幕間.***/ロボウノイシ/ロボ
始まりは、あまりよく覚えていない。
もう八百年近く昔のことだ。竜は歳を数えない。そんなものはあってないようなものだ。
あの男に出会ったのは今から八十年前の話だ。
その頃の俺はただ、消費されていく存在だった。
心と言うものが俺にあるのだとしたら、それが擦り切れ、摩耗していく感覚だけが確かにあった。
社交界に連れて行かれたら会話は禁物。それをいつ教えられたのか、もう覚えていない。
決闘場に引きずり出されたら、指示通りに動くこと。例えそれが、目を瞑っていても勝てる相手だと分かっていても、主の政治のために敢えて負けに行くことは日常茶飯事だった。
交配目的で女王の巣に送られ、ヘコヘコと媚びへつらってメスの機嫌を取り、理不尽にぶっ飛ばされる。
道具には、思考回路はいらなかった。
じゃあ、なんで俺の中にはずっと、ヘドロみたいな黒くてドロドロとした感情が溜まっていくのだろうか。
俺が完璧な道具なら、こんなゴミ溜めみたいな世の中で液状化していく自分自身に、疑問を持つなんておかしい話だった。
イライラする。腹が立つ。こんな世界ぶち壊したい。思いっきり暴れて、全てぶっ壊してやりたい。
「――君、メスみたいだねぇ」
社交界で、主の後ろに口を閉ざしたまま立つ道具に、星の輝きを閉じ込めたような鱗を尻尾に揺らめかせる竜は笑って言った。
その存在の前では、自分がひどくゴミのように思えた。
「……死ね」
社交界で竜に会話は許されていない。だが、その星白銀の竜――スピカは例外だった。
圧倒的な歴史を持つヴァレット家を盾に、そいつはどこでも自由に振る舞っていた。
無性に許せなかった。なぜ俺はだめで、お前は許されるのか。それが、生きた年数だけでどうにかなる問題ではない事を俺は理解してしまっている。
たまたま二千年近くも変わることなく竜を愛し続けた家に貰われたお前と、竜を道具として扱うことを是とする家に貰われた俺では――スタートラインから、もう絶望的に違った。
この感情は、ただの羨望だ。
空の星に手を伸ばして、届かないと喚いているガキと変わらない。
それでも、俺は手を伸ばすことを止めることが出来なかった。
その日、俺は貴族遊戯で主の指示を無視し、相手の竜を蹴散らした。竜相手だ、死にはしない。
問題は、相手が千年の家柄だったと言うことだ。
主は躾と称して俺を殴る。
何度も殴られた。めちゃくちゃ腹が立った。
気がつくと、俺は主の首を掴んでいた。
弱い生き物だな、と思った。まるで花でも摘むかのように、ほんの少し指先に力を入れるだけで、この首は簡単にへし折れる。
こんな弱い生き物の言うことに、従う必要があるのだろうか。
いや、ないな。
答えはすぐに出た。
でも、そこまで考えて――急に、どうしようもなく面倒になった。
主を殺して、そうしたら俺はどうなる?
殺した後の世界の続きなんて想像も付かなかった。それ以上考えることが面倒になってしまった。
主の首から手を離し、俺はそのまま再び殴られるに任せた。
竜に痛みはない、だ? 痛いに決まってんだろ。
あぁ、もう。全部なにもかも面倒だ。角を折って死ぬことさえ面倒だ。息を吐くように、楽に消えてしまいたい。
やがて、主が俺を殴ることに疲れ果てた。
「そこで一晩反省しろ!」
終わりの合図が脳に響く。俺はそのまま、冷たい地面の上に両腕両足を投げ出して転がった。
真っ暗闇から、雪だけが静かに降りてくる。
雪のひと粒ひと粒が星に見えて、俺はその手を伸ばした。
――次の瞬間だった。
屋敷の門が、文字通り吹っ飛んだ。
耳を劈くような轟音。
暴走した馬車でも突っ込んできたのかと思い、俺は重たい身体をわずかに起こした。
舞い散る鉄屑と雪煙の中から姿を現したのは、馬車ではなく――ひとりの人間だった。
次の瞬間、屋敷に戻ろうとしていた俺の主が、ただの石ころのように宙を舞っていた。
「道具だろ? いらねェんだろ? じゃあ俺がもらっちまってもいいよなァ!」
