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92.終わりの少女

「……もう、本当に何も手立てがないのでしょうか」

 

 アシュレイは私の問いには答えないまま、無言でソファから立ち上がると、簡易的なキッチンへ向かった。


 黒曜石でできた平らな面の上にヤカンを置き、側面のダイヤルを回す。

 カチャリ、という音と共に、黒曜石の内部に埋め込まれた魔石が淡い青色の光を放ち始めた。

 あの上に鍋を乗せると温めることができる魔道具――コンロ、と言うらしい。今朝、厨房で玉ねぎの皮を剥いているときに見たものよりは小型だが、原理は同じだろう。

 消毒薬が充満するこの部屋には、ひどく不釣り合いな光景だった。

 アシュレイが戸棚からカップを二つ取り出した辺りで、彼がお茶を淹れようとしているのだと気付いた。


「おいアシュレイ! ヤカンに水が入ってねェぞ! また空焚きしてヤカンを駄目にする気かよ!?」


 ロボの怒声に、アシュレイは慌ててダイヤルを戻そうと手を伸ばす。慣れない竜の腕のせいで距離感を誤ったのか、彼はコンロではなく手前に並べたばかりのカップを派手になぎ払い、床に粉砕してしまった。

 私は咄嗟に近くにあった花瓶の花を引っこ抜き、青い光を放つコンロに向かって中の水を直接ぶちまけた。


「ルシアてめぇ、直接水ぶっかける奴があるかよ!? 火が出ないタイプのコンロに水なんて掛けたら壊れンだろアホ! これだからキッチンに立ったことのねぇ貴族様はよォ!! あ、おいアシュレイ割れたカップに触んな! そのままにしといて明日使用人にやらせろ!」


「侍女ならここにおりますが……」


 と、スッと手を上げると「ままごとじゃねェんだよ、俺はメスだからって甘やかさねェぞ」とすごい形相で睨まれてしまう。


 惨状を前に、アシュレイは深くため息をつき、包帯が巻かれた腕で自身の顔を覆った。


「……茶は諦めよう」


 私とアシュレイは、足元のガラス片を避けるようにして、再びソファに腰を下ろした。

 水浸しの床と散乱した花。

 その滑稽な光景は、しかし数秒の沈黙の後、元の重苦しい空気へと急速に沈んでいった。


 聞くべきことは山ほどあった。


「デッドアッシュはゼファレスの防衛機構と化している。だからゼファレスに刃を向ければ、確実に狙ってくる――その根拠は?」


 一番聞かなければならないのはそれだろう。

 デッドアッシュはゼファレスの防衛機構。しかし、そこに不確定要素があれば付け入る隙があるのではないだろうか。


「あぁ、その推測を裏付ける事実はある。ゼファレスが命定改名(ミューテ・ノメン)を発現させてすぐに王位継承権はゼファレスに移り――それ故に、暗殺未遂が起きた。……その時だ。デッドアッシュは迷うことなく、暗殺者の首を無造作にへし折ってみせた。まるで、それが彼に残された唯一の機能だと言わんばかりにな」


 ロボは、身体が痛むのかもう起き上がることもせず、ベッドに身体を預けたまま言った。


「それだけであれば、デッドアッシュがゼファレスの防衛機構になったのだと断定出来る。しかし――それから三年が経ったある日。デッドアッシュはゼファレスが気に入っていた侍女の首の骨をへし折った。本人の目の前でだ」


 気に入っていた侍女――侍女長が言っていた不幸な事故の話を思い出し肌が粟立つ。

 暗殺者を殺すことと、お気に入りの女を殺すこと――それは決して結びつくことはない。


「わかんねェんだよ、あいつが何を考えてるか。……何がしてェんだよ、あいつは」


 ロボは忌々しげに牙を剥き出しにした。

 悔しそうに歯を食いしばるロボを横目に、アシュレイが深くため息をついた。


「デッドアッシュが何を基準に動いているのか……俺たちにも分からない。しかしその一件を境に、ゼファレスは自分の身の回りの世話から人間の使用人を一切排除し、デッドアッシュに日常のすべてをやらせている」


