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91.壊れきらぬ魂

 部屋に入った瞬間、ツンと鼻を突いたのは、高価な香水や茶の香りではなく――消毒薬の匂いだった。


 広々とした豪奢な私室の奥。

 天蓋付きの巨大なベッドの上に、その影は横たわっていた。


「……ロボ」


 思わず声が漏れた。

 一昨日、アシュレイに背負われていた時よりもきちんとした処置は施されているようだが、その姿は痛々しいという言葉すら生ぬるい。

 ゼファレスから一体何をされたのか――両手両足が包帯でミイラのようにぐるぐる巻きにされていた。

 さらに、強酸の溶解池に浸かってしまったのだろうか、以前は背中まであった黒い長髪は、短くなっていた。

 今の彼は、ベッドから起き上がることすら困難なように見える。竜種の尋常ならざる治癒力をもってしても、まともに歩けるようになるまでには数日はかかるのではないだろうか。

 それでも、金色の瞳だけはギラギラと野良犬のような光を放って、私を睨みつけてきた。


「無様で悪かったな!」


 身動き一つ取れない状態――かと思いきや、その巨体をぴょんと跳ね起こし、ベッドの上に足を組んで座り直した。

 掠れた声の第一声は、いつものロボだった。

 私は静かに息を吐き出し、丸眼鏡を外して懐にしまった。


「随分と派手にやられましたね」


「ケッ。竜種の骨なんて一晩寝りゃくっつき始めンだよ。それよか皮膚の再生が遅くって腹立つ。痛くて眠れやしねェ」


 ロボは胡座の上に肘を付いて頬杖を付きながら、隣に立つ男を視線で示した。

 アシュレイはシャツの袖を捲り上げた姿で立っていた。

 両腕は分厚い包帯で巻かれているが、下には竜の腕があることを私はもう既に知っていた。


「……それにしても、まさか本当に一人で、あの警備網を抜けてくるとはな」


 アシュレイは部屋の真ん中にあるソファへ腰掛けるよう私へ促したので、遠慮なく腰を下ろす。

 彼もまた、テーブルを挟んだ対面のソファに静かに腰を下ろした。


「竜種の生態を利用しただけです。彼らの本能は、メスには逆らえません」


「だろうな。メスに逆らう即ち死。生存戦略としての媚びへつらいはさぞキモかっただろ、ルシア」


 ロボはニヤニヤと悪い笑みを浮かべる。

 彼の言う通り、敬われているのに微塵も良い心地がしなかったのはそのせいだろう。

 

「……その、竜の本能についてですが。少し、腑に落ちないことがあるのです」


 私はアシュレイとロボ、二人の顔を交互に見据えた。


「昼間、セイデンキと倉庫にいる時にデッドアッシュと会いました」


 その名が出た瞬間、ロボの金色の瞳が剣呑に細められ、アシュレイもまた表情を引き締めた。


「セイデンキは後宮の竜だろ。なんで本城にいる?」


「後宮の竜は全て掌握済みです」


 ロボはベッドの上に仰向けに寝転び、天井を仰いでいる。


「……マジか。シロクマもかよ?」


「えぇ。そのシロクマがセイデンキに言伝を持たせ潜入させたのです」


「シロクマが……? あの誇り高きグレイシャルの竜が、君にそんな忠告をするのか?」


 アシュレイにはまだ後宮での詳しい出来事を話していない。

 その誇り高きグレイシャルの竜は何層にも塗り固めたとんでもないハリボテだ。

 すると、ロボが掠れた声で自嘲気味に笑ってみせた。


「アシュレイ、お前は竜種って奴をわかってねぇ。あいつらはそうあるべきだから主に従ってるだけで、意思のねェ道具じゃねぇんだよ。怒りがねぇからマシに見えるだけの、本能に忠実な化物だ」


 確かに、洗濯室で見てきた竜種達は、今まで私が貴族と言う役割のもとで見てきた竜種の姿とは乖離している。

 メスに忠実に生きる姿こそが、彼らの本来の在り方なのだろう。

 その忠実の本能が、デッドアッシュに適用されたように――私には見えた。


「恐らくですが、デッドアッシュと会話が成立しました」


 私の淡々とした報告に対し、アシュレイの指先が止まり、ロボの視線が鋭く固定された。


「デッドアッシュは、心臓を止めて完全な死体を偽装したセイデンキを、機能停止したゴミだと認識しました。そして、そのまま忘却の溶解池へ捨てに行こうと彼を担ぎ上げたのです」


