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98.歪な執着

 アシュレイの広げた図面を指差し、私たちの殺意ある密談が最後の詰めを終える頃には、窓から差し込む冬の陽光が昼前の高い位置へと移動していた。

 張り詰めていた思考の糸を解くと、どっと重い疲労が押し寄せてくる。

 

 私たちは埃っぽい資料室を後にし、人目を避けるようにして薄暗い廊下を進んだ。


「……それでは女王様。私は後宮へ戻ります」


 シロクマが廊下の角で立ち止まり、恭しく一礼した。

 アシュレイは別ルートで執務室へと戻るため、「しくじるなよ」とだけ視線で告げ、足音もなく先に影の中へと消えていく。

 残されたのは、私とシロクマだけになった。


「女王様。カグツチに他に何かお伝えしておくことはありますか?」


 シロクマの問いに、私は小さく息を吸い込んだ。


「……そうですね、特にありませんが」


 強がりだった。

 もう随分と長いこと、あの不器用な火竜の顔を見ていない気がする。実際にはカグツチと離れてからまだ三日も経っていないというのに、私の身体はすっかりあの規格外の熱源に甘やかされていたらしい。

 隣に彼がいないだけで、この城の空気はひどく冷たく、張り詰めて感じられた。

 シロクマは、何もないと言いながらも立ち尽くす私の言葉を、白銀の睫毛を伏せて静かに待ってくれていた。

 私は分厚い眼鏡の位置を少しだけ直し、ぽつりとこぼす。

 

「……あなたがいないと寒い、とお伝えください」


「――承りました。歓喜で後宮の天井裏を焼き尽くさねば良いですが」


 シロクマのその声色は柔らかかった。しかし、その表情は仮面を被ったかのように無表情に切り替わった。

 ――その時だった。


 カツン、と。

 硬質な靴音が、廊下の空気を一瞬にして凍らせた。

 振り返るより先に、私は咄嗟に背中を丸め、どんくさい侍女ルウの皮を被り直す。


「――そこにいたか。ルウ」


 背筋を撫で上げるような、低く、傲慢な声。

 視線を下げたまま振り返れば、ゼファレスが冷徹な琥珀色の瞳でこちらを見下ろしていた。

 ただそこに立っているだけで、廊下の空間すべてが彼の盤面へと変貌するような、圧倒的な支配者のプレッシャー。


「で、殿下……っ」


 私は弾かれたように反射的に床に額がつくほど深く頭を垂れる。隣でシロクマもまた、先ほどまでの狂気じみた気配を完全に消し去り、最低限の言葉しか交わさない従順な竜の皮を被って平伏した。


「シロクマ、またデッドアッシュに狩られたいのか? 貴様はさっさと持ち場へ戻れ。……ルウ、お前は来い。僕の私室だ。昨日命じた仕事の進捗を確認させてもらう」


「……はい、わかりました」


 私は、シロクマと視線を交わすことなく顔を上げる。

 そしてただの下働きとして、ゼファレスの白い背中を追うのだった。


 彼が向かったのは、本城の、この間フェリシアとの一件で休んでいた部屋――ではなかった。

 そこからさらに厳重な警備が敷かれた専用の渡り廊下を越えた先にある、王太子専用の離宮。

 アシュレイがあてがわれている離宮とも、令嬢たちが押し込められた後宮とも違う。本城から物理的に切り離され、限られた近衛兵と竜種しか立ち入ることのできない、息が詰まるような完璧な要塞。