 それは普通ならありえない事だ。

 しかしゼファレスの合理主義を考えるのなら――例えお気に入りの侍女を殺したとしても、自分に逆らわない防衛機構であれば憎しみを抱く事なく道具として使うのだろうか。


「……それはお気に入りの侍女を殺したことへの当てつけですか?」


「分からない。最近は細かい指示を出すのが不便だ、と愚痴を零していたがな」


「……隻腕であれば日常生活も一筋縄ではいきませんものね」


 細かい指示を出さなければ命令が通らない。つまり、大雑把な命令はうまくこなせないと言う事だ。

 昼間に私の命令が通ったのも、メスの本能という絶対条件に加えて、洗濯室にセイデンキを捨てろと言う明確で単純な指示だったから、というのもあるのだろう。


 やがて、ロボが忌々しげに歯を鳴らした。


「……まァ、普段どれだけ不便なポンコツだろうが、ただ一つ確実なのは――ゼファレスへの脅威だと分かった瞬間に、デッドアッシュは最悪のバケモノとして襲ってくるってことだ」


 私がゼファレスに敵意を見せた瞬間、デッドアッシュが襲ってくると仮定して。

 その時、カグツチは間違いなく私を庇い、デッドアッシュを返り討ちにする。

 何も知らないカグツチは、降りかかる火の粉を払うために、自らの手で父親を焼き殺すことになる。


 デッドアッシュを倒せないわけじゃない。

 でもそれは、ゼファレスの首に私の手を届かせるのと引き換えに、カグツチに父親を殺させるのと同義だった。

 それが種族として躊躇いのない行いだとしても――彼に親殺しの業を背負わせるなど、絶対に許容できなかった。


 ふと――昼間の倉庫での、あの異常な出来事が脳裏に蘇る。


「……一つ、聞き忘れていました」


 私は静寂を破り、二人へ視線を向けた。


「なんだ?」

 

「終わりの少女――という言葉に、聞き覚えはありますか? 今日、デッドアッシュが私を見て、そう言っていたのです」


 その瞬間。

 アシュレイは怪訝そうに眉を寄せたが、ベッドの上のロボは、目を見開いていた。


「……あいつが、お前を見てそう言ったのか?」


「ええ。確かにそう呼ばれました」


「……クソッ。そういうことかよ」


 ロボはひどく忌々しげに、あるいは残酷な運命に戦慄するように、顔を歪めた。


「いいか、ルシア。あいつは最初から今のポンコツだったわけじゃねェ。……改名された直後はまだ、主の危機を自ら察知して動く鋭い自律性が残ってた。暗殺者を仕留めた時も、誰に命令されるでもなく自分の意志で動いてたんだ」


 かつてのデッドアッシュは、ゼファレスの影として、その叡智を尽くして主を守護する完璧な騎士だった。

 だが、その鋭利な精神は、時間をかけてゆっくりと、しかし確実に削り取られていったのだ。


「さっき、あいつの自我が長い時間で摩耗したっつったな。……あいつは改名されてから毎日、自分の原初の夢を繰り返し見てやがる。竜にとって原初の夢の反復はひどい負荷だ。だから自我が擦り切れて壊れちまった」


 ロボの言葉に、鋭い氷を背筋に差し込まれた感覚に囚われた。

 原初の夢が負荷になる――そう言われて、あの日見た血だまりの玉座の夢を思い返した。


 あれは、魂に押される永遠の焼印だ。

 自身の因果という真っ赤に焼けた鉄を、傷が塞がる前に毎晩何度も、同じ箇所に押し当てられる地獄。どれほど屈強な精神を持った竜であっても、痛みで自我が焼き切れ、ただ呼吸するだけの肉塊に成り下がるには十分すぎる負荷だろう。


「で、あいつは眠りから覚めるたび、壊れた頭でうわごとのようにずっと呟いてたンだよ。終わりの少女ってな」


 ロボの金色の瞳が、ベッドの上から私を射抜く。


「あいつの終わらない悪夢に終止符を打つ、死神。……それが、お前だったってわけだ」


「原初の夢――それは己の因果が定まる時、でしたよね」


「あぁ……別に今際の夢ってわけじゃねェけどよ。終わりって付いてんだから……そうなんだろうよ」


 点と点が繋がり、一つの巨大な因果が完成した。

 デッドアッシュの原初の夢の内容までは分からない。

 ただ、確かなことが一つだけある。

 デッドアッシュを終わらせる者は、カグツチではない。

 私という存在が、デッドアッシュ自身の狂気の中で何度も夢に見た、因果の終着点だったのだ。


「……ふふっ」

 