 二人は私の話を黙ったまま聞いていた。


「そのままでは本当に溶かされてしまうので、私がデッドアッシュに指示を出しました。そのゴミは、後宮の洗濯室に捨ててくださいと」


 部屋に、しんとした静寂が落ちた。


「……は?」


 ロボが間抜けな声を漏らす。アシュレイも目を瞬かせている。


「素直に頷いて、指示通りに去っていきましたよ。今頃、洗濯室にいる誰かが回収しているはずです」


 数秒の間。

 私の言葉の意味を脳内で反芻し、理解したロボが――。


「――ッ、ぶっ、ぎゃははははははははッ!!!」


 突然、ベッドの上で体をよじらせて爆笑し始めた。


「イッテェ! あばら痛ェ! 火傷の響く……ッ! ゲホッ……ひははははッ!! マジかよお前……っ、あいつをゴミ捨て係のパシリに使ったのかよ!? あのデッドアッシュを!?」


「デッドアッシュにメスの命令は通る、そういうことですよね」


「最高だぜルシア……ッ! 完全にぶっ壊れてゼファレスの命令しか聞かなくなったはずの頭でも、メスの理不尽な本能だけはしっかり残ってやがるのかよ! あー痛ぇ、骨がずれる……笑わせんな……ッ」


 包帯ぐるぐる巻きのまま涙目で笑い転げるロボを横目に、アシュレイは分厚いレンズの奥で深く、しかしどこか安堵が見え隠れするため息をついた。


「……竜種の生態とは、かくも恐ろしいものだったか。俺の想定していた盤面が、根本から崩れていく気がするよ」


「……そっか、あいつ……まだ完全にぶっ壊れてるわけじゃねェんだな」


 ロボはのそりと上体を起こし、再び肘をついた。

 視線を床に落としながら、僅かに微笑んだロボを前に、私は小さく口角を上げた。彼のその笑みは、かつての戦友にまだ魂が残っていたことへの、残酷なまでに純粋な喜びに見えた。


 私は一度視線を床に落とし、瞼を伏せる。

 ゼファレスの首を討つのにデッドアッシュの防衛機構の排除は必須だ。


「――シロクマは、デッドアッシュは強い個体を外敵と見なして最優先で襲ってくるように命令が組まれているはずだと言っていました。なのでカグツチが王城に入る事をひどく危惧していたのです。ですが――」


 私は、あの巨大な灰色の影に支配された空間を思い出し、言葉を続ける。


「私の見た彼は、そんな単純な防衛機構には見えませんでした」


「あァ? どういうことだ」


 私は、あの倉庫での数分間を反芻する。


「私を――かつての伴侶であるカリナと誤認し、私がセイデンキに襲われていないか身を案じる素振りを見せた」


 アシュレイが絶句し、頬杖を付いていたロボの腕ががくんと外れてその場に倒れ込む。


「自我を失い、命令に従うだけの道具になったはずの彼が、です。……アシュレイ様、シロクマの言う強者を狙う防衛装置という分析は、本当に正しいのでしょうか?」


 ロボは呆れたように鼻で笑った。


「はっ。あのカス野郎、本気でそう分析してやがったのか」


「……違うのですか?」


「あぁ、勘違いも甚だしいな。デッドアッシュは強さなんて微塵も気にしちゃいねェよ。あいつが本城で、ゼファレスが命令してねェのにシロクマに殺しにかかったのは……ただ単に昔から、あのカス野郎が心底嫌いだっただけだろ」


「……嫌い? デッドアッシュは壊れていると仰っていたので、もう思考する能力すらないものかと……」


 竜種が他者を嫌悪するなどという感情的な理由に、私は思わず眉を寄せた。


「あぁ。あいつにもう何か考える余力も何にも残ってねェよ。でも昔――ゼファリオンのとこに行く前は、決闘でシロクマと当たると主の命令ガン無視でズタズタに切り刻んでやがった。主様の命令絶対厳守の貴族遊戯でだぞ? 最終的にわざとらしく負けて主の命令は守ってたみてェだが……時期的に考えるとたぶんカリナ関連で、個人的に嫌いだったんじゃねェかな」