 猜疑心の塊であるこの男にとって、有象無象の気配が蔓延る本城の中に無防備な私室を構えることなど、到底耐えられなかったのだろう。


 重厚な扉が閉まり、ゼファレスの私室に入ると、そこにはすでに先客がいた。

 灰色の長髪に、生気のない黄金の瞳。デッドアッシュだ。

 彼はゼファレスの背後に立ち、無機質な動作で主の白の礼装に手をかけていた。


「……違う。右袖の端を持て。……そのまま上に引け。……そこで止めろ。次はタイを……チッ、力を入れすぎるな。首が締まるだろうが!」


 ゼファレスが苛立った声で、一つ一つ細かく命令を出している。

 デッドアッシュは虚ろな瞳のまま、瞬き一つせず、まるで意思のない重機のようにコマ送りで動いてゼファレスの上着を脱がそうとしていた。しかし、その手つきには加減というものが一切存在しない。

 ゼファレスの指示が少しでも遅れれば停止し、複数の工程を同時に命じれば不具合を起こしたようにピタリと止まる。


(……なるほど)


 その異様な光景を部屋の隅で眺めながら、私は内心で冷たく悟った。

 デッドアッシュが壊れている――少なくとも、今の私にはそう見えた。

 いくら僅かな記憶が残っていようと、それはまるでひび割れた角のように、取り返しのつかないところまで来てしまっている。


 着替えを手伝え、という抽象的な命令では、対象の姿勢や服の構造を理解して逆算することができないのだ。

 だから、あのように単一の物理動作ごとに指示を出さなければ動かせない。

 最強の防衛機構でありながら、日常においては普通の竜種より扱いづらい。

 この最高権力者は、たかが服を脱ぐためだけに、毎朝毎晩、あんな途方もない労力をかけて身支度をしているのだ。

 やがて、デッドアッシュの指がタイの結び目に引っかかり、ゼファレスの首元を乱暴に引っ張る形になった瞬間。


「――チッ、もういい。下がれ!」


 ゼファレスはひどく忌々しげにデッドアッシュを遠ざけた。

 彼は苛立ちを隠そうともせずベッドの縁に深く腰を下ろすと、部屋の隅に控えていた私を鋭く睨みつける。


「……ルウ。お前がやれ」


「……かしこまりました」


 私は短く応じ、静かに歩み寄って彼の正面に立つ。

 彼が私を信用したわけではない。ただ、あの壊れた竜に一つずつ命令を下すよりも、上着を脱がせろ、という一言だけで空気を読んで全自動で動いてくれる、吐き気のしない便利な道具を選んだだけだ。


 部屋の隅でデッドアッシュが無機質に立ち尽くす中、私は憎き男の顔を間近で見下ろしながら、その白い上着の襟元へゆっくりと手を伸ばした。

 私の指先が彼の肩口に触れた、その瞬間だった。

 ビク、と。

 ゼファレスの身体が、微かに跳ねた。

 布越しに伝わってくるのは、先ほど廊下で放っていたあの傲慢な威圧感がすべて虚勢だったのではないかと思うほどに、弱々しく、小刻みな震えだった。

 呼吸が浅くなり、全身の筋肉が拒絶反応で強張っているのがわかる。

 女に触れられることへの、本能的な恐怖。


(……本当に、酷い欠陥ですね)


私は内心で冷たく嗤いながらも、表面上は恭しい侍女の手つきを崩さず、ゼファレスの上着のボタンを一つずつ外していく。

 そして、彼の背後へと静かに回り込みながら、肩から腕へとゆっくりと上着を剥いでいった。

 その過程で、私はこの男の肉体を――暗殺のための構造を、正確に手探りで検分していた。


(左腕は、肩の付け根からばっさりとない。……なるほど、服のシルエットが崩れないように、肩の部分にだけ義手のような硬い装具を入れて誤魔化しているのですね)


 触れなければ分からない精巧な偽装。

 右の肩幅、首の太さ、脈動の速さ。

 私は上着を背中へと滑らせながら、この男の無防備な喉元へ視線を這わせた。

 今、この至近距離で喉を貫くことは――出来そうもない。

 この男がいくら恐怖で震えていようと、残された右腕と背筋には、鍛え抜かれた確かな武の気配がある。

 素手で中途半端な殺意を見せれば、その瞬間に右腕一本で組み伏せられ、ゼファレスに腕の骨を折られるか、或いは部屋の隅にいるデッドアッシュに即座に首の骨を折られておしまいだろう。

