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94.魔王へ至る道

 来た道を戻るのは難しい事じゃなかった。

 竜種たちには私がメスである事は伝わっているようで、私の顔を見るなり人間の兵士に見つからないようご丁寧に案内までしてくれた。

 おかげで、誰一人として私に気付くことなく、無事に本城にあてがわれた使用人室の一室の扉の前まで辿り着くことができた。


 小さく息を吐き出し、冷たいドアノブに手を掛ける。

 ――その時だった。

 部屋の中から、微かに特有の冷たい気配が漏れ出しているのを感じた。

 直感的な悪寒に、心臓が警鐘を鳴らす。


 私は表情を怯えた侍女のものへと完全に固定し、そっと扉を開けた。

 月明かりだけが差し込む薄暗い部屋の中。

 使用人の狭い部屋にソファが無いからだろう。粗末なベッドの上に深々と腰掛け、長い脚を組んでいたのは――あり得ない影だった。


「――随分と遅かったじゃないか。ルウ」


 闇に浮かぶ琥珀色の瞳が、獲物を値踏みするような冷たい光を放って私を射抜く。

 他でもない、ゼファレス・ファ・ヴォルシュタインだった。


「……ゼファレス、殿下」


 私は敢えて動揺を隠さず、静かに扉を閉めて深く一礼した。

 深夜に、主である王太子がただの下働きの部屋の暗闇で待ち構えている。

 異常事態以外の何物でもない。

 アシュレイたちとの密会がバレているのか――数秒の間に最悪の可能性が脳内を駆け巡る。


「こんな深夜に、どこをほっつき歩いていた?」


 声のトーンはひどく平坦だったが、明らかに疑惑の目を向けていた。

 私はあえて肩を震わせ、伏せた目の奥で必死に思考を回転させる。


 ここで「水を飲みに」などと誤魔化せば、すぐに裏を取られて終わる。

 私は、この男が望むであろう言葉を必死に探した。

 この男がルウに求めるものは自己犠牲をも厭わない献身だ。それは、別にゼファレスに向いていなくても構わない――ならば。


「も、申し訳ございません……。お嬢様の事が気掛かりでいても立ってもいられず、後宮へ向かおうとしました」


「――あの女のことは忘れろと言ったはずだが?」


 ゼファレスは僅かに苛立ちを見せた。


「私にとってお嬢様は、忘れろと言われて忘れられるほどの人ではないのです」


 その言葉にゼファレスの苛立ちは一瞬にして消え失せる。

 この男は――この献身をいつか自分に向かせられると思っているようだ。

 そんな日はありはしないと言うのに。

 侍女ルウと言う仮面の奥で目を細め、私はこの傲慢な男を見据えていた。


「ですが……本城が広大すぎて、迷ってしまいまして」


「迷った?」


「はい……。暗い階段を下りてしまい、地下の深い場所へ。……暗くて何も見えず、恐ろしくなって逃げ帰ってきたのです」


 私の言葉に、ゼファレスは探るような視線を向けた後、やがて小さく鼻で笑った。


「……なるほど。地下牢か。運が良かったな、あの()()()()に襲われなくて」


「防衛、装置……? あそこには、何が……」


 私が怯えたように問うと、ゼファレスは退屈そうに足を組み替えた。


「以前貴族だった男だよ。名前は……ガーモンドだったか。深夜の地下牢の警備をさせている」


 私は、その名前に思わず息を呑んだ。

 洗濯室でせっせと衣類にアイロンを掛けていたあの竜種――その主。


「……後宮の洗濯室で、噂を聞きました。ガーモンド家の主と竜はあなたに粛清されて消されたと」


 私の呟きに、ゼファレスは心底不思議そうな顔をして、ふっと笑みをこぼした。


「消し去った? ……ルウ、君は僕をただの狂った暴君か何かと勘違いしているんじゃないか?」


「……し、しかし、アイロンを溶解池に捨てたと!」


「あぁ。あの暗殺に失敗した竜のことか。あれは使い物にならないからな。処分場に放り込んで終わらせた。だが、ガーモンド自身は生かしている」


 ゼファレスは冷酷な合理性を誇示するように、淡々と告げた。

 この冷徹な男の事だから、てっきり処刑しているものかと思っていたが、彼は生きていた。もっとも――貴族として育った人間が肉体労働など、死よりも辛い地獄だろう。


「竜は道具、人間は資産だ。資産をみすみす殺すなど、そんな非合理的な真似をするわけがないだろう。二度と僕に逆らえないよう、精神の髄まで教えたまでさ。彼は永遠に、誰もいない地下牢の見回りと言う無意味な役職から逃れられない」


