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89.おもかげ

 デッドアッシュの金色の瞳は明確に私の存在を認識し、捉えている。

 じりじりと焼けるような焦燥感がその場に蔓延する。


(……なぜ、彼がここに?)


 本城の奥深くで主の警護をしているはずの彼が、こんな離れの倉庫にいるはずがない。

 先ほどのセイデンキの微弱な雷の音を聞きつけて、確認しに来たのだろうか。


 しかし――その虚ろな金色の瞳は、侵入者を警戒しているというよりも、ただひたすらに何かを探して彷徨っているように見えた。

 微かに鼻先を揺らし、目に見えない匂い――あるいは気配のようなものを無意識に辿ってきたような、ひどく覚束ない足取り。


(まさか……。洗濯室の竜たちと同じように、私のメスの気配に惹きつけられたとでも言うのでしょうか)


 弱い個体であれば対象外だと言っていたが――いや、シロクマたちは命定改名(ミューテ・ノメン)の事もよく分かっていない。

 彼らは、あの呪いの内情をあまりにも知らなすぎる。弱い個体であれば襲わないと言う定義は鵜呑みに出来ない。


 シロクマのみ限定的に襲った可能性、そもそも竜を敵対している可能性――様々な可能性が頭の中で交差するが、どれも正しい答えとは思えなかった。

 いや――冷静に観察すれば、すぐにわかった。

 彼はただ、本能のままに匂いを辿り、扉を開けた先に私たちがいたから無機質に見下ろしただけだ。

 その証拠に明確な敵意や殺意は一切ない。


 答えに至るより先にセイデンキが動いた。

 本能で圧倒的な強者の気配を感じ取ったのだろう。

 「ヒュッ」とセイデンキの短い悲鳴が重なった次の瞬間、彼はいっそ見事なほどの潔さで白目を剥き、自らの心臓の鼓動を完全に停止させた。

 ドサッ、と。糸の切れた操り人形のように、セイデンキの身体が冷たい石の床に崩れ落ちる。

 微弱な雷の気配すら、一瞬にして消失していた。

 あまりにも素早い決断に私は呆然としていた。


 デッドアッシュは、ピクリとも動かない足元のセイデンキを虚ろな目で見下ろした。

 自分は弱いから襲われないと言っていたのだから、そもそも死体偽装する意味はないのでは、と呆れてしまったけれど――結果としてデッドアッシュの視線がセイデンキに移ったのは幸いだった。


 驚きも、殺意も――感情らしい感情はひとつもない。

 ただ動かなくなった障害物を物理的に再確認しているかのような、ひどく機械的で冷たい挙動だった。


 倉庫に残されたのは、ただの人間のフリをしている私と、入り口を塞ぐように立つ巨大な灰色の影。

 いま、こうしてまじまじと見つめたその顔立ちには――僅かに面影があった。


(……カグツチ)


 息が止まる。

 太陽のように眩しかった息子の、その光をすべて削ぎ落とし、底知れない絶望の泥を塗りたくったような(かたち)

 心臓が早鐘を打ち、全身の血がまるで凍りついたみたいに指先が冷たい。

 決して似ているわけじゃない。そこにカグツチのような温かささえ微塵もない。

 それでも彼は――カグツチの父親だと理解出来る程度には、通ずる部分があった。

 

 デッドアッシュの濁りきった金色の双眸(そうぼう)が、やがてセイデンキからゆっくりと私へ向けられた。


 私は微動だにできず彼を見つめ返した。

 敵意は感じられない。

 しかしその圧倒的な大きさで見下され、自然と身体が強張ってしまう。

 数秒が、永遠のように感じられる。


「……カリナ」


 その、何も映さないはずの濁った黄金の瞳に、パチリと火花が散るような光が宿った。

 思考が停止する。

 その名前を呼ぶ声は、錆びついた鉄が擦れるような酷い掠れ方だったが、ひとつひとつの音には、痛いほどの慈しみと、縋るような哀切がこもっていた。

 デッドアッシュがぽつりとこぼした言葉は――かつての伴侶の名。

 言葉も、自我も、己の因果さえも忘却の淵に捨てたはずの化物が、いま、目の前で個を取り戻していた。


「……ちがう。カリナは、もう……」


 言いかけて、デッドアッシュはふらりと視線を落とした。

 それは間違いなく、主の命令に従うだけの道具には許されない、剥き出しの絶望を孕んだ静寂だった。

 ほんの僅かな間を置いて、彼はゆっくりと膝を折り、私の前にしゃがみ込んだ。

 巨躯が沈み、視線が私と同じ高さで重なる。


「――襲われては、いないか」

 

 その問いかけに、私は息を呑んだ。

 彼は、足元に転がっている――死体に偽装したセイデンキを、鋭い眼光で射抜いていた。

 言葉から察するに、私がセイデンキに襲われていないか身を案じているようだった。

 その震える大きな手が、私の肩に触れるか触れないかの距離で彷徨い、守るように空間を遮った。

 ――この竜は、壊れているのではなかったのか?

