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88.英雄を殺す者

 アシュレイとの密会を終え、資料室を後にした私が侍女長の元へ戻ると、時刻はもう昼を過ぎていた。


「……書物をバラバラにしたりしていないでしょうね?」


 私が姿を見せるなり、侍女長はひどく警戒したように眉を寄せた。


「ええ。本は知識。大切に扱うものです」


「……皿も窓ガラスも大切に扱ってほしいのだけど。まぁいいわ。ルウ、ちょうどいいところに戻ってきたわね」


 彼女は深い溜息をつき、厨房の入り口に積まれた麻袋の山を指差した。


「大量の小麦粉が届いたのだけれど、これを外の離れにある倉庫まで運んでちょうだい。……これなら落としても割れないし、いくらあなたでも袋ごと爆発させたりはしないでしょう?」


「承知いたしました。安全に運搬してみせます」


「それが終わったらお昼を食べなさい」


 私は静かに一礼し、自分の背丈の半分ほどもある巨大な小麦粉の麻袋の前に立った。

 屈み込み、両腕を回す。

 竜種の膂力(りょりょく)を得た今の私からすれば、こんなものは羽毛のように軽く、片手で三袋は軽々と持ち上げられる重量だ。

 しかし、ここでひょいと肩に担ぎ上げては人間の侍女としての偽装が破綻してしまう。


「ふぐっ……! 重っ……もぉい、です……っ」


 私はわざとらしく顔をしかめ、ひどく重たいものを無理やり持ち上げているかのように全身を震わせ、よろよろとした足取りで歩き出した。

 侍女長は「無理しないで少しずつ運びなさいよ……」と呆れ半分、心配半分の声をかけてくれたので、私の演技は完璧だったはずだ。


 離れの倉庫へ向かうには、城で働く下働きの人間や兵士たちが使う大食堂を通り抜ける必要がある。

 戴冠式を数日後に控えており、昼時の食堂は熱気と活気に満ちていた。

 私は目立たないよう、壁際を這うようにして重い袋を運んでいく。


 その時だった。

 開け放たれた窓際のテーブルで昼食をとっていた、屈強な男たちの会話が耳に飛び込んできた。

 彼らの服には漆喰や塗料の汚れがついている。おそらく、戴冠式に向けて本城の修繕に駆り出されている内装業者たちだろう。


「いやぁ、それにしてもゼファレス殿下の手腕はすげえよな。俺たちみたいな平民の職人にも、きっちり真っ当な日当を出してくださる」


「あぁ。レヴォネス王や貴族どもが牛耳ってた頃じゃ、考えられねえよ」


「まぁ、レヴォネス王も治水工事の一件でケチがついたからな。急な病状悪化で南へ療養に向かったって発表されてるが……もう戻ってこれねぇよな。あれは氷山の一角だ。掘ればもっと出てくる」


 男の一人が、声を潜めることもなく堂々と前王の治世を批判し始めた。


「川が氾濫しそうだってのに、あの腐った貴族ども、工事の予算を中抜きして自分たちの懐に入れてやがったって話じゃねぇか! 俺たちの税金をなんだと思ってやがる」


「まったくだ。あのままじゃ、俺たちの家は泥水の下だった。……それを暴いて、工事を真っ当な業者にやり直させてくれたのが、ゼファレス殿下だ。殿下が国を回すようになって、たった一ヶ月でここまで良くなるなんてな」


「あぁ! 殿下は俺たちの恩人だ。貴族どもの言いなりだった前の王様を退かせて、ご自身が王になってくださる。……いよいよ、俺たち平民の時代が来るんだ!」


 男たちがジョッキを打ち合わせ、豪快な笑い声を上げる。

 その顔に浮かんでいるのは、次期国王への純粋な賞賛と、明日への希望だった。


 ――ズシリ、と。

 羽毛のように軽かったはずの小麦粉の袋が、突然、本物の質量を持ったかのように私の腕に重くのしかかった。


(……アシュレイの言った通りですね)


