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96.盤面を染める完璧な悪意 前編

「ゼファレスに近付く権利を得た、とは……? あの猜疑心の塊にどうやって」


 アシュレイが困惑するのも無理はないだろう。

 ゼファレスは、カグツチにさえ「何も信じていない」と言わせた人間だ。

 私は、私の斜め後ろで影のように音もなく立ったまま控える白銀の竜――シロクマと、目の前で怪訝な顔をするアシュレイに向かって、淡々と事実を告げた。


「ゼファレス自身が教えてくれましたよ。自分は女性不信である、と。アシュレイ、心当たりは?」


 アシュレイは考え込む間もなく頷いた。


「確証はない。あいつは俺にそんな事は話さないからな。しかし心当たりなら……今から十年前になるか……母を亡くして三年が経った頃だ。ゼファレスの身の回りの世話係として赴任してきた侍女がいてな。歳は一回りほど上だったか。――彼女がいた頃は、ゼファレスはまともだった気がするが」


 そこに同情の欠片はない。アシュレイはただの退屈な事実を並べるように、机の上で手を組み直した。


「彼女の名前は――ルウシェ。暴走したデッドアッシュに彼女の首をへし折られた瞬間を、ゼファレスは目の前で見ている。その時のショックが、奴の極端な女性不信の引き金になったのではないかとは思っているが……」


 ――ルウシェ。その名を聞いた瞬間、私の背筋に冷たい震えが走った。

 デッドアッシュが首をへし折った、という話は昨日聞かされていたが――その名に因果を感じざるを得なかった。


「皮肉ですね……ノエルさんが付けてくれた偽名はその侍女を連想させる……」


 偶然の一致か、あるいは因果か。

 ノエルが適当につけたルウと言う名前と、この男にとって特別だった侍女の名ルウシェの音が似ていた。

 だからあの男は私を呼び捨てにし、傍に置くことを許容したのだ。

 母を奪われ、名を奪われ、その傷を癒やしてくれた存在すら、自らの手で壊してしまった竜に奪われた。

 ふと――ゼファレスが激しく嘔吐していた姿が脳裏をよぎる。

 あれは単なる嫌悪ではない。女性の肌に触れられるたび、彼女の首が折られた瞬間の凄惨な記憶が、防衛本能すら越えてフラッシュバックしているのだろう。

 彼が徹底した合理主義と冷酷な盤面に固執するのは、大切なものを二度と失わないための、彼なりの防衛本能だったのかもしれない。


 だけどそれが――私が彼を許す理由には到底なり得ない。


「彼が過去に何を失い、どれほど歪んだトラウマを抱えていようと構いません。人間は資産だと割り切り、私に自らの呪いを解けと命じた。……それが、私からたった一人の婚約者を奪った男の致命的な悪手になります」


 私の冷ややかな声に、アシュレイは微かに目を伏せた。


「では、話し合いを続けましょう。戴冠式当日、デッドアッシュはもちろんゼファレスの近くに配置されるのですよね。どうにかして引きはがせないものでしょうか」


 私は机に広げられた本城の図面をまじまじと眺めた。

 場所は王城の中央、王の玉座が置かれた大広間。


「戴冠式からデッドアッシュを引き剥がす事は可能だ。と、言うかそうなるだろう」


 アシュレイはそう静かに告げると、私の隣に立ったまま控えているシロクマを見やる。


「シロクマ。お前は今ゼファレスの元にいるとは言え、グレイシャル家の竜である事に変わりはないな?」


「はい。ドラグマキナはあくまでも徴用ですので。現当主のライン様は現在、王宮竜具院おうきゅうりゅうぐいん 総代(そうだい)という、近衛騎士団長よりもさらに上座にあたる名誉職に就いておられます」


竜具院(りゅうぐいん)総代(そうだい)……?」


 聞き慣れない役職名に、私は眉をひそめる。

 シロクマはうやうやしく一礼し、淡々と説明を続けた。


「ええ。竜は長く生きても二千年と言われております。私はすでに千八百歳ですので、いつ角が砕け、空に還ってもおかしくない身。ですからライン様は、私が寿命を迎えてグレイシャル家の権威が落ちる前に、あえてゼファレス殿下のドラグマキナ徴用制度に乗る形で私を差し出し、王都での盤石な地位を手に入れたのです」


