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87.合わせ鏡の化物

 分厚いレンズの奥の琥珀色が、ひどく冷たいものを見るように細められる。


「……なぜ、母を?」


「これは私の憶測ですが――」


 私はそう前置きし、あの夜のとろりと濁った気色悪い熱を思い返していた。

 他人の大切なものを無慈悲に奪い尽くしておきながら、強者に守られることを渇望するような、ひどく歪で幼児的な視線。


「彼は、自分を無条件に庇護する存在――おそらくは母君の幻影を無意識に求めている。私が竜継の儀でカグツチを庇った時、後宮でノエルさんを庇った時、そして昨日指を折って見せた時も、あの男の目は私が自分以外のために自己犠牲を払うことに異常な執着を示していました。……あれは、単なる狂気ではない。そう感じました」


 私の分析を聞き終えると、アシュレイは私の包帯の巻かれた指を一瞥してから、重く乾いた息を吐き出した。


「……君の推論は、恐ろしいほどに正確だ。ゼファレスのあの貴族や権力者に対する異常なまでの排他的感情は、母の死に直結している」


 アシュレイは書架から視線を外し、何もない空間――遠い過去の記憶へと焦点を合わせた。


「ルシア嬢。君は、なぜあいつが権力者を――貴族を徹底的に排除し、平民を熱狂させる盤面を作ったのかわかるか?」


「権力基盤の確立のため……だけではないのですね」


「あぁ。あいつは民のために、私腹を肥やしてふんぞり返る貴族たちを制裁したいわけじゃない。奴の根源にあるのは、貴族に対する純粋で底知れぬ――個人的な憎悪だ」


 アシュレイは薄暗い書架の奥へ視線を向け、淡々と過去を語り始めた。


「我々ヴォルシュタイン家は、前の王家から力ずくで玉座を奪い取った血統だ。幼い頃から、歴史ある貴族たちからは陰で蔑まれていた。俺はそういうところが鈍感だったが、ゼファレスは繊細だったんだろう。あいつの耳を塞いでくれていたのは、平民出身の母レイアだけだった」


 私は黙って耳を傾ける。

 あの隙のない完璧な支配者の、ひどく人間らしく、血みどろの輪郭が浮かび上がってくる。


「その母が、流行り病に倒れた。当然、医者は呼ばれた。だが……当時は国全体で病が蔓延していてな。王室の医師団はトリアージと称して、平民上がりである母よりも、歴史ある上級貴族たちの治療を優先したんだ」


「……見殺しにされたと」


「――今となっては分からない。もう助からない母より優先すべき命があったと言われたら、今の俺なら納得せざるを得ない。しかし当時まだ子供だったゼファレスにはそうは映らなかっただろうな。それからすぐだ。……あいつは命定改名(ミューテ・ノメン)を発現させ、あの竜の因果を壊し、デッドアッシュへと変えた」


 アシュレイの分厚いレンズの奥で、琥珀色の瞳が冷たく歪んだ。


「元々ゼファレスに命定改名(ミューテ・ノメン)が発現する予兆はあった。あいつの左腕には、六歳になった頃から呪いの刻印――祖父の左腕にあったとされている火傷のような痣と全く同じものが浮き上がり始めていた。十歳のあいつは因果を書き換えた代償として、その左腕ごと術に食われたんだ」


 胸の奥に重いものが伸し掛かる。

 初めてゼファレスと対峙した夜のテラス。白の礼装の左袖だけが、空虚に揺れていた光景が脳裏に浮かんだ。


「……なぜ、そんなことを? 母君が亡くなった怒りが、竜に向かったということですか?」


「分からない。俺には、未だに何故あいつがあの竜を――デッドアッシュの因果を書き換えたのか理解できないんだ」


 アシュレイは苦しげに息を吐き出し、視線を落とした。


「ヴォルシュタインにとって、ロボとデッドアッシュは道具じゃない。早くに祖母を亡くした父を育て、母を亡くした俺たちの世話を焼いてくれた。俺にとっては……両親以上に長い時間を共に過ごした家族だ」


「……ゼファレスにとっても、ですか?」


「少なくとも、俺にはそう見えていた。あいつもふたりによく懐いていたはずなんだがな。……今となっては、あいつが腹の底で竜をどう思っていたのか、俺にも分からない」


 ――家族。

 黒鉄の城でアシュレイと対峙した時の記憶が、不意に蘇る。

 

