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90.絶対女王特権

 深夜。下働きたちが眠る棟から、私は音もなく抜け出した。

 日付が変わる刻。アシュレイとの約束の時間だ。

 月明かりだけが頼りの薄暗い廊下の影に身を潜めながら、私はアシュレイからもらった羊皮紙の地図を片手に離宮へと続く連絡通路の様子を窺った。


 アシュレイの事前情報の通り、そこには厳重な警備が敷かれていた。

 等間隔で立つ人間の衛兵たち。そしてその傍らには、ドラグマキナたちが付き従っている。

 ゼファレスの支配下にある彼らの瞳には何の感情も、怒りも宿っていない。ただの美しい人形のように立っている。

 人間の衛兵の視界を掻き潜ることは、さして難しくない。

 問題は、鋭い感覚を持つ竜種たちの探知網だった。

 通路の中程。暗がりを移動していた私の気配に気づき、一人の美しい青年の姿をしたドラグマキナが、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。


 その金色の瞳が、暗闇の中で私を捉えた。

 ――見つかった。

 本来なら、即座に衛兵に知らされ、捕縛される場面だ。

 しかし、竜種の瞳は私を見た瞬間に大きく見開かれた。


 そして、信じられないものを見るように微かに震え――次の瞬間、彼はいっそ見事なほどの流れるような動作で、その場にひれ伏そうとした。


(……洗濯室の時と同じですね)


 いや、洗濯室の彼らは人間の目がなかったが故に騒がしかったが。

 三百年間、メスが絶滅した世界を生きてきた彼らの本能は、私の気配だけでメスであることを一瞬で察知したのだ。


「――お静かに」


 私は静かに歩み寄り、ひれ伏そうとした竜種の肩をそっと押さえた。

 そして、彼が発声するより早く、その耳元へと顔を寄せ、微かな声で囁く。


「……私がここを通る間、人間の衛兵たちの目を逸らしておきなさい。決して気付かれないように」


 女王の巣で、絶対的上位者であるメスの機嫌を取り、媚びへつらってきた彼らオスの生態。

 私のその耳打ちを聞いた竜種は、感情のない顔のまま――しかし、どこか誇らしげに深く頷いた。


「おい、どうした?」


 不審な動きに気づいた人間の衛兵が近づいてくる。

 すると竜種は、衛兵の前にすっと立ち塞がり、自らの長身と外套を使って私から衛兵の視線を完全に遮った。

 さらに、普段は喋らないはずの口を開き、明後日の方向を指差して「あちらで物音が」と、堂々たる嘘をついて衛兵を誘導し始めたのだ。


(……見事な手際ですね)


 私は彼らの背中を眺めながら、内心で感心していた。

 メスには逆らえないという生態は混沌極まり厄介だ、と洗濯室で学んだが――まさか敵陣のど真ん中でこのような役の立ち方をするとは思わなかった。

 私は、竜種の背中の陰を悠然と通り抜ける。

 すると、まるで波が伝播していくように。

 通路に配置されていた他のドラグマキナたちも、次々と私の気配に気づき始めた。

 私は歩みを止めず、すれ違う彼らへ向けて、ただ指先で「しーっ」と唇を押さえてみせる。

 たったそれだけだ。


 しかし――希少なメスから直接、秘密の合図を送られたオスたちの本能は、私の想定を遥かに超える暴走――もとい、猛烈なアピールを開始した。


「お、おい! 急にどうした!?」


「前が見えん、マントを広げるな!」


 ある者は衛兵の目の前に突然立ちはだかり、無表情のままバサァッとマントを翻して視界を塞いだ。

 ある者は衛兵の肩を強引に抱き寄せ、「あちらの月が美しい」とでも言いたげに窓際へ連行し始める。

 まるで後宮の洗濯室を思い起こさせる出来事に、僅かに目眩を覚えた。


(……カグツチがここにいなくて良かったです)


 貴族による長年の摩耗により感情を奪われている者が多い中、彼らの行動からは「メスに良いところを見せたい」という必死なオスの悲哀すら伝わってくる。

 人間の衛兵たちが「えっ?」「お前ら急に何なんだ!?」と大混乱に陥る中、ドラグマキナたちは無言かつ無表情のまま、私の歩く経路から一切の人間を排除していく。

 それはさながら、私のためだけに敷かれた不可視のレッドカーペットだ。


 ふと――歩みを進める私の横に、一人の美しい顔立ちのドラグマキナが音もなく並んだ。

 彼は無表情のまま、私の歩調に合わせて歩きながら――突如、自らの外套の下から尻尾を引っ張り出した。


 私がいぶかしむ暇もなく、彼は自分の尻尾の、根元の鱗に指をかけ――。

 ――ぶちッ!!!

 静寂の通路に、生々しく、不快な音が響き渡った。

 彼は無表情のまま、自分の尻尾の鱗を、根元から数枚、力任せに剥ぎ取ったのだ。

 その剥ぎ取られたばかりの、光沢のある鱗を指先に挟み、彼は何事もなかったかのような顔で、それを私のエプロンのポケットへ、さりげなく――と本人は思っているようだが、バレバレの動作で私のエプロンのポケットに突っ込もうと手を伸ばしてきた。


 私はその手を躊躇なく、しかし静かに素早くはたき落とした。

 パシッ、と。乾いた音が薄暗い廊下に響く。

 彼は、はたき落とされた自らの手を感情のない金色の瞳で見つめ――やがて私のエプロンを、そして私の顔を、悲しげに、そして申し訳なさそうに見つめた。


(怒りのない生き物には少し厳しく接するくらいがちょうど良いのですね……)


 ロボの「メスに逆らう即ち死」という言葉を思い出し、私は彼を無視して再び歩き出した。


 ゼファレスが絶対の自信を持っていた恐怖の警備網が、ただ私がそこを歩くだけで、シュールな喜劇へと塗り替えられ、音もなく瓦解していく。

 竜種の奥底に刻まれたメスへの絶対服従――そしてあわよくば気に入られたいという本能のルールは、決して上書きできないのだ。


 私は、衛兵たちだけが何も気づかず困惑している滑稽な通路を悠然と抜け、離宮の奥――アシュレイの私室へと到達した。

 周囲に人影がないことを確認し、重厚な木製の扉を三度、静かに叩く。


「……入れ」


 扉の向こうから、低く落ち着いた声が返ってきた。

 私はドアノブを回し、素早く部屋の中へと滑り込んだ。

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