 

 やがて、デッドアッシュは再び顔を上げ、じっと私を見据えた。

 感情の削げ落ちた、仮面のような貌。

 けれど、私を見つめるその眼差しが、急速に色を変えていく。

 迷い、悲嘆、混乱――それらが波が引くように消え去り、代わりに、信じられないほど深く、穏やかな透明な光が、その瞳の底から溢れ出した。


 それはまるで、何年も暗闇の中で待ち続けた救い主に、ようやく巡り合えたかのような安堵だった。


「……終わりの、少女」


 それは私を呼んでいるのか、あるいは彼にしか見えない幻影に縋っているのか。

 けれどその響きには、長すぎる悪夢から解放されるのを待つ囚人が、重い鎖を解かれる瞬間を夢想するような、甘美なまでの諦念が混じっていた。


 ――終わりの少女。

 それが何を意味するのか、私を指しているのかさえ分からない。

 けれど、彼は間違いなく、安堵していた。


「あなたは――」


 私が思わず声をかけようとした、その時だった。


「……ぐ、……ッ」


 突如、デッドアッシュはひどい頭痛に襲われたかのように、大きな手を自身の額に押し当てた。

 立ち上がると、そのままもう片方の手を壁に押し当てた。

 メキ、と石壁にひびが入っていき、崩れ落ちるのではないかと見守っていると――やがて空気ごとぴたりと静まり返った。


 彼は顔を伏せたまま、しばしの間、ひたすらに沈黙した。

 痛みを堪えるような、あるいは内なる絶対的な何かと戦っているような、不気味なほどの静寂。


 やがて――額に当てられていた手が下ろされた時。

 彼の瞳から、先ほどの微かな生気は完全に失われていた。

 そこにあるのは、再び黄金に濁った、ただ命令に従うだけの無機質な光だけ。


 デッドアッシュは私という存在に対する興味を完全に失ったように視線を外すと、足元に転がっているセイデンキの首根っこを無造作に掴み上げた。


「……っ」


 私は声を上げることも、止めることもできなかった。

 デッドアッシュは、微動だにしないセイデンキの身体をボロ布のように肩に担ぎ上げると、私には一瞥もくれず、重い足取りで来た道を戻っていく。


 太陽の光が再び倉庫の中に差し込み、私はその場にへたり込みそうになるのを必死に堪えた。


(……忘却の溶解池に、運ばれるのでしょうか)


 今のデッドアッシュの目には、鼓動を止めたセイデンキは、単なる回収すべき機能停止したゴミとして映っているのだろう。

 このままでは、彼は本当に最下層でドロドロに溶かされてしまう。


 私は、去っていく黒い軍服の背中に向けて、努めて平坦な――ただの城の下働きとしての事務的な声を投げかけた。


「……恐れ入ります。その竜を溶解池に運ばず、後宮の洗濯室へ捨てることは可能ですか」


 ピタリ、と。

 重い足音が止まった。


 振り返ったデッドアッシュの金色の瞳が、再び私を捉える。

 沈黙。

 やがて――無言のままゆっくりと顎を引いた。


 肯定のサインだ。

 そのまま、デッドアッシュは再び歩き出し、今度こそ完全に太陽の光の中へと姿を消した。


(……ふう)


 私は小さく、しかし深く息を吐き出した。

 冷や汗で背中がべったりと濡れている。

 彼が私の指示をあっさりと聞き入れたのは、彼の中に設定された城の清掃やゴミ処理のルート変更程度の認識だったからか、それともメスだからと言う理由で命令が通ったのか。どちらとも確証は持てなかった。


 とにかく、これでとりあえずセイデンキが溶解池に直行する最悪の事態は免れたはずだ。

 あとは、洗濯室にいる誰かが、放り込まれたセイデンキを上手く回収してくれるだろう。


「……さて。さっさと小麦粉を運んでしまわなければ、侍女長に叱られてしまいますね」


 私は胸の奥に残る終わりの少女という言葉を無理やり冷たい檻の中に押し込めると、残りの重い麻袋に手をかけ、再び大食堂へと戻っていくのだった。

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