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86.その天秤に乗せるもの

 それから部屋を出て元の配置に戻ったものの――結局、壁拭きという名目の隔離措置すら、半日と持たなかった。


「ヒッ……!? ま、窓硝子にひびが……!」


「申し訳ありません。少し、汚れを落とそうと布を押し当てただけで……」


 ピキピキと蜘蛛の巣状に亀裂が走る分厚い窓硝子を前に、侍女長はついに白目を剥きかけた。

 

「もういいわ……あなたはもう、業務から完全に外れて頂戴。城が物理的に崩壊するわ」


 彼女は深い、深いため息を吐き出し、まるで厄介払いを急ぐように手を振った。


「資料室へ行きなさい。そこで王家の歴史の勉強でもしてくることね。……殿下がわざわざ連れ帰ったのですから、万が一にもお手がついて、側室として迎えられることも考えられなくはないわ。その時のために、せめて教養だけは磨いておきなさいな」


 そこまで言ってから、侍女長はふと声を潜め、私の顔をじっと見つめた。


「……ただ、気をつけなさいな」


「気をつける、とは?」


「十年ほど前……殿下がまだお若かった頃、ひどく殿下に気に入られた侍女がいたのよ。でもその娘、不慮の事故で亡くなってしまってね」


 侍女長は悲しげに、けれどどこか明確な警告を含んだ目で私を見た。


「あなたも、妙な不慮の事故に巻き込まれないといいけれどね」


 十年前。ゼファレスがまだ十三歳の頃になる。

 侍女長の言い方から察するに、恐らくそれは不慮の事故ではないだろう。

 それ以上突っ込んだ話をすれば怪しまれる。


 半分呆れ、半分は本気で私の身を案じてくれる侍女長の言葉に、私は静かに一礼してその場を退散した。


 ◆ ◆ ◆


 本城の資料室は、カビと古い羊皮紙の匂いが立ち込める静かな空間だった。

 壁一面を埋め尽くす膨大な書物の山を前に、私は適当な歴史書を一冊抜き出し、閲覧用の机に腰を下ろす。


(……皮肉な話ですね。家事は壊滅的でも、教養と歴史の知識だけなら誰にも引けを取らないのに)


 ヴァレット家は、圧倒的な歴史と知識を誇る家柄だ。王家の歴史など、とうの昔に頭に叩き込まれている。

 ただの侍女として扱われ、教養を磨けと説教される状況がおかしくもあり、同時にゼファレスの側室などというおぞましい可能性を提示されたことに内心で毒づきながら、私はパラパラと意味もなくページを捲った。


 ――その時だった。


「……こんな所にいたのか」


 静かな資料室に、不意に声が響いた。

 顔を上げると、書棚の陰から一人の男が姿を現す。

 黒い外套に――分厚い眼鏡。薄暗がりでは一瞬誰だかわからなかったが、どんな状況下でも決して取り乱すことのない、静かで暗い琥珀色の瞳は、彼が誰であるかを雄弁に語っていた。