ゲラゲラと笑う男の蹴りの一撃。
たったそれだけで、俺の主はひしゃげた門の残骸ごと彼方へと吹き飛ばされ、雪の上にべちゃりと落ちて――二度と動かなくなった。
その光景に俺が感じたのは、鎖を引きちぎってくれた爽快感なんかじゃない。
ただただ、純粋な狂気への戦慄だった。
「おい、お前。なかなかいい目をしてるじゃねェか。俺のモンになれよ」
男が腕まくりをした左腕には、酷い火傷のような痣がこびりついていた。
……異常だ。
道具としてひどく限定された倫理観の中で育った俺でさえ、主を殺すことにはためらいを覚えたというのに。
目の前の男は、たった今自分が蹴り殺した男の死体になど一瞥もくれず、俺の前に立って笑っている。
人ひとりの命を奪うことへの躊躇いが、恐ろしいほど欠落しているのだ。
狂気が人の皮を被って立っている。
――それがゼファリオンという男に対する、俺の最初の印象だった。
◆ ◆ ◆
「俺は王になる」
ゼファリオンは狂っていた。
狂っていなければ、五千年続く王家をたった一人で壊そうなどと思うわけがない。
俺と、俺同様に貴族から強奪されてきた灰髪の竜は、顔を見合わせ「なに言ってんだこいつ」という全く同じ色の目でゼファリオンを見つめていた。
そいつの名前は、もう思い出せないが、これから苦楽をともにする戦友になる事をこの時の俺はまだ知らない。
ゼファレスに改名される前は、確か美しい名前だった気がするが。
それから、ゼファリオンは貴族の屋敷を次々と襲撃し、竜を強奪しまくった。
正気の沙汰とは思えなかった。
権力に弓を引くにしたって、もう少しマシなやり方があるだろう。
しかし――強奪してきた竜のその殆どが、既に手遅れだったことに気付いた。
ゼファリオンは口では「貴族から強奪してやる」と言っていたが、本当は強い竜など欲していない。
千年以上、貴族の下でただの道具として飼い殺されてきた個体たち。
彼らの精神は完全に摩耗しきっていて、俺のようにヘドロみたいな怒りを溜め込むこともない。もう削れるものが何ひとつ残っていなかった。
角には無数のひびが入り、瞳の奥は抜け殻のように空っぽだった。
鎖を解いてやっても、ゼファリオンが「自由に生きろ」と笑っても、彼らはただその場に座り込み、次の命令を待つだけだった。
そこで俺はようやく理解した。
ゼファリオンと言う男は、竜種を貴族から救おうとしているだけだった。
それに気付いた時――俺は、こいつの行く道を最後まで見届けてやらないと気が済まなくなった。
そしてもうひとつ、気付かなくて良かった事実に気付いてしまう。
俺が普通の竜種のオスとは違う――怒りを持ってしまった異常な個体なのだと。
この胸の奥に巣食うヘドロのような濁った感情を生み出す臓器は、俺にしかないものだった。
翌年、ゼファリオンは王家を皆殺しにした。
廃人同然だった仲間も何機か死んだが、こちら側の圧勝だった。
そこに話し合いはなかった。気が狂っていると思った。でもそれがゼファリオンと言う男だった。
五千年の歴史を誇る王の首を物理的に刎ね飛ばすことなど、この男にとっては欠伸が出るほど簡単な作業だったのだ。
問題はそこからだ。
当然のことながら、貴族も民も、誰一人としてゼファリオンに従おうとはしなかった。
彼らから見れば、ゼファリオンは正統な王などではなく、ただの野蛮な最悪の簒奪者でしかなかったからだ。
「……ダメだ、貴族どもが全く言うことを聞かねェ。これじゃあ国が回らねェぞ」
玉座にだらしなく寄りかかりながら、ゼファリオンは頭を掻きむしった。
その傍らで、■■■■■■が平坦な声で告げる。
「当然です。力で奪った玉座には、正当性がありません。貴族たちを従わせるには、現在の王家に王の象徴たる竜が存在することを示す必要があります」
「王の象徴だァ?」
「ええ。由緒正しく、強力な因果を持った竜です。そのような竜を従えてこそ、貴族たちは王家の力を認め、屈服するのです」