 ゼファレスの言葉に、私は背筋が凍りつくのを感じた。

 殺されたのではない。誇り高き貴族としての尊厳を完全にへし折られ、死ぬことすら許されず、一生涯を最底辺の歯車としてシステムに組み込まれたのだ。


(人間は、資産……)


 この男はいま、間違いなくそう言った。


 だったら――なぜ、この男はアルトを殺したのか。

 人間を資産として使い潰すのであれば、なぜ彼の命を奪う必要があったのか。

 矛盾している。あの日の凄惨な死の理由だけが、この男の語る盤面のルールと全く噛み合っていない。


 アシュレイは頑なにその理由を話そうとはしなかった。

 いや、聞かなくて正解だったかもしれない。

 胸の奥で、静かな怒りが渦を巻いていた。

 もし、そのアルトを殺した理由が些細で、下らない、取るに足らない理由だったとしたら――私はこの内側の業火(いかり)を抑えきれる自信がなかった。

 

 ゼファレスはベッドに腰掛けたまま、冷酷な笑みを浮かべた。


「死は救済だ。だが、僕の盤面にそんなものは与えない。使えるものは、擦り切れて完全に灰になるまで使い潰す。……お前も、僕の城で二度と不審な真似はするな」


 何が――救済だ。

 怒りに頭が支配されそうになる。

 それでも冷たい空気で肺を満たし、平静を装った。


「……承知いたしました。殿下」


 私は怯えて服従したふりをしながら、首を深く垂れた。

 ゼファレスは私の反応に満足したのか、冷たく鼻を鳴らす。


 狂った暴君であったなら、失脚は容易だった。

 この男は、狂った暴君ではない。合理性の塊をした化物だ。本当に一部の隙も見当たらない。

 話は終わったはずだが、それでもなお立ち去ろうとしないゼファレスに、私は震える声を微かに取り繕いながら問いかけた。


「……ところで殿下。一体どのようなご用事で、このような使用人室なんかにいらっしゃったのですか?」


 その琥珀色の瞳が剣呑に細められた。


「――喜べ、ルウ。お前に役目をやろう」


 低く、底冷えのする声だった。

 心臓が嫌な音を立てるが、私は表情を強張らせたままゼファレスを見上げる。


「侍女長から報告が上がっている。ノエルの大事な側付きは、玉ねぎの皮もまともに剥けず、洗濯一つ満足にこなせない無能だと。……別にいい。僕はお前にそういったものは求めていない」


 ゼファレスはベッドから立ち上がり、ゆっくりと距離を詰め、私を見下ろす。

 束ねられた髪の先が私の額に触れそうなほど、ゼファレスは距離を詰めていた。


「――やはり、そうか」


 何かを確信した物言いに、心臓が煩いくらいに声を上げていた。


 ――私がルシア・ヴァレットである事がバレたのか。


 違う。それはない、ゼファレスの表情は落ち着いている。

 私がルシア・ヴァレットであると分かれば別の反応を取るはずだ。

 浅い呼吸を繰り返しながら、ゼファレスの次の言葉を待った。


「僕は女に触れられない。近付かれるだけで吐き気がする。……今朝の無様な姿を見ただろう」


 私は黙って頷いた。


「お前は――不思議と、嫌悪感が湧いてこない。なぜだ?」


 その答えを知っていながら、分からないふりをしてこの男は笑みを浮かべていた。

 この男はいま、私に決定的な弱みを敢えて見せている。

 自分が望む言葉を差し出せと暗に言っている。


 ここで答えを間違えれば、地下牢の防衛装置の仲間入りだ。

 すべてが無駄になる。

 私は、震える両手を胸の前で固く握りしめ、必死にこの男が望む言葉を探り当てる。


 なぜ、この男は私に嫌悪感を抱かないのか。

 フェリシアのような貴族の女たちが持つ体面や誇りや強欲な自我を持たず、他者のために己の指すら平気で折る狂信的な自己犠牲を見せたからだ。

 そしてこの男は、その私の性質に奇妙な執着と安心感を抱いていることを自覚した上で、あえて私自身の口でそれを言わせようとしている。

 