 ――『貴族にとって竜は道具。君はそうは思わない、と?』

 あの時、彼が私を執拗に試した理由。それは単なる交渉の駆け引きなどではなく、彼自身が竜を家族として愛していたからだ。


「……黒鉄の城では、いまの過去もそうだが、君に言わなかったことがもうひとつある」


「なんでしょうか?」


「……命定改名(ミューテ・ノメン)が発現してから、父はあいつにゼファレスと名乗るよう命じたことをだ」


 アシュレイにとって、それは余程言いづらい事だったのだろう。視線を落としたまま、それ以上は口を閉ざしてしまった。


 そこで、ゼファレスと言う名の違和感がようやく腑に落ちた。

 レヴォネス王、そして順当に行けば王位を継ぐ第一王子であるアシュレイのファーストネームにも、ヴォルシュタイン王家にとって特別な意味を持つファの音は含まれていない。

 祖父ゼファリオンと同じように、命定改名(ミューテ・ノメン)を発現した者に特別な意味を持つ音が与えられるのなら、それは後付でなければ不可能なのだ。


「ゼファレス――それは、彼の本当の名前ではないのですね」


 アシュレイは視線を合わせないまま頷いた。

 ゼファレスの名前が昔とは違う――そんな話を聞いたことがないのは、ヴォルシュタインが貴族達から忌避されてきた歴史の浅い簒奪(さんだつ)王家だからだろう。それに、自然災害が続いた年などに願掛けの意味を込めて王族が名乗りを改めると言う歴史はいくらだってあった。不自然なことでは無い。少なくとも、貴族の常識においては。


 ――愛する母が呼んでくれていた本当の名前を、貴族の理屈で奪い取られたのだとしたら。


 静寂が資料室を満たした。

 点と点が私の中で線として繋がっていく。

 母を救わなかった権力者たち。

 母を喪い、左腕を失ったばかりの子供に対し、悲しむ暇も与えずに王家の都合で名前を上書きした父。

 なぜ、レヴォネス王の治水工事の不正をリークし、盤面から引きずり下ろしたのか。

 なぜ、貴族の思考を奪い、ドラグマキナ、更には貴族令嬢を使い首輪をつけたのか。


 ゼファレスの行動原理を理解してしまった。

 私の腕はかすかに震えていた。


「ゼファレスは、理解不能な化け物ではないのですね……」


 私は無意識のうちに、呟いていた。


「母を殺した貴族と、母との最後の繋がりだった名前すらも奪った父への強烈な復讐心。それだけで国を丸ごと作り変えようとしている、論理的で、ひどく厄介な――ひとりの人間なんですね」


 言い終えた瞬間。

 私は自らの言葉に足元を掬われたような、強烈な悪寒に襲われた。


 大切な者を理不尽な構造に奪われ、その元凶を排除するために盤面を壊そうとしている人間。


(……それは、私だ)


 思考が徐々に凍りついていくような焦燥感。

 ゼファレスは、彼にとっての母を奪った貴族社会に復讐している。

 私は、私にとってのただ一人の婚約者を奪ったゼファレスに復讐しようとしている。

 根源にあるのは、どちらも同じだ。ひどく利己的で、漆黒に満ちた喪失感と憎悪。


 彼を化け物だと断じながら、私自身もまた、己のエゴで世界を壊そうとしている同類の化け物に他ならない。

 鏡を突きつけられたような錯覚に、私は微かに胸が苦しくなる。


 不意に脳裏を過ったのは――炎に包まれた王城。赤く塗りつぶされた王座。まるで化け物を見るかのような視線。原初の夢。


(――ええ。そうでしたね)


 私が悪役であろうと、この復讐の刃を収めるという選択肢は最初から存在しない。

 私は、復讐を完遂させる。そして人々から忌避される存在になるのだ。


「……ルシア嬢?」


 私の不自然な沈黙に気づいたのか、アシュレイが怪訝そうに声をかけてくる。


「……いえ。なんでもありません。ゼファレスの思考の根源が分かったことで、彼の盤面の輪郭がよりはっきりと見えた気がしただけです」


 私が深く息を吸い込み、冷ややかな覚悟を宿した瞳で真っ直ぐに見返すと、アシュレイはそれ以上追及することなく静かに頷いた。


「ならば、手早く進めよう。これが、本城の内部構造と、現在の兵士とドラグマキナの配置図だ。君の盤面の役に立ててくれ」


 そう言って、アシュレイは懐から一枚の折り畳まれた羊皮紙を取り出し、机の上に広げた。

 図面には、城の要所を塞ぐように無数の赤い印が書き込まれている。


「見ての通り、城内の警備は異常な密度だ。とくにゼファレスの私室へ続く回廊は、衛兵とドラグマキナが常に徘徊している。確実に首を狙うなら深夜の暗殺になるだろうが、いかにカグツチが規格外であっても、十機以上を同時に相手取れば無事では済まないのでは?」