■■■■■■の冷静な分析に、ゼファリオンは忌々しげに舌打ちをした。
「俺は竜より強いのに、俺じゃ駄目なのかよ、面倒くせぇなァ」
「玉座とは、己の拳を振るうために座る椅子ではありません。巨大な力を動かす側に回ったという証明です。あなたが直に手を下すのは、もはやただの労力の無駄遣いだ。……暴力で奪ったのなら、次は権威で盤面を支配しましょう。最も強い駒を玉座の隣に置き、ただ命令を下す。それが王という生き物です」
■■■■■■の言う通りだった。
奴が集めてきた竜たちは、そのほとんどが死に絶え、残るは俺と■■■■■■ただ二機のみ。
当然、■■■■■■だろう。その名前、その因果、その強さ――どれをとっても俺は及ばない。
そうだとしても。
「……俺がなる」
静まり返った王殿に、俺の声が響いた。
ゼファリオンと灰髪の竜が、同時にこちらを見る。
「俺の名前を書き換えろ、リオン。前に話してただろ、お前には竜の名前を書き換える力があるって。俺がテメェの王の象徴になってやる」
俺の言葉に、ゼファリオンは目を丸くし――やがて、腹を抱えてゲラゲラと笑い出した。
そして、嬉しそうに俺の胸倉を掴み上げる。
「待ってろ、とびっきり強い名前を見つけてお前に付けてやる」
そしてリオンは王立研究所を脅し、古文書をひっくり返し――隣の世界に繋がる最強であろう名前を探し当てた。
◆ ◆ ◆
ロボウノイシ――王立研究所によると、その意味不明な文字の組み合わせは隣の世界では最強を意味するらしい。
イシとはこちらの世界にもある石のこと。つまり、この世界に存在するどんな石よりも硬い――ダイヤモンドさえ凌駕するような、最強の石。
その名なら王の象徴に恥じぬ、貴族さえ一目置くような――そんな存在になれるはずだった。
「《***》その名は我が王血により葬る――」
リオンの全身に金色の粒子が纏わりつく。
特に、左腕に刻まれた火傷のような痣が、じりじりと異常な熱と光を放っていた。
その詠唱は、必ず全文言わせるための因果があるのか――それとも、その人の身ならざるその力の美しさに俺が見入ってしまっただけなのか、指の先一本さえ動かすことは叶わなかった。
「この命により、汝の名は今より──《ロボウノイシ》と定まるッ!!」
その詠唱を終えるとともに金色の粒子が俺の身体を包み込む。
何かが変わった――何が起きたのか分からなくとも、その感覚だけははっきりと胸の奥で感じることが出来た。
そして、俺は***と言う名前を失った。
どれだけ記憶を辿っても、昨日まで呼ばれていたはずなのに、その名前を決して思い出すことは出来なかった。
まるで届かない空へ手を伸ばし続けるような――だけど、届かないことが寂しいとは思えない、不思議な感覚だった。
「……ふざけんなよな」
ゼファリオンから命定改名を受けてからすぐに俺は理解した。
身体に宿る何かが明らかに減っている。
俺は唯一の強みだった自慢の飛行能力を失った。鋭い爪も丸くなっている。竜体にもなれない。
俺が俺であると言う意識はそのままに――弱体化しているのを肌で感じた。
「……悪かった。本当に、すまない」
「こういう時だけ素直に謝んなよ!! なんでお前の腕がなくなってんだよ!! そんな代償があんなら最初から言えよ!」
血の海と化した儀式の間で、俺はゼファリオンの左肩を抱えて絶叫していた。
玉座に座り込むゼファリオンの左肩から先は、ごっそりと消失し、ただおびただしい血が床を濡らしている。
異変に駆けつけた■■■■■■が、青ざめた顔でゼファリオンの止血作業に追われていた。
「俺の腕なんてどうだっていい。お前の前の名前は……あぁクソッ、なんで思い出せねェんだ……!」
自分の名前なんてどうだって良かった。
そんなことより、自分の腕を失った激痛よりも、俺の元の名前を必死に思い出そうと顔を歪めるゼファリオンを見ていたら――どうしようもなくやるせなくなった。
俺の願いがこの男にこんな顔をさせている。
ただ、この男が笑っていればそれでよかった。
