99.凍てつく夜と火竜の熱
夜も更けた頃、私は石造りの使用人室をこっそりと抜け出した。
凍てつく廊下を抜け、本城から後宮へと続く連絡通路を渡る。シロクマが事前に人払いをしてくれたおかげか、跳ね橋の周辺には衛兵の姿どころか、巡回する竜種の気配すらも綺麗に消し去られていた。
(……薄気味が悪いほど、静かですね)
誰もいない石畳を歩き、私は中庭の陰になった死角へと立ち止まる。
冷たい夜風が、私の侍女服の裾を揺らした。
頭上を見上げる。雲の切れ間から覗く星の光が、本城へと続く巨大な黒い影を照らし出していた。
――ヒュッ、と。
風を裂く音がした。
それは巨大な質量が空から落ちてきたとは思えないほど、あまりにも静かで、羽毛が舞い降りるような着地だった。
私のすぐ目の前の石畳に、一切の音を立てることなく彼が降り立つ。
星の光を弾く、色とりどりの鱗。暗闇の中でもはっきりとわかる、溶岩のように熱を孕んだ金色の瞳。
「ルシア!」
彼は私の姿を見るなり、大きな体を丸めるようにして、私の身体をふわりと持ち上げるように力いっぱい抱きしめた。
「……く、苦しいですよ、カグツチ」
その熱に触れた瞬間、私の中に張り詰めていた冷たい盤面の計算式が、嘘のように溶けていくのを感じた。
「よく、竜体にもならず飛びましたね……足、大丈夫ですか?」
「こんなの全然」
宙に浮いたままの私を傷つけないよう、ひどく繊細な力加減で抱きしめてくる彼の体温に、私はゆっくりと目を閉じた。
首筋に押し当てられた彼の唇から、規格外の熱が伝わってくる。
冷え切っていた身体がじわりと解けていく感覚に、私は毒を飲まされたかのような甘い眩暈を覚えた。
――いけない。この熱に慣れてしまえば、明日の戦場を冷徹に歩くことができなくなる。
私は彼を押し戻そうと、その分厚い胸板に両手を添えた。
その瞬間、カグツチの動きがピタリと止まった。
私を抱きしめていた腕が解かれ、私の足が静かに石畳へと下ろされる。代わりに、私の左手が彼の大きな両手で掬い上げられる。
「……ルシア。なに、これ」
カグツチの声が、スッと温度を失った。
金色の瞳が、暗闇の中で恐ろしいほど細められている。
彼の視線の先にあるのは、私の左手。薬指と小指に巻かれた、痛々しい白い包帯だった。
「誰にやられたの」
地を這うような、低い声。
先ほどまでの甘い体温が、触れれば火傷しそうなほどの危険な熱を帯びていく。
「これは私が、あの男の懐に潜り込む盤面を整えるために自ら折っただけです。もう完全に繋がって完治していますし、これは怪しまれないためのただのカモフラージュ――」
「それって、ゼファレスのせいって事だよね」
落ち着いた声色なのに、周囲の空気がビリビリと震えた。
まるで、押してはいけないボタンを押してしまったような――その緊張感に背筋が冷える。
「治ったからいいって問題じゃない。……痛かったよね。ゼファレスの仕業なら、あいつ、絶対に許さない……、今すぐ灰に変えようか」
彼の金色の瞳が、闇の向こうの本城を冷酷に睨み据えた。ただならぬ殺意を纏って歩み出そうとする彼を、私は両腕で必死に引き止めた。
「待ってください! 彼に近づく権利を得るための、ただの一手です。この程度の代償で盤面がひっくり返るのなら安いものなのです」
私がそう説明すると――カグツチは今にも泣き出しそうな顔を見せた。
その表情に私は驚いて、一瞬呼吸を忘れてしまった。
「――なんでルシアはいつもそうなの」
悲しみの中に、確かに怒りの熱を孕んだ金色の瞳。
随分と長いこと離れていたせいで感傷的になってしまっているのか――そう判断するより先に、カグツチは困ったように笑ってみせた。
「……ごめん。感情的になって。それで、話って何?」
彼の手が、壊れ物にでも触れるかのように、震えながら私の包帯を包み込む。
