97.盤面を染める完璧な悪意 後編
「……ええ。ただ殺すだけなら、それが一番合理的でしょうね」
私は静かに首を振り、彼を見つめ返した。
「ですが、それはあくまでゼファレスを殺すまでの盤面です。……アシュレイ。あなたがゼファレス亡き後に王座に座ったとして、このままでは国はまとまりません。貴族たちは次の権力を巡って、血で血を洗う内乱を始めるでしょう」
「……それは」
「だから、戴冠式でなければならないのです」
私は、部屋の空気を凍らせるような、極めて冷淡な声で告げた。
「明日の戴冠式には、本城の重役、上級貴族、そして各隊の兵士たち……この国の中枢を担うたくさんの目が集まります。恐らく皆逃げ惑う事でしょう。えぇ……誰か一人でもいいのです。その大衆の目がある白日の下で、私が悪意を持ってゼファレスを殺します」
淡々と語る私に、アシュレイは黙したまま耳を傾ける。
「そしてアシュレイ、あなたは王が殺されたあと私を指差し、声高に宣言するのです。――王を殺したあの化物を討て、と」
アシュレイの顔からスッと血の気が引き、分厚いレンズの奥の双眸が限界まで見開かれた。
私が何をしようとしているのか、彼ほどの頭脳なら一瞬で理解したはずだ。
「私はゼファレスを殺し、人類の敵……魔王となります。権力者たちが最も恐れる共通の敵として、玉座を血で染めるのです」
人間の負の感情は、愛や忠誠よりも遥かに強固で扱いやすい。
私という最悪の劇薬を盤面に落とすことで、国中の恐怖を一身に集め、バラバラになった貴族や民たちを生存という一つの目的に向かって強制的に連帯させる。
それが、私がアシュレイという頼りない駒に王座を座らせるための、たった一つの確実な手法だった。
「魔王の脅威を前にすれば、貴族たちは内乱など起こしている余裕はありません。そして、その魔王に真っ向から立ち向かい、剣を突きつけたあなたを――彼らは新たな王として仰ぐしかなくなる」
私の言葉が落ちた瞬間、部屋は水を打ったように静まり返った。
アシュレイは血の気を失った顔で、震える声で絞り出した。
「君は……自分の命も、名誉も、何もかもを泥に捨てて……俺の王座の……この国の盤面を、血で固めようというのか……?」
「名誉など、最初から復讐の邪魔なだけです。……それに、命を捨てるつもりもありませんよ」
私は資料室の窓の外――カグツチがいる後宮のある方角を眺めながら、薄く笑った。
「人類の敵となった魔王を討とうと、どれほどの軍勢が押し寄せようとも」
そこで一度言葉を切り、私は窓から差し込む冬の淡い光に目を細めた。
静寂が資料室を支配し、アシュレイが固唾を呑んで私の横顔を見つめる。
「……私の隣には、それらすべてを一息に焼き払い、私を世界の果てまで連れ去る最強の火竜がいることをお忘れですか?」
一瞬の間を置いて、アシュレイは呆れたように、けれどどこか救われたような溜息を吐いた。
「……あぁ。あいつなら、千の軍勢を前にしても欠伸をしながら君を連れ去るだろうな」
「これらは全て私たちが生きるための盤面です。全てを終えた魔王は人々に恐れられながら辺境の地で悠々自適に過ごす――その未来のために」
私はアシュレイに向かって微笑みかける。
「黒鉄の城はもらいます。これだけお膳立てしてあげるのです、十分な対価でしょう?」
アシュレイはぽかんと口を開けたまま、やがて顔が引き攣った。「俺は王座を望んでいないのだが」と。
しかし、次の瞬間部屋に響いたのはアシュレイの声ではなく――
「――ッ! あぁ……素晴らしい! なんという冷徹、なんという完璧な理想郷! 自らが絶対の悪となることで世界を統べる……これぞ我が女王様の知略ッ!!」
シロクマが、両手で顔を覆いながら歓喜の身悶えをしている。
狂気じみたその声すら、今の私にはただの舞台装置が奏でる音楽にしか聞こえなかった。
「これで、手順はすべて整いましたね」
私は資料室の机に広げた図面を、パタンと閉じた。
「カグツチがデッドアッシュを足止めする。宴が始まればアシュレイがゼファレスを呼び止め、その隙に毒を仕込む。毒で悶えるゼファレスに私がとどめを刺す。そして最後は、あなたが私に剣を向けるのです」
誰一人欠けても成立しない、綱渡りの暗殺計画。
けれど、私たちの目にはもう、一片の迷いもなかった。
「……あぁ。どうせもう退路は残されていないのだろう」
「えぇ。私の駒となると誓った以上、後戻りはせませんよ」
アシュレイが深く頷き、決意の満ちた、悲壮な声で応える。
その言葉で、すべての打ち合わせが終わったかと思われた時だった。
「女王様。一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
