83.狂気の忠義
本城の最深部、白の離宮とは比較にならないほど堅牢な造りの回廊を抜け、私は一室に連れ込まれた。
簡素なベッドと荷物置きだけが設えられたその空間は、おそらく使用人室だろう。
廊下には同じような扉がいくつも並んでおり、壁越しに微かな足音や衣擦れの音が絶えず響いている。
人の目と耳が密集する、完璧な社会的密室。ここで騒ぎを起こせば、即座に無数の衛兵が駆けつける構造になっている。
「一つ聞きたい」
部屋の中央で振り返り、ゼファレスは飄々とした声で口を開いた。
「なぜあの日、君はノエルを庇った。僕に歯向かえば、適当な理由を付けて君を処刑することも可能だ。その代償を考えなかったのか?」
琥珀色の瞳が、私の底を値踏みするように見下ろしている。
世界で一番殺したい人間がいま、目の前に立っている。――隙はどこにも見当たらない。
喉の奥が焼け付くほどの業火の殺意を、私は呼吸を止める事で押し殺す。
「それでも、ノエル様をお守りしたかったのです」
私は深く頭を下げ、抑揚のない声で答える。
「ノエル様は私にとって大切な主です。……出過ぎた真似をしたことは謝罪いたします」
「なるほど。忠義に厚いのは結構だが、口で言うだけなら誰にでもできる」
ゼファレスは冷たく鼻を鳴らすと、嗜虐的な光を帯びた瞳で私を見た。
「では、今ここで指の骨を折れ。さもなくばノエルを殺す――と、僕が命じ……」
ゼファレスの言葉が最後まで紡がれることはなかった。
ボキ、ボキリ、と。
乾いた異音が二つ、連続して部屋に響く。
私は自身の右手で、左手の薬指と小指を手の甲側へと完全にへし折り、一切の表情を変えることなくゼファレスの眼前に差し出した。
「何本折れば良いのか、聞いていませんでしたね」
ゼファレスへの殺意でどうにかなりそうだった。
そこに水を打ったと思えば、ちょうど良い痛みだった。こんなもの竜の肉体ならば後でどうとでも繋がる。
それに――こんな痛み、あの広場で湧き上がった感情に比べれば、指の二本など小枝が折れる程度の刺激でしかなかった。
「…………」
ゼファレスの琥珀色の瞳が、あり得ない角度に曲がった私の指先と、私の顔を交互に見た。
その顔から、先程までの余裕めいた冷笑が消える。
数秒の、完全な沈黙。
やがて――彼は、ひどく甘やかな、喉の奥を鳴らすような低い声で笑った。
「……ふ、はは。狂っているな、君は」
ゼファレスはゆっくりと手を伸ばし掛けたが――そこで止まる。
本当に僅か一瞬のことだ。ゼファレスの宙を彷徨う右手が震えたように見えた。
「――たかが仕える主のために、思考よりも早く自身の肉体を破壊する。……しかも、恐怖も痛みも一切の躊躇もない。完璧な自己犠牲だ」
一定の距離を保ったまま交差する琥珀色の瞳には、あの後宮の最上階の部屋で見せた――とろりと濁った熱が、さらに濃度を増して渦巻いていた。
「だからこそ、ひどく不愉快だ。その完璧な忠誠が、あんな騒がしいだけの女に向けられていることがな」
ゼファレスは極めて冷徹な声で言い放った。
「今日から君の主は僕だ。ノエルのことは忘れろ」
それは、ただの侍女に対する命令の域を完全に逸脱した、執着の宣言だった。
ゼファレスが部屋を去ったあと、折れ曲がった指を見つめる。
――殺せなかった。
あの男に隙と言うものは存在しなかった。少なくとも、ただの令嬢として育った私には、あの男を確実に仕留めるイメージが微塵も思い描けなかった。
戦う前から敗北を突き付けられたと言っていい。
それでも――あの男にはきっとまだ何かがある。
何か、私の知らない重大な欠落が存在しているように思えてならない。
部屋の窓に近付き、カーテンを開く。
ここから白の離宮を望むことはできなかった。
夜空には星が広がっていた。
青白く瞬く星の光だけが凛然と輝いていた。まるで、この先の道標であるかのように。