その笑顔に私の胸がひどく軋んだ。
(……本当に、私は救いようのない、最低な人間ですね……あなたの番だというのに)
私をこれほどまでに案じてくれる彼に、私は今から、さらなる地獄を押し付けようとしているのだから。
「……はい。今は時間がありません。手短に話します」
私はその熱に絆されそうになるのを必死に堪え、その手を預けたまま分厚いレンズの奥で彼の金色の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「明日、後宮が空になり入れ替わりでデッドアッシュがやってきます。カグツチは後宮でデッドアッシュを足止めしてください」
「うん? どういうこと?」
「戴冠式の直後行われる宴の時に、あの男に私の血を飲ませます。デッドアッシュはゼファレスの防衛機構です。あの男に毒が回り切るまでの間、デッドアッシュを抑えてほしいのです」
「――ダメだ」
私の包帯を包み込んでいたカグツチの手が、ひどく熱を持った。
「それって、ルシアが一人であの男に挑むって事だよね? 絶対にダメ。あいつはヤバい。もし……オレがデッドアッシュの足止めなんかしてる間に、ルシアになにかあったらどうしたらいいの?」
カグツチの震える声。私を握るその手には、二度と離さないという悲痛なまでの力が込められていた。
この竜は、私が死ねば――いや、死ぬかもしれない状況下だと判断を下した瞬間に、この世界は火の海に飲まれて終わるだろう。
「……カグツチ。私の原初の夢を話しましょうか」
私の静かな問いかけに、カグツチの身体がピクリと跳ねた。
私は彼を見上げ、星明かりに照らされた自分の瞳に彼を映し出す。
「夢の中で、私は血に染まった玉座の前に立っていて、足元には誰かの首が転がっていました。……その首は、ゼファレスのものでした」
「……そうだったんだ」
「だから、私が彼に殺される未来なんて、最初から存在しません。私は死にません、絶対――」
言い終えるより先に、カグツチは私の眼鏡をそっと外し、私のエプロンのポケットへと押し込んだ。
彼の金色の瞳の中に私が映っている。
やがて再びカグツチの腕の中へ閉じ込められた。
「ねぇ、そこにちゃんとオレはいた?」
竜の理において、原初の夢はこれから起こる事ではなく既に決まっている事だ。
私が原初の夢を見たあの日、真っ青な顔をしていたのを思い出したのだろうか。カグツチの身体が僅かに強張っている。
「えぇ。カグツチも隣にいてくれました」
「……そっか。よかった」
カグツチは安堵したように、けれどどこか熱に浮かされたような声で私の肩に顔を埋めた。
「わかった。原初の夢を出されたら何も言えないよ。……デッドアッシュを足止めして、すぐにルシアのところに行く」
「はい。信じていますよ。……そして、もう一つ伝えなければならないことがあります」
ここからが、今夜の本当の本題だ。
私は、彼の金色の瞳を覗き込み、意を決して唇を開いた。
「デッドアッシュ……あの竜は、あなたの父親です」
カグツチは、瞬きを繰り返したまま、静かに黙り込んだ。
私はカグツチから目をそらさないまま、血を吐くような思いで言葉を継ぐ。
「……カグツチ。私は……どういう因果かは分かりません、でも私はあなたの父を、終わらせてしまう」
喉の奥から感情が溢れ出しそうになるのを必死に抑えようとしたら、声が震えてしまった。
カグツチは困ったように眉を下げ、私の頬にそっと触れた。
「……そっか。それがルシアにそんな顔をさせてた原因なんだね」
その大きな手のひらが持つ熱は、私の一番触れてほしくない、心の一番冷たいところに届くほどの温度だった。
「オレを育ててくれたのはアグレストのみんなだよ。……会ったこともないのに、いきなりあれが父さんだって言われたところで、オレにはよく分かんないし」