「……アシュレイ様」


 ご無事でなにより――そう挨拶を交わせなかったのは、彼の袖口から覗く両腕が、指の先まで真新しい包帯が巻かれていたからだ。


「まさかノエルの侍女が君だったとは。髪の色が全く違っていて気付かなかった」


「気付かれないために染色したのですから。それよりその腕……まさか地下の強酸に素手で?」


「――あぁ。腕だけじゃない、視力も落ちた。……仕方なかった。他に方法を考えていたらロボが死ぬところだったからな」


 アシュレイの表情が僅かに陰る。

 それにしても――強酸に素手で触れれば、僅かな時間でも無事であるとは思えない。

 しかし彼の両腕は溶け落ちてはおらず、包帯を巻かれた程度で済んでいる。

 薬学の知識に明るい方ではないが、人間が素手で触れれば両腕が溶けてなくなる代物ではないのだろうか。


「……隠すつもりはない」


 私の視線に気づいたアシュレイはそう言い、左腕の包帯を解いて私に見せた。

 白の離宮ですれ違った時に見た、強酸で真っ黒に焼け焦げていた痛々しい人間の腕――ではなかった。

 そこに現れたのは、骨格や五本の指こそ人間の形を保っていながら、手先から腕にかけてびっしりと無機質な黒い鱗に覆われた、異形の竜の腕だった。

 指先には鋭い鉤爪が伸び、強酸に溶かされたはずの皮膚は、名状しがたい光沢を放つ強靭な竜の表皮へと変貌している。


「強酸で焼かれた痛みはもうない。忘却の溶解池に腕を突っ込んだ代償に人間の腕は機能しなくなったが……翌朝起きたら竜の腕に生え変わっていた。醜悪だろう?」


 自嘲気味に言いながら、彼は手慣れた動作で再び包帯を巻き直した。

 その異形の腕は、彼らヴォルシュタイン王家が純粋な人間ではなく、竜と人の子の末裔であることを、何よりも残酷に、そして雄弁に語っていた。


「はは……こんなバケモノの腕を見せたら、彼女に軽蔑されてしまうな……」


 本気で思い詰めたように呟くアシュレイを見て、私は内心で深い深いため息をついた。


「ノエルさんがそんなことで友人を見捨てるわけないでしょう。だから()()のままなのですよ」


 そう指摘すると、アシュレイは死んだ魚のような虚ろな目で私を見た。

 やがてアシュレイは一つ咳払いをして見せる。


「ところで……ノエルはどうしている。大方はロボから聞いたが……あいつもまだ喉が回復しきっていなくて、要領を得ない」


 私は周囲の気配を探り、資料室に他に誰もいないことを確認してから、声を潜めた。


「ノエルさんは、後宮のスイートルームに安全に匿われています。後宮の令嬢に負ける彼女ではありませんし、カグツチも向こうに残っています」


「……そうか。ゼファレスに聞いていた話とだいぶ違う」


 アシュレイは深く息を吐き出し、包帯に包まれた手のひらで自身の顔を覆った。


「やはり彼女には一生勝てる気がしない。ゼファレスから、ノエルが毎夜泣いていると聞かされた時は、世界から陽光が消え、俺の胸にぽっかりと暗い穴が空いたような心地だったが……そうか。やはり奴のハッタリだったんだな。……ふふ、当然だ。俺には最初から分かっていたさ」


 アシュレイはなぜか誇らしげに口角を上げ、分厚いレンズの奥で恍惚とした光を瞬かせた。


「温室育ちの令嬢どもが束になったところで、彼女の敵ではない。やっぱり彼女はそうやって、ありのままの姿で周囲を薙ぎ払ってこそだ。あぁ……彼女のあの、立ちはだかる有象無象を容赦なく真っ二つに叩き斬る、無慈悲なまでの力強さこそが――」


(――まずい。この男、またノエル史語りを始める気だ)


 あの吹雪の城の隠し部屋で聞かされた、延々と終わらない歪な賛美の記憶がフラッシュバックし、私は慌てて手で制した。


「ストップですアシュレイ様。ノエルさんは絶好調で令嬢をぶった切ってます。時間が限られていますのでご高説はそこまでで」


 私が食い気味に、かつ冷淡に切り捨てる。こんな極限状態で私ひとりがアシュレイのノエル演説を聞かされるのは耐えられない。

 せめてカグツチが隣にいてくれないと。いや、いっそノエル本人を連れてくれば早いのではないだろうか。


 ふいに、地下から上がってきた、あの強酸の臭いを纏ったアシュレイと、その背中で運ばれるロボの姿が脳裏をよぎった。


「ロボは無事なのですね……?」


「あぁ。まだ動ける状態じゃないが……生きている」


 アシュレイは静かに頷き、書架に寄りかかった。その所作の端々に、視力が落ちたことによる微かな手探りの気配が滲んでいる。


「……彼を救い出した代償が、その腕と目ですか。アシュレイ様にとって、彼はノエルさんを救出するためであれば、後回しにできる存在だと思っていました」


 私の率直すぎる言葉に、アシュレイは自嘲するように口角を上げた。


「俺自身もそう思っていた。……見捨てるには、ずいぶんと長く一緒に居すぎた。父や母より長い時間いるんだ。情くらい湧くさ」


 その一人称の変化に、私はわずかに目を細めた。

 かつて隠し部屋でノエルへの異常な執着を語った時と同じ、何の飾りもない、ただの男としての本音。

 狂気に満ちた執着を見せていた男が、ただの不器用な情で自らの身体を強酸に焼いたのだ。

 この男はゼファレスとは違う。血も涙もない怪物ではなく、人間としての欠落の仕方が少し歪で、少し哀れなだけ。その不器用な生き方に同情こそすれど、嫌悪感を抱くことはない。