「……」


 倉庫でのデッドアッシュの言葉を思い出す。

 私とセイデンキがただその場にいただけで、襲われていないかと心配するのはあまりにも飛躍しすぎである。

 何があったのか詳しい事は分からないが――シロクマの情報よりも、デッドアッシュの事をよく知るロボの方が情報としては信頼出来る。


 シロクマの理知的な推測が、ただの個人的な嫌悪感という身も蓋もない理由で根底から覆された。

 半分焦げながらセイデンキを走らせたシロクマの真剣な決死の警告を思い出し、私は何とも言えない脱力感に襲われる。

 命定改名(ミューテ・ノメン)についての誤認といい、シロクマや洗濯室にいた竜たちのゼファレスに関する推測は、どうやらあまり役に立たなそうだ。


「どうやら私が知っている情報は、どうも出処が信頼出来なくなりました……デッドアッシュはゼファレスに従っている、この前提に間違いはありませんか?」


「……壊れている故に多少の欠陥はあるものの、そう思ってくれていい」


 アシュレイは何か言いたげだったが、それ以上は語らず頷いた。


「メスの命令が通るのであれば――ゼファレスの首に手を掛ける瞬間に私が動くなと命令を下せば、彼は無力化できるはず……ですが」


 私は敢えて言葉を濁した。

 メスの命令が確実に優先される保証がない。

 あの竜種がどちらを優先するのか、自信が持てなかったからだ。


 私の推測に、先程まで笑っていたロボの表情がすっと固まる。


「……残念だが、お前のその足止め作戦は使えねェ」


 ロボが忌々しげに舌打ちをした。


「昼間、お前の命令がデッドアッシュに通ったのは、ただのゴミ処理のルート変更……業者に対してこのゴミは分別しろ程度のお願いだったから通ったんだろうよ。でもな、もしお前が本気でゼファレスに殺意を向けた時、あいつの壊れた頭が主の防衛命令とメスへの服従のどっちを優先するかなんて、誰にも分からねェ。最悪の場合、矛盾した命令で防衛本能が暴走して、お前を真っ二つに引き裂くぞ」


 それはつまり、脅威の排除とメスの命令を並べた時に、後者が確実に通る保証はどこにもないと言う事だ。


「……ゼファレスに殺意を向け行動に移った瞬間デッドアッシュが私を襲う――そうなれば、カグツチがあの竜と戦うことは避けられない……カグツチなら葬ることが可能でしょう。ですが――」


 私がそう告げると、僅かに表情の翳ったアシュレイとは打って変わって、ロボの表情が酷くこわばった。

 まるで、今から話す出来事をすでに知っていたかのように。


「デッドアッシュは――カグツチの父親だって聞いたのか」


 私が口を開くより早く、ロボが絞り出すように言った。

 その言葉に、部屋の空気が完全に凍りついた。


「……えぇ。シロクマとセイデンキから」


「なるほどな……カリナの最期に女王の巣に残ってたのがあいつらだったのか……」


 ロボは忌々しげにため息をついた。

 アシュレイが分厚いレンズの奥で表情を陰らせ、私は重苦しい沈黙と共に目を伏せる。


「ロボ、デッドアッシュとカグツチが親子だなんて初耳だが……なぜ俺に教えてくれなかった」


「知らない方がマシなことだって世の中にはあンだよ」


 ロボの口ぶりは、まるでずっと前から知っていたような言い方だった。


「――私は、カグツチとデッドアッシュを戦わせたくありません」


 私は静かに、しかしはっきりと告げた。


 何も知らない息子と、壊された父親。

 きっとゼファレスが意図して組み上げたわけではないこの因果。

 けれど、その因果の引力に、私の大切な者をこれ以上引き摺り込ませるつもりはない。

 それを運命だと笑って受け入れるほど、私は物分かりの良い人間ではなかった。

 私は深くソファに背を預け、この歪な盤面をどう食い破るべきか――出口のない迷路の先を見据えるように、じっと沈黙した。

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