 私は焦る心を静かに宥め、彼から完全に上着を脱がせ終えた。


 そして――何の気なしに、それをゼファレスの隣、ベッドの空いたスペースにぽいっと放り投げた。

 その瞬間だった。


「……貴様」


 ゼファレスの声が、一気に数度下がった。

 小刻みな震えがピタリと止まり、代わりに射殺すような琥珀色の瞳が私を睨みつけている。


「本当に侍女か? 普通、主人の上着は丁寧に畳むかハンガーに掛けるものだろう。まるで、脱ぎ捨てた自分の服を扱うような手つきだったが」


(――しまった)


 心臓が冷たく跳ねる。

 ヴァレット家の令嬢として育ち、侍女にかしずかれる側だった私には、他人の服を恭しく扱うという下働きの常識が身体に染み付いていなかったのだ。

 私は咄嗟に背中を丸め、大げさに肩をビクンと震わせた。


「も、申し訳ございません……っ」


 私はベッドに放った上着を慌てて回収し、胸に抱き抱えて何度も頭を下げる。


「で、殿下の玉体(ぎょくたい)に触れているというだけで緊張してしまい、頭が真っ白に……! 私、本当にどんくさくて、お皿を粉々にしたり玉ねぎを消滅させたりしてしまったもので、殿下の高価なお召し物をどう扱えばいいか分からず……っ」


「…………チッ、そうだったな」


 私の無能なぽんこつ侍女という言い訳を聞いて、ゼファレスは深い、心底呆れ果てたようなため息を吐いた。

 昨日、侍女長が私を破壊兵器だと嘆き、壁拭きに左遷していたことを思い出したのだろう。

 彼の目から先ほどの剣呑な光が消え、無害な欠陥品を見る目へと戻った。


「もういい、それは適当な椅子にでも置いておけ。……次は、右の手袋だ」


 ゼファレスは、唯一残された右腕を私の方へすっと差し出した。

 黒い革の手袋に覆われた手。

 命令を下すその声は傲慢だったが、差し出された指先は、先ほどの上着の時よりも明らかに強く震え始めていた。

 布越しではなく、直接肌に触れられることへの、逃れようのない本能的な恐怖。

 私は上着を近くの椅子に適当に置き、再びゼファレスと向き合う。

 そして、震える彼の手首を、下からそっと支えるように両手で包み込んだ。


「――失礼いたします」


 指先に触れた瞬間、ゼファレスの喉がひきつったように鳴り、全身が硬直するのが分かった。

 女に触れられれば吐き気がする。それはゼファレスの合理性では制御できない、脳の防衛反応だ。

 それでもこの男は逃げなかった。私という無害なものを介して、自らの欠陥を無理やり矯正しようとしている。


「……殿下。そんなに強張らないでください。私はただの、都合の良い道具です」


 私は、あえて母親が幼子をあやすような、静かに落ち着いた声を出す。

 復讐の対象である男の右手を、まるで愛しい肉親のそれであるかのように慈しみ、言われた通りゆっくりと手袋を脱がしていく。

 黒革の下から剥き出しになったその手の甲には――手首の奥、袖の中へと続くように、赤黒い火傷のような痣が這っていた。


「……ふぅ、う……」


 ゼファレスの呼吸が荒くなる。額には薄っすらと汗が滲んでいる。

 嫌悪感と、それを上回る自分を受け入れる存在への飢餓感。その激しい葛藤が、吐き気がするほど生々しく伝わってくる。


「……やはり、お前は違う」


 ゼファレスは、苦悶に満ちた表情のまま、歪な笑みを浮かべた。


「お前の手には、欲がない。僕から何かを奪おうとする卑しい女どものような、不快な熱が一切ない。……冷たく、空虚で……心地いい」


(……ええ。お望み通り、あなたへ向ける感情は何もありませんよ。殺意以外は)


