に魔導警報が鳴って衛兵が駆け込んできたのよ。それで仕方なく逃亡したんだけど、S級っぽい戦士達に追われて撒いてたら戻るのに五日もかかったってわけ」
なるほどな。大体わかった。やはり単独で向かわせたのは無謀だったか。
「聞きたいんだが、王子の顔の特徴わかるか?」
「特筆して特徴はなかったわ。ただ、体は鍛えてそうだったし、私を見ても動揺ひとつ見られなかったから、かなりの強者だと思う」
「なるほど。分かった、ありがとう。今はゆっくり休んでくれ」
と言って、俺は玉座に深く腰をかけた。これで賭けの一つが失敗した。こうなると、ほぼ詰んでいると言っても過言ではない。
すると、ちょうど良くポンが慌てた様子で入ってきた。
「父さん! 荷物忘れてたので取りに来たッス!!」
退出しようとしていたアガペーと目が合う。
「……誰、このガキ?」
ひりつく空気。俺は慌ててフォローに入る。
「あ、ああ。ポン、って言って最近面倒をみてる客人みたいなものだ」
「ふぅん」
アガペーが、矯めつ眇めつと観察している。今は任務失敗で機嫌が悪いだろうし、いきなり頭を刎ねてしまいそうで怖い。
「初めまして! ポン・アクアシェルっていうッス! あなたが例の禁断の花嫁さんッスか!?」
「…………」
言葉が分からないのが幸いしたか、彼女は無視して横を通り過ぎた。
しかし、俺が緊張を緩和するように息を吐いた瞬間、ポンがぽつりと呟く。
「母親っぽいッスね」
「……あ?」
その場の空気が一瞬で変わった。人語があまり分からないアガペーだが、なぜかそれは聞き取れたらしい。
彼女がゆっくりと振り返る。蛇髪が一斉にポンの方を向き、サソリの尾がピクリと跳ねた。
「今、このガキ、何て言ったのかしら?」
ポンはビクッとしながらも口を開いた。
「やっぱ、雰囲気っていうか……どこかお母さんっぽいッスね」
「お母さん?」
アガペーのこめかみに筋が立ち、口元が笑っていない笑みを作る。
これはまずい。
「このガキ、私に母親とか言っちゃって身の程知らずじゃない?」
殺意が高まっている。このままだと殺りかねない。
だが次の瞬間、ポンが悪気なく言った。
「でもほんと、お似合いっスね! 父さんと“夫婦”って感じで」
静寂。この空気、俺は何度か経験している。アガペーの妄想スイッチが入った瞬間だ。
「ふ、ふふふふ……い、いま……夫婦って言ったわよね?」
恋愛小説を読むからか、そういう用語は聞き取れるらしい。
アガペーが目をキラキラさせてポンの目の前に駆け寄る。怖い怖い怖い。
「ふ、ふ・ふ・ふ・ふ・夫婦。つまり私、王子様の妻ってことで、ってことはつまり、そういう立場ってことは、つまり!!」
彼女は、ポンを指差して叫んだ。
「あなた、今から私のことお母さんと呼びなさい!!」
「えっ……?」
「えっ……?」
ポンと俺の声がハモった。言葉が分からないはずのポンも何となく察したらしい。
「だって! 夫婦なら当然でしょ!? 子どもから見たら私はお母さんじゃない!? 違う!?」
「……いや、お前、母親扱いされて怒ってたよな?」
「心変わりしたの! 生物は絶えず変化していくものなのよ!」
「変わるの早すぎだろオイ……」
呆れる俺を尻目に、アガペーの瞳には星が浮かんでいた。
「さ、ポン。呼んで? お母さんって」
その言葉を律儀にガイアが翻訳してポンに伝えた。余計なことすんなよ。
「……お、お母さん?」
ポンが恐る恐る言った。
「よろしい」
アガペーの蛇髪がパタパタとはしゃいでいる。
ポンは困った顔をしながらこっちに振り向いてきた。
「父さん、どうしたらいいんスか……」
「俺に言うな」
「でもまあ、悪くないかもッス」
そこは否定しとけよ。
その後、アガペーは「母親として、次から私もポンを鍛えるわ!」と鼻息荒く宣言した。
また迷宮が変な方向に拡張していく音がした。頼むから普通にスローライフを送らせてくれ。もうそんなこと言ってる場合じゃないけどさ。
——それから三日後。
俺が肩を回していると、ガイアが神妙な面持ちで姿を現した。
「アシュラ様」
その顔を見て、俺はその時が来たのだと息を呑んだ。
「来ます。クロノス王国の精鋭五十名」
やはりか。
和やかな雰囲気から一転、緊張した空気が張り詰めた。