 私はゆっくりと顔を上げ、ゼファレスの琥珀色の瞳を真っ直ぐに見据えた。


「……私が、女としての誇りも体面もない、ただのぽんこつだからでしょうか。それとも――」


 あえて言葉を切り、静かに、しかし確かな熱を帯びた声で続けた。


「私が、ノエル様のためなら……自らをどれだけでも安く売り渡せる、都合の良いモノだからでしょうか」


 ゼファレスの瞳の奥が、僅かに揺れた。

 この男が最も欲している無条件の自己犠牲の提示。

 私は自らを徹底的に無害な道具へと貶めながら、言葉を紡ぐ。


「殿下は先ほど、人間は資産であり、使い潰すものだと仰いました。……殿下が女性に触れられず、不都合が生じているのであれば、どうか私をその資産としてお使いください」


「……ほう?」


「殿下の毒見役でも、他の令嬢を遠ざけるための盾でも構いません。殿下の視界を汚さない、ただ呼吸をするだけの便利な道具として……私を、殿下の傍で使い潰してください。その代わり――」


 それから僅かに息を吸い込んだ。

 きっとこれだ、この男が一番欲している言葉は。


「――ノエル様の安全を担保していただけるのならば」


 数秒の、重苦しい沈黙。

 ゼファレスは私の顔をじっと見下ろしていたが――やがて、堪えきれないように喉の奥で低く笑い声を上げた。


「……ククッ、ハハハハッ! 素晴らしいな、ルウ。やはりお前は僕の見立通りの女だ」


 ゼファレスは心底愉快そうに目を細め、私への警戒を完全に解いた。


「ノエルのためなら、自ら進んで僕の盤面の最も過酷な歯車になるか。……いいだろう。お前のそのくだらない狂信、僕が最大限に利用してやる」


 ゼファレスはゆっくりと立ち上がり、私を見下ろした。

 その目には、合理的な支配者の冷酷さと、(ルウ)は裏切らない――裏切れないという確信が宿っていた。


「戴冠式の場で、僕の隣に立て。女性不信の王という悪評は要らない」


 どうやら私の回答は、この男が望んだ正解に限りなく近いものだったようだ。

 ゼファレスの琥珀色の瞳が僅かに細められる。

 

「これは命令だ。期限は設けない。――僕の呪いを解け」


(呪いのような女性不信――なるほど、それがお前の欠陥か)


「……あの女を救いたければ、完璧に僕に傅いてみせろ。分かったな?」


「……はい、殿下。……必ず」


「よろしい。せいぜい足掻くことだ」


 ゼファレスは私の完璧な回答に心底満足したのか、踵を返した。


 重たい扉が閉まり、ゼファレスの足音が完全に遠ざかるまで。

 私は暗闇の中で微動だにせず、ただ、静かに伏せていた顔を上げた。


 そして、ひどく自然に、笑みがこぼれた。


「……ふふっ。あなたは怪物なんかじゃない――ただの、母の愛に飢えた可哀想な男」


 口の中で自らの舌を軽く噛む。

 鉄の味が、口内にじわりと広がる。

 これ以上の好機があるだろうか。

 どうやってあの男の懐に潜り込もうかと思案していたというのに、ゼファレス自身の気色悪い執着と傲慢さが、私を最も無警戒に近づける特等席を用意してくれたのだ。


 私は、暗闇の中でただ一人、笑っていた。

 笑わずにはいられなかった。


 原初の夢――あの玉座で、私が誰かの首を刎ねることはもう確定している。

 だったら、その首はお前のものだ。

 私はあの男の喉元を、内側から確実に食い破る。

 たとえその因果の対価として、私自身が永遠に魔王へと成り果てるのだとしても――喜んで引き受けよう。

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