 私は目を伏せ、奥歯を噛み締めて衝動を押し殺すことに努めた。

 禍々しい痕が滲むゼファレスの右手を眺めながら――この手がアルトを殺し、私を絶望に叩き落としたのだと思うと、頭が痺れるほどの憎悪が湧き上がる。


「……後にも先にも、僕が触れてもいいと思えるのは一人だけだと思っていたのだがな。案外、近くに転がっているものだ」


 ゼファレスがふいにこぼしたその言葉に、私の思考が引っ張られた。

 それは、アシュレイの話していたルウシェと言う侍女の事だろうか。

 私はあくまで何も知らないルウとして、無知を装って問いかける。


「その方は、殿下にとって特別な方だったのですね」


「――分からない。あの女は、僕の最も憎むべき対象の()()だ」


 手袋を持つ手に、自然と力が篭った。


 ――貴族。


 私の思考が一瞬止まる。

 ルウシェは侍女だ。貴族ではない。

 ならば()()()()()()()()()()()()とは、別の誰かということになる。

 最も憎むべき対象である貴族でありながら、この男が手を伸ばした相手――。


(……まさか、私ですか)


 竜継の儀の夜。あの白薔薇の香るテラスで、ゼファレスが私に手を伸ばした出来事。

 それが、極度の女性不信を抱えるゼファレスにとって、どれほど異質で異常な行動だったのかが今になって分かる。

 見目を変え、立場を変え、名前を変えても、この男はルシア・ヴァレットと言う人間に固執し、同時にルウという虚像にも執着している。


 まるで光に群がる這い虫のように。

 この男は、私という人間そのものを見ているわけではない。私の奥底にある何か――彼自身がひどく飢え、求めてやまない何らかの幻影を勝手に透かし見て、縋り付こうとしているのだ。


(……本当に、吐き気がしますね)


 これ以上、(ルシア)について深掘りするのは危険だった。一言でも間違えれば、この男はすぐに違和感に気付く。

 出来るだけ口を開かないこと。それがルウとしてこの男の前で出来る有効な戦い方だ。

 沈黙を埋めるように、私は彼の手の甲にこびりつく禍々しい痕へと視線を移した。


「――痛みますか」


「……気安く尋ねるな。ただの痣だ」


 ゼファレスは不快そうに顔を顰め、その手を乱暴に引っ込めた。

 しかし、彼が隠そうとしたその言葉の裏に、私はある種の強がりを嗅ぎ取っていた。


(……ただの痣、なわけがありません)


 すでに失われた左腕――それはデッドアッシュの改名の代償として支払われたと、アシュレイから聞いている。

 竜は、絶対的な因果に縛られる生き物だ。

 先ほど、袖の奥へと這うように広がっていたあの禍々しい痕は、ただの火傷などではない。

 まるで彼の中に流れる竜の血が、脆弱な人間としての四肢を一つ残らず喰らい尽くし、代償として奪い去ろうとしている、残酷な呪いの進行のようだった。


「……左腕と同じように、渡すつもりはないがな」


 不意に、ゼファレスが誰に言うでもなく、ひどく傲慢な声で吐き捨てた。

 それは私に向けた言葉ではなく、自らの身体を蝕む()()そのものに対する、絶対的支配者としての身勝手な拒絶だった。


 ……深く考える必要はない。

 彼がどんな呪いを抱え、何に足掻いていようと、私のやることは変わらない。


「……殿下のお心が少しでも安らぐのなら、私はいつでもこの手を差し出しましょう」


「……あぁ。今日はもういい、戻れ」


 ゼファレスは限界を迎えたように目を閉じ、ベッドの上で深く息を吐いた。

 彼に手を放されたあとも、その手の甲に浮かぶ歪な痕が、じわりと嫌な熱を持って私の網膜に焼き付いていた。

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