「……貴族の矜持より、明日を取ったのですね」


「えぇ。ライン様にはもうじき孫がお産まれになります。あの方の守るべきものは両手では足りないですから」


 カグツチとの決闘に敗れ、近衛騎士団長を解任されたとしても、竜がいる限りグレイシャルの名が地に落ちることはない。

 それでもシロクマの言う通り、竜には寿命がある。


 彼は――貴族の矜持よりも家の存続を選んだのだ。己の守るべきものを取りこぼさないために。

 それを間違っているとは言えなかった。


 歴史あるグレイシャルが新しい王のルールに手を上げたのなら、それはもう貴族の道具――ドラグマキナの崩壊の一歩だと言っていい。

 後宮や本城にいた竜種の数がようやく腑に落ちた。すべてが集められたのではないにせよ、いずれ貴族の道具(ドラグマキナ)制度は消滅するだろう。


「私のような使い古された道具でも、家格を守るための最上の駒として使い切ってくださる。……道具として、これ以上の誉れはありませんよ」


 シロクマは胸に手を当て、どこか恍惚とした表情で微笑んだ。

 私は何も返せなかった。


 不意に、アシュレイが図面の上に置いた手を強く握り込んだ。

 分厚いレンズの奥で、琥珀色の瞳が鋭い光を帯びている。彼は、裏で密かに集めていたであろう情報を口にした。


「俺が確認した明日の戴冠式の出席者リスト。その最前列の上座に、王宮竜具院おうきゅうりゅうぐいん 総代(そうだい)の名があった。新しい王の威光を示す場だ、ゼファレスが重用する名誉職の筆頭が欠席するなどあり得ない。当然、その象徴であるシロクマも式典には同行するはずだ」


「――はい。ゼファレス様より戴冠式の日はグレイシャルの竜として立つよう指示されております」


「ロボも言っていたが、デッドアッシュはシロクマを見れば殺しに行く。……あの合理性の塊のようなゼファレスが、神聖な戴冠式を竜の殺し合いで台無しにするようなリスクを放置するはずがない」


「……おや。強い個体に反応するから、ではないのですか?」


 シロクマは笑みを湛えながら首を傾げた。


「どうやら違うそうですよ。シロクマ、昔デッドアッシュ――あるいは()()()に無礼を働いた覚えは?」


「無礼、ですか? 心外ですね。私はただ、竜という種の存続のために最も合理的で正しい振る舞いをしたまでです」


 シロクマは心底不思議そうに目を瞬かせ、優雅な手つきで自らの白い軍服の襟を正した。


「当時、カリナ様はすでに最後のメスでした。彼女の(はら)をたった一匹のオスに独占させるなど、種の多様性という観点から見てあまりにも非効率でしょう? ですから、私の優秀な(たね)も宿していただこうと、彼女がベッドで休んでいるところへ有意義な交尾を強行しようとしただけなのですが……なぜかあのオスが、無言で切り刻んできました。まったく、(つがい)でもないくせに所有欲ばかりで(しゅ)の未来を考えない、困ったオスでしたよ」


 シロクマは、本当に、ただ純粋に理解できないという顔をして肩をすくめた。

 そこには悪意も、罪悪感もない。

 ただ、怒りという感情を持たない竜種特有の、人間とは決定的に異なる絶望的なまでの倫理観の欠如があるだけだ。

 倉庫でデッドアッシュが「襲われていないか」と、例え相手が伴侶(カリナ)でなく私でも心配した理由がよく分かった気がした。


「……ッ、この変態竜が……」


 アシュレイが吐き気を堪えるように顔をしかめ、私自身も背筋に虫が這いずり回るような悪寒を覚えた。

 デッドアッシュはシロクマが嫌い――その理由の謎が解けた瞬間だった。


「……彼があなたを排除しようとする理由が、とてもよく分かりました。自業自得です」


 私が冷たく吐き捨てると、シロクマは「やれやれ、理不尽な話です」と優雅にため息をついた。

 私は気を取り直すように、図面へと視線を戻す。


「――確定ですね。必然的に、デッドアッシュは明日の式典の間、本城から外される。そういう事ですね?」


 アシュレイは静かに頷いた。

 王族としての事前の情報収集と、盤面を読む力。アシュレイの知略が、シロクマという不確定要素と結びつき、完璧な確定情報を導き出した瞬間だった。

 だからこそ、ゼファレスは自分の身を守る最大の盾を、式典の間だけ別の場所に隔離せざるを得ない。

 その隙を突いて、デッドアッシュをこの盤面から――降りてもらう。


「デッドアッシュはどこに置かれることになりますか?」


「後宮だ。戴冠式の日には無人になるからな。あそこなら何かあればすぐにゼファレスはデッドアッシュを呼べる」


「戴冠式には、後宮の令嬢たちもこぞって本城へ参列するのですよね。……なら好都合です」


 やがてアシュレイが手元の図面を指先で叩く。


「戴冠式の儀の後に官僚や貴族たちによる祝賀の宴が続く。ドラグマキナは定位置に戻すらしい。恐らくゼファレスは、神聖な儀式が終わったタイミングでシロクマを退場させ、代わりにデッドアッシュを自分の警護として本城の宴の席へ呼び戻すはずだ」