 私は立ち止まりそうになる足に無理やり力を込め、食堂を通り抜ける。


 ゼファレスは、彼にとっての母を奪った貴族社会に復讐するため、あの治水工事の不正をリークし、貴族を盤面から引きずり下ろした。

 動機は、ひどく個人的でどす黒い憎悪だ。


 しかし、その結果として生み出されたこの熱狂はどうだ。

 男たちの笑い声。腐敗が正されたことへの安堵。彼らにとって、ゼファレスの動機が個人的な復讐であろうとなかろうと関係ない。

 ゼファレス・ファ・ヴォルシュタインは、彼らの生活を救い、腐った貴族の首に縄をかけてくれた、間違いのない英雄なのだ。


 私は、離れの倉庫へ通じる重い扉を背中で押し開けた。

 冷たい外の空気が、熱を持った頬を撫でる。


 もし私が、復讐を果たすためにゼファレスを殺せば。

 食堂で笑っていたあの職人たちは、再び貴族たちの搾取と水害の恐怖に怯える日々へと逆戻りするのだろうか。


 私は袋を倉庫の隅に置き、ふと、自身の両手を見下ろした。


(……それでも)


 不思議と手の震えはなかった。

 覚悟など、とうに決まっている。

 貴族としての矜持も、人としての正しさも何もかも――私の全てはあの日、あの広場に置いてきたのだから。

 私がこれから成そうとしているのは、正義の鉄槌などではない。

 この国の民から希望を奪い、英雄を殺し、盤面を破壊するという、最悪の大逆罪だ。


 思い返されるのは――あの日見た原初の夢。


(……私は、あの人たちにとって、魔王のような存在になる)


 それでも。

 善人や悲劇のヒロインでいられる時間は、もうとっくに終わっている。


「……さぁ。残りの袋も、さっさと運んでしまいましょう」


 小さく息を吐き、振り返って扉に手を掛けようとした――その時だった。


 ――バチッ。


 背後から、微弱な雷の弾ける音がした。

 物音に驚き、私は弾かれたように振り返る。

 薄暗い倉庫の奥。積み上げられた木箱の影から、本城の兵士服――おそらくどこかで調達したのだろう――に身を包み、小刻みに痙攣している見覚えのある竜種が、ふらふらと姿を現した。


「……セイデンキ!?」


 私は思わず声を上げてしまい、慌てて口元を抑える。

 まったく気配がなかった。竜種としての感覚が鋭くなっている今の私ですら、彼がいつからそこにいたのか、微塵も気づかなかったのだ。


「なんや女王様だったんかい……てっきり巡回の竜種かと思ったわ」


「なぜあなたがここに……? いえ、それよりも、どうやってそれほど完全に気配を消していたのですか? 心臓の音すらしませんでしたが」


 私の驚愕に、セイデンキはゲッソリと頬をこけさせた顔を上げ、自慢げなような、今にも泣き出しそうな顔で答えた。


「バレそうになったら軽く心臓を止めて気配を消して、ワイの必殺技でピリッと蘇生したんや……」


「……はい?」


「おかげで誰にも見つからず忍び込めたってわけやけど……シロクマの作戦の慈悲のなさに泣きそう……あー、頭くらくらするぅ」


 彼は白目を剥きかけながら、バチバチと火花の散る指先で自身の左胸を押さえている。

 なんという命懸けの、そして馬鹿げ隠蔽技術だろうか。物理的に一時的な死体になることで、竜種の聴覚さえも完全に欺いたというのだ。


「シロクマの作戦……というと、そちらで動いてくれていると言うことですか?」


「せやで。女王様のために誰が潜入するかって話になって、ワイが最適やろって自薦してここにおるっちゅーわけや。いやぁまさかこんなとこで会えるなんてなっ!」


 ヘラヘラと笑うセイデンキの姿に、私は先ほどまでの重苦しい覚悟の空気が、少しだけ緩むのを感じた。

 彼らもまた、無茶苦茶なやり方でこの城へ足を踏み入れてくれたのだ。


「それで、カグツチはどこに?」


「あんな歩く火砕流みたいな火竜、こんな昼間の本城に連れてこられるわけないやろ。女王様の無事を確認したら戻って来るよう言われとる」


「ありがとうございます。良かった、カグツチ……大人しくしてくれているのですね」


「んなわけあるか! あいつ、女王様に何かあったら絶対国ごと燃やすって息巻いてて、抑えるのが大変なんやから! あいつの強さが規格外過ぎてだぁれも逆らえん。シロクマなんか半分焦げとるで」