「……そうですか」


 私が短く応じると、アシュレイは分厚いレンズ越しに私を真っ直ぐに見据えた。


 やがて彼は顔を上げ、静かな、しかし確かな熱を帯びた声で告げる。


「ルシア嬢。俺を君の駒にしてくれ」


 黒鉄の城で共闘を申し出てきた男がぽつりとこぼした。


「君の目的がゼファレスの排除であるなら……俺の残りの命と政治的権力は、すべて君の盤面のために使ってくれ。俺はもう、あの男の敷いた盤面で飼い殺されるつもりはない」


「……それは、()()()()()()ですか?」


 私が冷ややかに告げると、アシュレイは言葉を詰まらせた。


「……」


「国のためだとか、王族の矜持だとか、あなたがそんな立派な動機で動く方ではないと、私はすでに知っています」


 脳裏をよぎるのは、あの吹雪の城で見せられた異様な隠し部屋だ。

 壁一面を埋め尽くす記憶写真と、一度も開かれることなく行き場を失った大量の贈り物の山。

 あの狂気じみた空間の真ん中で、彼は確かに「ノエルに幸せになってほしい。ただそれだけだ」と言い切ったのだ。


「……以前、黒鉄の城でも似たようなことをお聞きしましたね」


 私が静かに告げると、アシュレイが口元に僅かに笑みを浮かべてみせた。


「あなたの目の前にいるのは、国を滅ぼそうとしている反逆者ですよ。そしてあなたが天秤に乗せたのは、何百万と言う人が住む、今はあなたの父が守っている国です。やがてあなたの弟が守ろうとしている国です。――あなたはもう片方の天秤に何を乗せるのか。両腕を焼かれた今でも、あの時と同じ答えが返ってくるのか……もう一度聞かせてください」


 私の容赦のない問いに、アシュレイは分厚いレンズの奥で一瞬だけ目を丸くし――やがて、堪えきれないように肩を揺らして低く笑い出した。


「……あぁ。確かにあの応接室で、俺は君に言ったな。ノエルを選ぶと。――それはこれからも変わらない。それ以外を見捨てると受け取ってくれて構わない」


 包帯に巻かれた竜の腕を庇いながら、彼は自嘲気味に息を吐く。


「国がどうなろうと知ったことではない。ゼファレスの盤面などどうでもいい。俺はただ、ノエルが明日も笑っていられる世界であればそれでいい」


 その瞳に一切の迷いはなかった。


「そのためなら、俺は喜んで反逆者でも何でも――魔王にだって魂を売ろう」


 その声には、先ほどの王太子としての取り繕った響きは一切なく、ただ純粋で、ひどく歪な執着だけがどろどろと煮詰まっていた。


「ふふ。黒鉄の城で私とカグツチを駒扱いしたあなたが――駒にしてくれと成り下がるなんて。とても王太子の言葉とは思えませんね」


「恐らくオルドレアの歴史上最低の王太子だろうな」


「ええ、それで結構です」


 私は淡々と頷いた。


「崇高な理念など、裏切られる時には最も脆いものです。ご自身のどす黒い執着とエゴで動いていただいた方が、私としても遥かに信用できますから」


「……君は本当に、ひどく合理的で、恐ろしい女性だな。ノエルが惹かれるのも頷ける」


 アシュレイは毒気を抜かれたように苦笑し、それから眼鏡の位置を僅かに直して、声のトーンを一段落とした。


「俺と君の利害が一致していることは証明された。……ならば、出し惜しみはしない。俺は君の駒だ。城の構造、ゼファレスの戦力。君の盤面に必要な情報はすべて提供しよう」


「城の構造や物理的な戦力、それからデッドアッシュについては、後ほど伺います。……私が今、一番知らなければならないのは、ゼファレス自身の内側のことです」


 私は周囲の書架に視線を走らせ、誰の耳もないことを再度確認してから、静かに問いを投げた。


「アシュレイ様。……あなたたちの母親について、教えてください」


 その単語を口にした瞬間、アシュレイの肩が微かに強張ったのがわかった。

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