85.決定的な欠陥
背筋を駆け上がる悪寒。
心臓が警鐘を鳴らす中、私は一瞬で頭を切り替える。
逃げるか。言い訳をして誤魔化すか。
……否。どちらも、この底知れぬ盤面の支配者には通用しない。
私が迷い込んだのだと嘘をつけば、彼は必ずその矛盾を論理で突き詰めてくる。
ならば――。
私は分厚い眼鏡の位置を直し、手にした雑巾を強く握りしめると、わざとらしいほどの足音を立てて、半開きの扉から部屋の中へ転がり込んだ。
「お許しくださいませ……殿下のお苦しみになるお声が聞こえまして、ついご無礼を……」
頭を軽く下げながら、ひどく怯えながらも主君を心配する忠実な下働きの顔を作る。
洗面台に寄りかかっていたゼファレスは、私の姿――侍女ルウの姿を視界に収めると、ピリッと張り詰めていた殺気を、ふっと霧散させた。
「……なんだ。お前か」
その声には、拍子抜けしたような、しかし明らかな安堵の色が混じっていた。
昨日の夜、狂気の忠義を見せたことで、ゼファレスの盤面上において、私は盲目的で無害な手駒として完全に分類されているようだ。
「ここで見たことは、誰にも言うな」
「は、はい……もちろんでございます……! それより、怪我はなさっていませんか。フェリシア様と取っ組み合いの喧嘩になったとお聞きしました……」
私がゆっくりと顔を上げると、ゼファレスはふらつく足取りで洗面台から離れ、壁際のソファへと重い身体を沈めた。
残された右手で前髪を掻き上げ、ひどく忌々しげに息を吐く。
「取っ組み合い――なるほど、そう伝わっているのなら少しはマシか。女に手を挙げる暴君など、歴史上にいくらだっていた」
ゼファレスは自嘲気味に鼻を鳴らし、ソファの背もたれに深く頭を預けた。
「僕が女と本気でやり合うわけないだろう。……あの女が、あろうことか僕の腕にすがりついてきた。権力欲と自己顕示欲にまみれた、ひどく安い香水の匂いをさせてな」
彼の顔に、純粋な嫌悪が浮かぶ。
「……フェリシアのあのヒステリックな声を聞いていると、虫唾が走る」
独り言のように呟くゼファレスの言葉に、私は内心で耳を澄ませた。
フェリシアの声。体面。誇り。
それらが、彼に物理的な吐き気を催させるほどの拒絶反応を引き起こした?
いや、問題はそこではない。
この男は今――一介の侍女である私に、自らの弱さを正当化するための愚痴を零している。
好機だった。
「……殿下。お加減が優れないようでしたら、お水をお持ちいたしましょうか」
私は気弱な侍女を演じながら、ゆっくりと顔を上げた。
「いらん。……少し、座っていたいだけだ。気分が落ち着いたら私室戻る。お前は壁でも拭いていろ」
「かしこまりました……」
私は言われた通り、ソファの近くの壁の装飾を、意味もなく布でこすり始めた。
沈黙が部屋に下りる。
ゼファレスの荒い呼吸だけが、静かな室内に響いていた。
やがて、彼は目を閉じたまま、ふいに口を開いた。
「――お前はノエルになんの見返りを求めている?」
やはりこの男――私と話がしたいのだ。
「私は……孤児だったのです。たった一人行く宛もない私を、ノエル様が不憫に思って拾い上げてくださいました……」
本当に、ごく自然に嘘が溢れた。
「その恩であの女のために全てを捧げる事が出来る、と?」
しかし、この男に安い嘘は通用しない。
偽物の熱など、あの琥珀色の瞳にはすぐに見透かされる。
私は、決して触れられたくない胸の最奥に手を突っ込み、血を流す覚悟でその記憶を引きずり出した。
「……泣くこともできなかった私に、言ってくれたんです。泣いていいんだって。あとの事は全部、泣き止んでからでいいんだ、って……っ」
声が、勝手に震えた。
自分の口から出たその言葉の響きに、喉の奥が焼け付くように痛む。
両親を失って泣けなかった七歳の私に、彼がくれたあたたかい日だまり。
私のその唯一の救いを。
アルトがくれたすべてを――目の前にいるこの男は、理不尽に踏み躙り、ねじ切ったのだ。
雑巾を握りしめる手に、ギリッと力がこもる。
隠し持った竜の膂力で爪が手のひらに食い込み、にじんだ血の痛みが、かろうじて私を侍女ルウの皮の中に縫い留めていた。
一瞬の隙でも見せれば、今すぐその首の骨を砕いてやるのに。
それなのに、ソファに沈み込み吐き気に胸を押さえているこんな無様な時でさえ、この男の残された右腕と背筋には、致命的な隙が微塵も見当たらない。
憎悪と歯がゆさに、頭の芯が痺れそうだった。
「……くだらないな」
ふいに、ゼファレスが冷たく鼻を鳴らした。
「たかが安っぽい同情の言葉ひとつで、自らの指をへし折るほどの忠誠を誓うとは。……理解できん」
彼は私が語った感情の熱を、ただのくだらない偽善に当てられた結果として完璧に処理したようだった。
この男に、他者のぬくもりなど永遠に理解できない。
「……下がれ。少し、一人になる」
ゼファレスは疲れたように目を閉じ、私から完全に意識を切り離した。
「……はい。失礼いたします」
私は深く一礼し、静かに部屋を後にする。
重厚な扉を閉め、誰もいない廊下へ出た瞬間。
私は手にした雑巾を、ちぎれんばかりに強く握りしめた。
喉の奥から、どす黒く、焼け焦げるような憎悪がせり上がってくる。
私のたったひとつの救いを。あたたかい日だまりを、あの男は安っぽい同情と笑って踏みにじった。
あなたが壊したものは私にとって掛け替えのないものだったと、理解してもらうつもりはない。させるつもりもない。
あの琥珀色の瞳が絶望に染まる事にすら、興味はない。
ギリッと奥歯を噛み締め、私は肺の空気をすべて吐き出した。
マグマのように煮えたぎる殺意を、強引に喉の奥へと飲み下した。
ただ暴れるだけの獣では、あの男には届かないと知っているからだ。
背筋には冷や汗が張り付いていたが、顔を上げた時、私の唇は自然と冷酷な弧を描いていた。
ゼファレス・ファ・ヴォルシュタイン。
完璧な盤面の支配者。
けれど彼には確かに、決定的な欠陥が存在する。
その内側を正確に解析できれば――必ず、殺せる。