「祝賀の宴であれば、祝いの酒を口に入れないわけにはいかない――では、その時を狙いましょう」


「あぁ。問題は――毒殺のどの段階でデッドアッシュの防衛機構が働くか、だ。そこが計算出来ない以上、宴が始まりルシア嬢が毒殺を完遂させるまでの間、デッドアッシュが君を襲わないとも限らない」


「カグツチには、デッドアッシュを後宮で足止めしてもらいます」


 私は静かに、けれど確かな信頼を込めて言い切った。


「儀式から宴の切り替わりの間、ずっとか?」


「えぇ。宴が始まり、私が盛った毒がゼファレスに回るその瞬間まで。デッドアッシュがゼファレスの防衛機構であるのなら、あの男が死ねば止まるでしょう」


 私の迷いのない作戦に、アシュレイの琥珀色の瞳が僅かに揺れる。

 彼は盤面を敷く策士の顔をほんの一瞬だけ崩し、痛ましげに言った。


「しかし……デッドアッシュの速さが上回れば、君は自分の命を晒す事になるぞ」


 その言葉に、ふう、と私はわざとらしく小さくため息を付いてみせた。


 私が自分を盤面の最も危険な場所に置いたとしても。

 彼が私を守るために振るう力は、規格外のデッドアッシュすらも必ず凌駕する。彼を信じきっているからこそ、私は躊躇うことなくこの命を盤面に置く事ができるのだ。


「心配には及びません。私がどれほどの危機に身を晒そうと、彼は絶対に私を死なせはしない。それをも凌駕する力で私のわがままを通してくれるでしょう――私は、彼を信頼しています」


 私の言葉にアシュレイは呆れたように小さく息を吐き、机の上で手を組み直した。

 しかし、図面に落ちる私の視線は、どうしても僅かに陰ってしまう。


「……ただ。何も知らない彼に、騙し討ちのような真似をさせるわけにはいきません」


 その静かな響きに、アシュレイは静かに視線を落とした。

 分厚いレンズの奥で、琥珀色の瞳が僅かに揺れる。

 盤面を敷く策士の顔が、ほんの一瞬だけ崩れた。


「……足止めが、殺し合いに発展しなければいいのだが」


「そうならないためにも、カグツチには伝えなければなりません」


 シロクマは不思議そうに小首を傾げた。


「おや。ならば私がお伝えしておきましょう」


「いえ、これは私が直接伝えなければならない事です」


 私はシロクマの提案を遮り、分厚いレンズの奥で彼を見据えた。


「……僅かな時間でいいです。今夜、カグツチに会えるよう手引きをして頂けませんか」


 私の静かな、しかし譲れない意志を感じ取ったのか、シロクマは胸に手を当てて一礼した。


「……分かりました。では今夜、白の離宮回りの衛兵の目を逸らしておきましょう」


「助かります」


 私が小さく息を吐き出すと、アシュレイが痛ましげに目を伏せ――やがて、何かを振り切るように図面から顔を上げた。


「だが、ルシア嬢」


 アシュレイは、分厚いレンズの奥にある私の瞳を真っ直ぐに見据えた。


「なぜ、わざわざ戴冠式の最中にこだわる? 確実にゼファレスの首を取るだけなら、こんな綱渡りをせずとも、寝込みにカグツチと共に奇襲を掛ける方が確実だと思うが」


 アシュレイの言葉に、私は静かに頷いた。

 ゼファレスが力と恐怖で作り上げようとした、彼にとっての完璧な盤面。

 それを、暗殺という誰の目にも触れない手段でこっそりと終わらせてやる義理などない。

 私は、国中の貴族と平民が熱狂するその絶頂の瞬間に、もっとも残酷な形で彼の喉元を食い破る。

 すべては、彼が描いた勝利の盤面を、私が望む真紅の悪意で染め上げるための――狂気に満ちた筋書きだった。

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