そうだとしても。
私は、まるで祈るように胸のあたりで手を組んでいた。
「……ごめんなさい」
カグツチの大きな手が、私の握りしめた手を包み込んだ。
あたたかい、その手の熱だけが、今この極寒の城の中で唯一信じられる真実のように感じられた。
強がりだと自分でも分かっていた。視界が歪んでいく。
カグツチにとってデッドアッシュは他人かもしれない。
ロボが言っていた通り、デッドアッシュもカグツチの事を人間と同じように我が子だと認識することはないだろう。
私は、カグツチの親を終わらせる者――終わりの少女。
あの狂った竜の終わらない悪夢を解放してやるのだから、これは因果の救済なのだと。
もう人間ではない私にとって、カグツチさえ親殺しの業を背負わないのであれば、あとはどうとでも割り切れると思っていた。
けれど、いざ本人を目の前にすると――彼から親を奪うという事実は、そう簡単に割り切れるものでもないのだと気付かされた。
やがてカグツチはぽつりとこぼした。
「でも、もしデッドアッシュがルシアを傷つけようとしたら――その時は手を出すなっていうのは無理だからね」
「……私がゼファレスを討った直後――デッドアッシュは止まると思っています。しかし主を失った彼がどう動くのか、私にも分かりません」
私は、盤面に残された最大の不確定要素を口にする。
「デッドアッシュの防衛条件がわからない以上、機能停止するのか、あるいは防衛失敗で無差別に暴れ狂うのか――予測ができません……最悪の場合、理性を失ったバケモノとして牙を剥くでしょう」
「……」
「それでも、殺さないでください。彼がどれほど暴れても――私がゼファレスを殺し、彼を縛る因果の呪縛を断ち切るその瞬間まで」
それは、私がゼファレスに毒を盛り、その命が尽きるまでの数分間。
「彼を……あなたの父を、殺さずに押さえつけてください」
「……難しいなぁ」
カグツチの手の熱が、私の矛盾の輪郭をなぞる。
握った私の手に少しだけ力を込め、諦めたように小さなため息をついてみせた。やがて静かに目を伏せ、少しだけ考えるような仕草を見せた。
「オレ、言ったよね。ルシアに何かあったら全部火の海にしちゃうよって。そのオレに、ルシアが傷つけられそうになっても、殺すなって言うの?」
「……そう、言っています。心臓を剥き出しにしながら針に糸を通せと、酷なことをあなたに言っています。ですが――あなたの強さならそれが可能だと私は思っています」
私がそう言い切ると、カグツチはほんの少しだけ目を伏せ――やがて、ふわりと暗闇の中で花が咲くように笑った。
「わかった。ルシアのお願いなら、なんだって聞くよ。……誰も殺さない。デッドアッシュのことも、殺さずに止めてみせる」
私がどんなに残酷な要求をしても、彼なら絶対に頷いてくれると分かっていた。
だからこそ――そのあまりにもあっさりとした迷いのない承諾に、私はどれほど救われたことだろう。
張り詰めていた安堵の息を吐き出そうとした、その時だった。
その金色の瞳で私を真っ直ぐに見据えた。
「――その代わり」
カグツチの声が僅かに低くなる。
そこに従順だった竜の姿はなく、その瞳には確かに欲が宿っていた。
「ちゃんと誰も殺さずに、綺麗な剣でいられたら……オレも、ルシアに一つだけお願いをしていい?」
彼の口から出た予想外の言葉に、私は思わず言葉を失った。
今まで、彼は私に何かを要求したことなど一度もなかった。ただ「ルシアの剣でいるだけでいい」と、見返りなど求めないのが彼の構造だったはずだ。
それが今、明確な対価を求めてきている。
「……それは、どのようなお願いですか?」
「んー、今は内緒。全部終わってからのお楽しみ」
カグツチは悪戯っぽく笑い、冷たくなった私の頬を、再び彼自身の温かい両の手で包み込んだ。