 私は、思わず小さく吹き出した。

 あまりにも出来過ぎた、美しい悲劇の脚本。

 この世界は私に死神だの魔王だの――そう言ったものを押し付けるのがよほど好きなようだ。

 誰が書いた運命かは知らないが、私がその死神の役を割り当てられているというのなら、カグツチの手を汚さずに済むのなら、喜んで引き受けよう。


「教えてくれてありがとう、ロボ。……ええ、私が彼の終わりですね」


 私はそれ以上思考を深めるのをやめ、静かに己の役割を受け入れた。

 その私の迷いのない決断を見て、ロボがふと、ひどく真剣な、静かな声で私を呼んだ。


「……なぁルシア。お前が、あいつの因果を終わらせる死神だって言うなら。これは俺の個人的な頼みなんだがよ」


 ロボは身体をゆっくりと起こすと、私を真っ直ぐに見据えた。


「あいつを終わらせてやってくれねェか」


 私が答えるより先に、沈黙していたアシュレイが静かに口を開いた。


「……俺は」


 彼は分厚いレンズの奥の目を伏せていた。


命定改名(ミューテ・ノメン)で自我を壊される前……あいつはよく、俺におじい様の武勇伝を語って聞かせてくれた。……分かっている。デッドアッシュが苦しんでいるのなら、終わらせてやるべきだ。しかし……」


 アシュレイの言葉に、ロボは短く鼻を鳴らした。


「あいつは朴念仁の割に、レヴォネスの世話を焼いてた頃から人間の子の扱いだけは妙に上手かったからな」


「そうだな……。母亡き後、子を顧みなくなった父の代わりを、お前達はしてくれた。だからこそ、今の状態を彼が望んでいるとは到底思えない。……楽に、させてやるべきなんだろうが……」


 アシュレイの言葉は淡々としていたが、そこには確かな痛切さが滲んでいた。

 どれほど人を駒にしようと眉ひとつ動かさない男が、言わば身内であるデッドアッシュを殺すという選択肢に、その理性を激しく揺らしている。


「……本当に、それしか道はないのか? 例えば、ゼファレスの呪縛さえ解けば、或いは……」


 アシュレイの声が、微かに震えていた。

 身内に対する、あまりにも無垢で執着に近いその甘さ。冷徹な策士であるはずの彼の、致命的な弱点。


「彼はもう、戻れません。……彼自身が、終わらせてくれと叫んでいるのです」


 私は出来るだけアシュレイの神経を逆撫でしないよう、努めて冷静に言った。


「どの道、デッドアッシュにとって私が終わりの少女であるのなら、彼の終わりは避けられない。……それでも、カグツチと殺し合わせることだけは避けられる」


 私は、自分でも驚くほど深く、穏やかな安堵の息を吐き出した。

 ずっと喉の奥に(つか)えていた冷たく鋭い棘が、一瞬で溶け落ちていくような感覚。

 ああ、良かった。彼の手を汚さずに済むのなら。

 彼を親殺しという地獄の因果から、私がこの手で引き剥がせるのだと言うのなら――これ以上の救いなど、どこにもない。


「ほんっと、お前狂ってるぞ。デッドアッシュを終わらせるのがカグツチじゃなくて自分ならそれで構わねェのかよ。……お前は救済に自分は換算しねェのかよ?」


 ロボの呆れたような、けれどどこか縋るような問いかけに。


「違いますよ。結果は変えられない。なら、せめてその過程から地獄を抜きましょう、と言うお話です」


 私は静かに目を閉じ、昼間の倉庫での出来事を思い返した。

 あの時、私を見下ろしたデッドアッシュの濁った黄金の瞳。

 そこに一瞬だけ宿った、まるでずっと私に会いたかったとでも言うような、あの哀しい光。


(――彼は、待っているのだ)


 永遠に繰り返される焼印のような夢の苦痛から、自分を解放してくれる終わりを。


 竜は因果の生き物。原初の夢は因果が定まる時。

 私自身も原初の夢を見ているからこそ、その絶対性は痛いほど理解している。

 具体的な戦術や勝算など、今の私には一つもない。――そんなものは必要ないのだ。

 盤面がその時を迎えれば、因果の引力が勝手に彼を終着点へと導いてくれるだろう。

 だから私は、ただ運命が交差する場所に立ち、待ち焦がれた彼を迎え入れてやればいい。


 後は私の思い描く理想を叶えるための辻褄合わせを始めよう。

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