シロクマの声が資料室にやけに響いて聞こえた。
「……今夜、あの若き火竜に真実をお伝えになるとのことですが、本当によろしいのですか? 彼はずいぶんと感情が豊かだ。父親だと知れば、足止めの折に彼の牙が鈍るやもしれません。黙ったままの方が、盤面としては確実かと存じますが」
シロクマの言葉に、アシュレイが引いているのが分かった。
私は伏せていた視線を上げ、シロクマを真っ直ぐに見据えた。
「……彼を騙したまま盤面に立たせたくないのです。私は彼に誠実でありたいです」
私の迷いのない言葉に、シロクマは「おお……」と恍惚とした吐息を漏らした。
「なんと非情で、美しき信頼。オスに試練を与え、より強き番を選ぶ……まさに竜の女王に相応しいお姿です」
シロクマは胸に手を当て、うっとりとした表情を浮かべる。
その言葉の端々に、違和感があった。
この竜は私を女王様と呼ぶ。私に忠誠を誓い、愛の言葉を囁く。
だが、その熱を帯びた瞳の奥には、私という個への興味は微塵も存在していない。
彼が見ているのは、あくまで次代の竜を産むための極上のメスとしての価値だけだ。繁殖という本能に従い、優秀なメスを守り、狂信しているに過ぎない。
(……なるほど。そういうことですか)
私の心の中に、理解が冷たく落ちる。
ノエルという一個人を盲目的に愛しているアシュレイとは、全く似て非なるものだった。
(……同類なんて思ってごめんなさい、アシュレイ。あなたの方が百万倍人間的でした)
心の中でひっそりと前言を撤回しつつ、私は口角を上げる。
ならば、都合がいい。愛や情などという不確かなものより、本能で縛り付けた方がよほど強固な駒になる。
「……ところで、シロクマ。カグツチの様子はどうですか?」
私が話題を変えると、シロクマは恭しく頭を下げた。
「もはや歩く厄災。スイートルームで堂々と甘味を貪り、不機嫌を隠す気もございません。女王様の愛玩人間様が随分と手を焼かれておりましたよ」
「なるほど。ノエルさんの言う事を聞いていると言う事は大丈夫そうですね」
ちらりとアシュレイの表情を伺うと、ノエルの安否に胸を撫で下ろしていた。
「女王様。もしまだ作戦に懸念事項があるなら、このシロクマめをどうぞお好きなようにお使いください。ゼファレス殿下に恨みはございませんが、私にとって女王様が描かれる後の世は理想郷そのものでございます。ですからどうか、私をその理想郷の礎にお使いください」
シロクマはそのままその場に、私に絶対忠誠を誓う騎士のように跪いた。
「礎、ですか」
「ええ。ゼファレス殿下の事です。一筋縄でいかない可能性も。もし失敗したとして――その時は私が身代わりになりましょう。この身を引き裂かれている隙に、女王様は安全な場所へ逃げてください。あなた様のその尊き胎……次代の竜を産み落とす奇跡の器に万が一のことがあっては、この世界の損失ですから」
……やはり、そうだ。
この竜は、私ではなく私の子宮を守るためならば命さえ厭わない。
アシュレイがその狂気じみた献身に顔を青ざめさせている。
私は小さく息を吐くと、椅子を引いて立ち上がり――一歩、シロクマへと歩み寄った。
「顔を上げなさい」
「女王様……?」
私は、床に跪くシロクマの胸ぐらを掴み、その表情を睨みつけながら冷たく囁いた。
「――シロクマ。私はあなたに、ただの盾になって死ねなどと命じてはいません」
シロクマは膝立ちのまま、うっとりと己の胸ぐらを掴む私を見ていた。
「私をなんだと思っているのです。……私の下僕を名乗るのなら、惨めに死んで逃げるような真似は許しません。這いつくばってでも、私がゼファレスを殺せるように心血を注ぎなさい」
ぞくり、と。
シロクマの身体が大きく震えた。
彼の願望に付け込んだ、傲慢な女王としての命令を下すのに、罪悪感や感傷はない。
数秒の沈黙の後――シロクマの顔が、歓喜で歪んだ。
「――ッ! あぁ……っ、なんという、なんという……ッ!! 仰せのままに、我が女王様……! 全力で、必ずやあなた様に勝利の血肉を捧げてみせましょう……ッ!!」
恍惚の極みといった様子で、床に額を擦り付けて震えるシロクマ。
その光景を眺めながら――不意に、カリナがオス嫌いだと言った理由の浅い部分を理解した気がした。
「……おい、ルシア嬢」
ふと視線を感じて振り返ると、図面の端を握りしめたアシュレイが、ひどく引き攣った顔で私を見ていた。
「なんだか、君がゼファレスよりも恐ろしい魔王に見えてきたんだが。……気のせいか?」
「気のせいですよ。私はただの、か弱きぽんこつ給仕です」
私はにっこりと微笑んで、アシュレイの図面を指差した。
「さぁ、明日の殺しの手順を確認しましょう。私たちの手で、この腐った盤面をひっくり返すのです」