「だからルシアは、前だけ見てて。……オレが全部、ルシアの望むように道を作ってあげるから」
終わらせることは、もう因果で確定している。
カグツチの迷いのない笑顔が、どんな毒よりも深く私の胸に染み渡った。
私はゆっくりと彼の手を解き、一歩、後ろへ下がる。
明日の夜、この世界が血と炎に包まれるとしても。
私はこの竜と共に、地獄の先にある未来を掴み取ってみせると。
エプロンのポケットから取り出した眼鏡をかけ直すと、視界は再び、偽りの侍女ルウとしてのぼやけた世界に戻った。
けれど、瞼の裏に残るカグツチの金色の瞳の熱だけは、何者にも奪えない真実として私の芯を焼き続けている。
「――また明日、玉座の前で」
「待って、ルシア」
私が本城の方へ踵を返した瞬間、引き止める声とともにその規格外の熱が背後から降ってきた。
私と彼とでは、頭一つどころではない圧倒的な身長差がある。
カグツチは長い脚を折って深く屈み込むと、私を隠すように背後から大きな両腕を回してきた。
小さな身体がすっぽりと閉じ込められる。背中に押し当てられた分厚い胸板から、彼自身の心臓の音が力強く伝わってきた。
「カグツチ……」
「もう少しだけ。……オレがいないと、寒いんでしょ?」
私の肩に顎を乗せ、首筋にすり寄せられた赤銀の髪がくすぐったい。
シロクマに託した私の伝言を盾にして、彼は迷子のように私に縋り付いていた。
――あぁ、本当に。この熱に甘えてしまえたら、どんなに楽だろう。
ずっと包まれていたかった。私を丸ごと飲み込んでしまうような彼の腕の中は、この凍えるような世界で唯一の、絶対に私を裏切らない安全な炉端だ。
このまま振り返って彼に抱きついてしまえば、どれほど満たされるだろうか。
「ええ、寒いです。……だからこそ、行くのです」
その熱を振り切るように彼の手を解き、振り返らずに一歩、闇の方へと踏み出した。
背中越しに、カグツチが静かに息を呑む気配がした。
「……カグツチ」
私は歩みを止め、背を向けたまま、夜空に煌めく青白い星を指差した。
「あの星が見えますか?」
あの星の名前を私は知らない。
この世界には星の一つ一つに名前を付ける文化はない――けれど、隣の世界ではあの星にもまた名前が付いていて、ひょっとしたらその名の因果を持つ竜がいるのかもしれない。そんな事を考えていた。
「あなたと番になった時も――あの星は見守ってくれていました。きっと全てが終わったとしても、あの星はずっと夜空からこちらを見守ってくれている。そんな気がするのです」
私はゆっくりと指を下ろし、空気を切り裂くように告げる。
「――だから、先に伝えておきます。明日で全てが終わります。……私が、あなたの番であることは変わりません。この寒さも、痛みも。すべて引き連れて、私は人の世から追放されます」
私の傲慢なまでの独白が、夜の静寂を塗り替えていく。
カグツチは、しばらくの間、何も言わずにその背中を見つめていたが――やがて、すべてを飲み込んだような、深く柔らかな溜息が聞こえた。
「――うん。どこまでだって一緒だよ」
その真っ直ぐな言葉の熱が、冷え切った私の背中にあたたかく伝わってくる。
カグツチは、それ以上無理に抱き寄せることはしなかった。
彼もまた、この不器用な距離こそが、今の私たちが保てる精一杯の信愛であることを理解したのだろう。
私は彼が差し出してくれたその決意を、吞み込むように深く息を吸った。
「おやすみなさい。また、明日」
「うん。おやすみ、ルシア」
一度も振り返ることなく、私は闇の向こうへと歩き出した。
愛なんて言葉は、この惨たらしい盤面にはきれいすぎる。
復讐のその後に何が待っていたとしても――私は、私の剣になると共に在ってくれた彼のために歩みを止めたりしない。
氷のように冷え切った思考を呼び戻し、私は、因果が収束する戴冠式の朝へと向かった。