それが叶わないなら、願うんじゃなかった。
「もう一度、必ずお前に強い名前を持ってくる。だからそれまでは――ロボウノイシ……いや、これは、よくないな。……ロボにしよう」
「……愛称でどうにかなるもんでもねェだろうが」
血まみれの顔で、ひどく不器用に笑って、狂った王は言った。
腕を失って、俺を弱体化させて、それでもこいつは――俺のことを気にかけてやがる。
バカみたいに。
狂ってるように。
そんなんだから、民も貴族も付いてこなかったんじゃねぇか。
「ロボ。今度は絶対に失敗しない。それまで、ちょっと待ってろ。もし俺で間に合わなかったら……俺の子孫に任せる」
「おいおい、俺たちの負債を子孫に押し付けんなよ……」
手に入れたのは無力な名前。
何も出来ない、最弱の因果。
やがて薄れゆく意識の中で、俺は二度目の原初の夢を見た。
泥の中で一人、ドロドロに溶けて消えるような孤独な最期――俺の新たな因果が確定する瞬間の景色を。
◆ ◆ ◆
――俺に名前をくれた男が死んでから二十年が経った。竜の一生にしたら瞬きほどの年月だった。
全身を焼く激痛と、鼻を突く強烈な酸っぱい刺激臭で、俺は過去の夢から現実へと引きずり戻された。
「なぁ……リオン……お前の言うちょっとってやつは……一体、いつなんだよ……」
薄暗い地下の底で、俺はひび割れた唇を動かした。
鼻を突く、強烈な酸っぱい刺激臭。
ここは後宮の最下層に作られた、巨大なゴミ捨て場だった。
眼の前に広がるのは、満々と湛えられた強酸の池。
証拠隠滅のために投げ込まれた大量の機密書類が、酸の液面に触れた端からブクブクと嫌な音を立てて粟立っている。
紙の繊維は瞬く間に液状化し、書かれていた文字は滲む隙すら与えられず、黄ばんだヘドロの中にぐちゃぐちゃに混ざり込んで形を失っていく。
俺の下半身は、その強酸の泥の中に半分沈んでいた。
ゼファレスに破壊された両腕と、無残に砕かれた両足。ひしゃげた肋骨の奥で、いくつか臓器も潰されているのがわかる。痛覚すらとうに麻痺していた。
竜種は、角を折られない限り死ぬことはない。
だからあの男は、俺の角だけを無傷で残し、それ以外のすべてを徹底的に壊してこの池へ放り込んだのだ。
何がそんなに気に触ったのか。そんなに俺がこっそり抜け出してはアシュレイとつるんでるのが気に入らなかったのか。寂しかったなら仲間に入れてやったのによ。
そんな悪態を付いてみたところで虚しくなるだけだった。
せめて竜体になれたら、時間稼ぎくらいは出来ただろうか。――いや、無理だ。
リオンはもういない。
背中を預けた■■■■■■も、もういない。
ルシアやカグツチ辺りなら気付いてくれるだろうか。……いや、この後宮はあまりにも音が多すぎる。
何より、もう叫ぶ力が残っていない。
まさか俺の最期がリオンの孫の気まぐれで終わらされ、あんなに冷静だったかつての戦友の■■■■■■――今のデッドアッシュにゴミ捨て場に捨てられるなんてな。
あぁ、でも俺はここに来ることを分かってた。
リオンに名前を与えられたあの日見た、原初の夢の景色だ――ここは。
「……あぁ、もう。全部なにもかも面倒だ……」
視界が、じわりとぼやける。
強酸の有毒ガスのせいか、それとも別の理由か。
リオン、お前が死んでからもう随分経つ。
俺はずっと、玉座の近くで待ってたんだ。
お前が先に死んじまったから、俺はこの名前に意味があるって証明するために、結構頑張ったつもりだったんだけどな。
だけど、もう無理みたいだ。
俺は所詮、王の象徴なんかじゃない。
石ころは、誰にも見つけられずに、この汚え泥の中でドロドロに溶けて消えるのがお似合いなんだよ。
重い瞼が、ゆっくりと落ちていく。
俺は抵抗することなく、ヘドロのような酸の池に意識を沈めようとした。
原初の夢で見た通りの完全な孤独と終焉。
俺の八百年は、ここで終わる。
ドサ、と。
地下へと続く石の階段から、誰かの重たい足音――いや、転げ落ちた音か?