「…………」


 シロクマが半分焦げている……。

 普通なら申し訳なく思うところなのだろうが、あの得体の知れないシロクマのことだ。半分焦げながら狂喜乱舞している光景しか目に浮かばない。同情するだけ無駄というものだ。


「……とりあえず。カグツチには、私は無事です。ゼファレスに殺されるようなことはまずない、とお伝え下さい」


「わかった。……ああ、それからもう一つ。シロクマからの伝言や」


 セイデンキは淡々と告げた。


「デッドアッシュ――あれは強い個体を認識すると最優先で襲ってくるように命令が組まれとるっちゅー話や」


「強い個体……?」


「せや。たぶん物理的な脅威度の高い存在やな。女王様はまだ若いしワイらから見れば無力やから大丈夫やろ。ワイもクッソ弱いから問題あらへん。……でも、あの歩く火砕流(カグツチ)が城に入りでもしたら、まっさきに襲いかかってくるんちゃう?」


 私は首を傾げた。

 目の前のセイデンキがそう強くなさそうなのは、なんとなく分かる。

 しかし、もしも傍にいる脅威度の高い存在を排除するように命令されているのなら――なぜ、竜継の儀の日にデッドアッシュはカグツチを無視したのだろうか。

 番となり完全な個となる以前のカグツチでも、決闘で無敗を誇るシロクマをあっさりと倒しているのだ。

 恐らく、あの時から既にカグツチに敵う竜種はこの国には存在していないはずだ。


「なぜ、強い個体を襲うと知っているのですか?」


「徴用制度が始まってすぐ、シロクマが本城に連れてかれてそん時にデッドアッシュが止まんなかったらしいねん。シロクマが言うとったわ」


「なるほど……それ以外に確証は?」


「それだけやけど」


「……そうですか。断定するには情報が不足している気がしますが……」


 セイデンキはデッドアッシュについて詳しく知っているわけではなさそうだ。これ以上聞いても何も出ないだろう。


「だからシロクマは、半分焦がされながらワイを急いで寄越したんや。『我々ではもうあの火竜を止められません。女王様から直接、絶対に城に入るなと待機の厳命を下していただかないと、盤面が崩壊します』ってな」


「わかりました。……カグツチには私の合図があるまでは、後宮で待機と伝えてください」


 カグツチとデッドアッシュが顔を合わせることだけはあってはならない。

 デッドアッシュの標的を選定する基準が、シロクマの言う通り単純な強さなのか、それとも別の要因なのか、今の私には確証がない。

 理由が何であれ、壊れた竜がカグツチに襲いかかったとして、私にそれを止めることはできない。

 カグツチは何も知らない。その壊れた竜が父であると言う事実を。


「女王様が絶対厳守っちゅーたらあの子も言う事聞くやろ。仕事は終わったしワイは戻るで」


 セイデンキは呆れたように肩をすくめると、再び指先にバチッと火花を散らした。


「じゃあな。……頼むから死なんといてくれよ、女王様」


「ええ、大丈夫です」


 私が頷くと、セイデンキは安堵したように息を吐き、倉庫の重い扉に手を掛けた。

 外の光が、開いた扉の隙間から細く差し込む――。


 その、瞬間だった。


 ――コツ。


 扉のすぐ向こう側から、人間の足音とは思えない――ひどく、重い音が扉の向こう側で止まる。

 セイデンキの動きが、文字通り凍りつく。


 押し開けられた扉の隙間。太陽を背にして立っていたのは、小麦粉を受け取りに来た人間の料理人でも兵士でもない。

 黒の軍服。灰色に堕ちた髪。生気の一切ない、金色に濁った二つの目。

 改名によって壊れた竜――デッドアッシュが、扉を開けたセイデンキを見下ろすように、そこに佇んでいたのだ。


「……ヒョッ!?」


 セイデンキの喉から、ひきつったような情けない悲鳴が漏れる。

 デッドアッシュの金色の瞳が、ギョロリと動いた。

 虚ろだった瞳は、扉の前にいるセイデンキを通り越し――真っ直ぐに私を捉えていた

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