 懸念を示すアシュレイの忠告は、人間の戦術論としては極めて正しい。

 しかし、私はその配置図を冷静に見下ろし、淡々と首を振った。


「そもそも、私は暗殺という誰の目にも触れない手段でこの復讐を終わらせるつもりはありません」


「……何? 暗殺ではないだと?」


 アシュレイの表情が険しくなる。戦術家である彼からすれば、私の言葉は自殺志願者の戯言に聞こえたはずだ。


「ならば、どうやって首を狙うつもりだ。大衆の目がある昼間に事を起こせば、それこそ竜や人の警備網のど真ん中に飛び込むことになるぞ」


「まだ確証がないので詳しくは言えませんが――そういう風にはならない、とだけ。それに、一つ訂正をしておかないといけませんね」


 私は配置図の赤い印を指先で軽く叩きながら、一切の迷いなく断言した。


「たかが十機程度で、カグツチが後れを取るはずがありません。彼を一般的な竜種の枠に当てはめるのは、戦術的にひどく致命的な見立て違いです。完成された個は星をも焼くと言ったのもアシュレイ様でしょう?」


「確かに、言いはしたが言葉の綾も含んでいたつもりなのだが」


「この世界で彼に勝てる生物なんて存在しません。それはもう、私が肝を冷やすくらいに」


 それは単なる強がりではなく、客観的な事実としての指摘だった。

 私のいっそ傲慢なほどの断言に、アシュレイは分厚いレンズの奥で一瞬だけ目を丸くし――やがて呆れたように、しかしどこか安堵したように息を漏らした。


「……なるほど。どうやら君の持つ手駒と盤面は、俺の常識を遥かに超えているらしい」


 アシュレイは図面から手を離した。


「カグツチは駒ではありません」


「あぁそうだった、すまなかった。彼は君の剣だったな」


「えぇ。アシュレイ様と同等にされては困ります」


 そう毒づくと、アシュレイは苦笑した。


 ここまで、順調にゼファレスの首へ近付けている。

 一つでも計算が狂えば途端に破綻し、王都は火の海に包まれる綱渡りのような計画。

 私は、暗殺という誰の目にも触れない手段でこの復讐を終わらせるつもりはない。

 白日の下で、大衆の面前で王を討つ。それはもう決められた因果だ。

 問題は――どの盤面で、ゼファレスを討ち取るかだ。


 そこでふと、ゼファレスの動機と、ある矛盾が私の中でぶつかり合った。

 もし、彼の行動のすべてが貴族社会への復讐なのだとすれば。

 

(――なぜ、あの男は)


「アシュレイ様。もう一つ、どうしてもあなたの口からお聞きしたいことがあります」


「なんだ」


「なぜ、ゼファレスはアルトを殺さなければならなかったのですか」


 その名を口にした瞬間だった。

 アシュレイの表情から、先ほどまでの理知的な冷たさがすっと消え失せた。

 その、あまりにも意外な反応に私はそれ以上言葉を紡ぐことを忘れてしまう。


 分厚いレンズの奥の瞳が微かに揺れ、ひどく苦いものを飲み込んだように口を引き結ぶ。

 彼は私から視線を逸らし、何かを言い淀むように視線を彷徨わせた。


「……それは」


 彼ほどの男が、明確な躊躇いを見せている。

 まるで、その答えが私にとって最も聞きたくない残酷な真実であることを知っていて、言葉を与えるのをためらっているような――哀れむような目だった。


 私が核心に触れようと一歩踏み出した、その時だった。


 ――カン、カン、カン。


 廊下の遠くから、規則正しい靴音が響いてきた。

 ドラグマキナの巡回、あるいは衛兵の足音だ。こちらへ向かってきている。


「……時間切れだ。この話は、こんな誰の耳があるかもわからない場所でするべきではない」


 アシュレイは即座に図面を折り畳み、私の手へと押し付けた。


「今夜。日付が変わる刻に、離宮の俺の私室へ来い。……まだデッドアッシュについて話せていない。だが、夜間の移動はドラグマキナの巡回網を抜ける必要がある。侍女のふりをすれば大丈夫だとは思うが、一人で来れるか?」


「問題ありません」


 私は手の中の羊皮紙をきつく握りしめ、静かに頷いた。

 廊下の足音が資料室の扉に近づくより早く、私は持っていた歴史書を棚に戻し、ただの何も知らない下働きの侍女の顔へと戻るのだった。


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