とにかく、これでやっと終わる。
この強酸の悪臭が立ち込めるゴミ捨て場にやってきた誰かの顔を拝んだ瞬間――それが、俺の名の因果が確定する時。
夢ではその顔は霞んで見えなかった。
わざわざこんな地下の底まで下りてくる物好きが誰なのか。
とどめを刺しに来たゼファレスか。それとも、とどめを刺しに行くよう命じられたデッドアッシュか。
それが俺にとって、死神である事に違いはない。もうなんだって構わなかった。
その足音は泥を跳ね飛ばし、躊躇うことなく酸の池の際まで近づいてくる。
「――っ、ロボ……!」
ひどく息を切らした、悲痛な声。
ぼやける視界の先に、見慣れた黒い外套の男が立っていた。
王太子の矜持も、体裁もすべて投げ捨てて、暗く濁った琥珀色の瞳で俺を見下ろしている。
「……アシュ、レイ……? てめェ、なんで……」
掠れた喉から、擦り切れるような声が漏れた。
絶対にこいつだけはあり得なかった。
アシュレイにとって一番大事なノエルは今、上の後宮に囚われている。
彼女の安否すら知らされず、死んだ魚のような目をしていたあいつが、真っ先に向かうべきは当然ノエルのところだ。
こんな地下のゴミ捨て場に、ただの石ころを拾いに来る暇なんてあるわけがない。
だから、あの足音の主がアシュレイであるという可能性は、俺の思考の選択肢から完全に抜け落ちていた。
ゼファリオンの孫。
俺たちを狂気へと導いた、あの破天荒な男と同じ色の瞳を持つ人間が、強酸の泥の中に両手を突っ込んで、俺の重たい身体を池の縁から力ずくで引き上げようとしていた。
「どうして……っ、待て、腕が死ぬだろ、やめろ……っ!」
「喋るな……! すぐに水で流す、だから死ぬな……っ」
誰も見つけてくれないはずの泥の中から、俺というただの石ころを、両手を焼かれながら必死に拾い上げてくれる人間の姿など。
あぁ、本当に。
ヴォルシュタインの血を引く男ってのは、どうしてこうも――面倒くさくて、馬鹿ばかりなんだろうな。
「……はずれだ、バカ……。お前が行くべきは、上だろ……」
こいつは、何を考えてやがる。
ノエルがいないこんな場所に来て――俺みたいな石ころを拾って、一体何になる。
でも――その手の温もりは、確かに俺を掴んでいた。
溶けて消える寸前の、ただの石ころを。
「こっちに来たって……ノエルは、いねェぞ……」
溶けた泥に足が突っかかっていた。だから思うように引き抜けないようだ。
それでも、俺の身体にはもう僅かな力も残っていなかった。
アシュレイは強酸に焼かれる痛みに顔を歪め、奥歯を噛み鳴らしながらも、俺を引き上げる手の力を決して緩めなかった。
「……あぁ、知っている。……っ、ぐああああ……!」
強酸に浸かった俺の身体を、全体重をかけて泥の底から引き剥がす。
ズルリと嫌な音を立てて、半分溶けかけた俺の身体が酸の池から引き上げられ、冷たい床に投げ出された。
アシュレイも力尽きたようにその場に腰が落ちる。
泥にまみれた外套の袖口から覗くアシュレイの両腕は、強酸に焼かれて無惨に黒く爛れていた。
「プライド捨ててゼファレスに頭下げてノエルに会いに来たんじゃねェのかよ……なんでノエルのところに行かねェんだよ」
「ノエルは……強い。例え誰が相手であろうと彼女は負けない。でもお前は違うだろう。放っておけば、死ぬ」
強酸に焼かれた腕から白煙を上げながら、アシュレイは痛みに歪んだ琥珀色の瞳で俺を真っ直ぐに見据えた。
「……おじい様は、お前の名前を必死に思い出そうとしていた」
アシュレイの言葉に、俺は呼吸を忘れた。
「王の象徴などとふざけた理由で、お前の因果を奪ってしまったことを、あの人は死ぬまで後悔していた。……だから、これはゼファリオンの孫としての、私の我儘――」
アシュレイはそこで言葉を切り、一度だけ首を横に振った。
「違う。俺は、お前にいなくなってほしくないだけだ……」
アシュレイの表情が歪んだ。
俺はこいつの親でもねぇのに、生まれた時からの事は全部知っている。
リオンが死ぬまで、リオンの息子であるレヴォネスが生まれるところも、そしてお前が生まれるところも全部見てきた。
アシュレイと過ごした月日なんてたったの二十六年だ。リオンといた時間よりも、レヴォネスの元にいた時間よりもずっと短い。
竜種にとっては、瞬きみたいな一瞬の時間でしかないのに。
そのたった一瞬でお前らは突拍子もないことをしやがる。
(お前が俺って一人称を使う時は、嘘言ってねぇ時なんだよなァ……)
ただの不器用で、身勝手な一人の男としての、何の飾りもない本音だった。
「そーかよ……じゃあとりあえずここから出ようぜ、悪いが俺はもう限界だ。後は……頼んだ」
俺は枯れかけた喉でそれだけ伝えると、そのまま床の上に大の字に転がった。
「上に洗濯室があったはずだ――そこで洗い流す。……死ぬなよ、ロボ」
アシュレイが、俺の名前を呼ぶ声が耳の奥で残響する。
あぁ――そうか。
俺は八十年前のあの日、ロボウノイシになったんじゃない。
最初からリオンがそう言っていたじゃないか。
俺の名前はロボ。
――ロボウノイシなんかじゃない。
最強の石なんかでもない。
ただ、リオンが呼んでくれた、愛称。
アシュレイが呼んでくれる、名前。
こんな単純なことに気付くために――リオンが死んでから今日まで生きてきたってわけか。
ああ、クソ。
なんだよ、それ。




