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82.赤と白の境界線 Side:カグツチ

「話は聞こえていただろう。今すぐ荷物をまとめろ」


「なっ、お待ちになって! ルウ、あなたは嫌と言って構いませんのよ!?」


 天井裏からは、下の様子はすべて音から伺うことが出来た。


 ルシアはノエルを守るため、そしてオレの存在を隠すためこれ以上ゼファレスをこの部屋に留めないために――膝を折った。


 あの時――竜継の儀の時と同じ光景だ。

 ゼファレスに歯向かおうとしたオレを止めるため、ルシアはテラスで膝を折った。

 どうしてルシアが謝らなきゃいけないのか。

 あの時、オレの中には怒りなんてものは存在していなかった。

 だから、理不尽に頭を下げる彼女の背中を見ても腹を立てることもできず、ただぽっかりと空いた穴のような、言葉に出来ない違和感を抱えることしかできなかった。


 今ならばはっきり言葉にできる。

 ルシアは、自分が守りたいと願ったものの為なら、己の矜持も、尊厳も、何もかもを躊躇いなく泥の中に捨てられる人間なのだ。

 あの日も、そして今も。彼女はそうやって自分を削って、誰かのための盤面を整えようとする。


 だけど――オレはそれが、たまらなく嫌なんだ。

 大切な誰かのために自身を差し出し、平然とたった一人で傷つこうとする彼女の背中を見るのを、これ以上見過ごすなんて絶対に許せなかった。


「――謹んで、お受けいたします。殿下」


 階下から響く、感情を押し殺した平坦な声。

 どうして、君はいつも自分を顧みてくれないんだろう。

 君が君を守ろうとしないのなら――君が二度と誰かのために膝を折らなくて済むように、オレがこの世界を根底から塗り替えるしかないじゃないか。


 視界が真っ赤に染まる。

 それは網膜に映る光景ではなく、喉の奥に沈めた臓器(いかり)が、内側からオレを焼き焦がしているせいだった。


 天井の梁に爪を立て、オレは咆哮を飲み込んだ。

 この男は優しかった世界を壊した男。

 そう思ったら、ルシアの業火が灯るオレの臓器(いかり)は、もう冷静ではいられなかった。

 あの時の記憶と、オレの胸のうちには存在しなかった確かな怒りが激しい炎となり溢れ出す。


(……アルト)


 オレとルシアからアルトを奪った男。

 その男が今度はルシアを奪おうとしている。

 もうこれ以上、大人しくしていることに意味なんてあるのだろうか?

 大切なものを、目の前で簡単に壊される痛みを、後悔を――繰り返すことなどあってはならない。


 ――今、ここでゼファレスを殺す。


 決意した瞬間、オレの意識は人の形を保つことを拒絶した。身体が炎を纏う。

 尻尾の宝石鱗が逆立ち、極大の熱量と共に殺意(いかり)が吹き上がる。

 質量を増した殺意はオレの内側から溢れだし、物理的な衝撃に形を変えて天井を突き抜け、下へと伝播していく。


「……あ、」


 階下でノエルの声が途切れた。気配がふつりと消える。

 ただの人間である彼女が、この密度の殺気に耐えられるはずがない。

 オレの熱が、この建物の空気を焼き、生き物たちの意識を刈り取っていく。

 あとは、この天井をぶち抜いて、あの男の首を獲るだけだ。


 ――だけど。

 紅蓮に染まった思考の隅で、約束の言葉が頭に響いた。


『オレは、ルシアの手をゼファレスの首まで持っていく。ルシアの意志でオレを振るっていい。――オレが、君の剣になる』


 ――あぁ、そうだ。

 オレは、ルシアの剣になると誓った。

 そしてルシアは今、自分の意志で、あの男の背後に立とうとしている。

 

 オレが今ここで天井を壊せば、ゼファレスは殺せるかもしれない。

 でも彼女は、オレに一度だって「ゼファレスを殺してくれ」とは言わなかった。言ってくれなかった。


 たった一言そう言ってくれれば、あの男がどれだけ盤面を上手に操作しようと、その盤面ごと葬れるのに。

 でもルシアは、それだけは絶対に首を縦に振らない。


 その理由をオレは知っている。

 そしてそれだけは絶対に奪ってはいけないことも。


 だからここでゼファレスを殺してしまうことは――ルシアの気持ちを踏みにじることと同じだ。


 ルシアがいま膝を折ったのは――守るためだけじゃない。

 彼女が命懸けで作り上げようとしている盤面を、その剣であるはずのオレがめちゃくちゃにしてどうする。


「……っ、ぐ…………!!」


 オレは奥歯を噛み砕かんばかりの勢いで歯を食いしばり、噴き出しそうになる炎を無理やり体内に封じ込めた。

 逃げ場を失った熱が内臓を焼き、喉の奥で鉄の味がした。

 虹色に輝きかけていた鱗を、一枚一枚、血を流すような思いで力ずくで伏せさせていく。

 空間を歪めていた重圧が、潮が引くように収束していく。


 ゼファレスが、天井を訝しげに見上げる気配がする。

 オレは肺が焦げるような熱い吐息を殺し、ただの影に戻ることに集中した。

 直後、シロクマの気配が部屋に滑り込む音がした。

 あいつの吐くデタラメな言い訳を、ゼファレスが受け流している。


「シロクマ、気絶したその女は適当なベッドにでも転がしておけ」


「仰せのままに」


 バタン、と重厚な扉が閉まる音がした。

 あの男が、ルシアを連れて出ていった。

 一歩、一歩。遠ざかる足音。

 一歩ごとに、ルシアがオレの守れない、別の地獄へ近づいていく。


(……殺したい、殺したい……っ!!! 今のオレならゼファレスなんて、一瞬で灰に出来るのに!)


 天井の点検口を内側から蹴り破り、オレはルシアのいた床に降り立った。

 衝撃で絨毯が焼け剥がれ、床が剥き出しになる。オレの全身からは抑えきれない炎が剥き出しになる。

 周囲の空気は一瞬で赤熱し、陽炎となって視界を歪めた。


 目の前に、白銀の礼装を纏った男が立っている。

 ――シロクマだ。

 オレは音もなく踏み込み、その首を右腕で掴み上げ、そのまま壁に叩きつけた。


「……久しぶり。()()()()。あの時はこんがり焼いてくれてあり――が、は……っ」


 爪がシロクマの喉に食い込み、焼けるような熱が彼の襟を炙る。

 一度抜いてしまったこの(いかり)は、何かを斬らなければ収まらない。

 完全な八つ当たりだった。

 それでもこの怒りを制御することはできなかった。

 理由さえあれば誰だって構わない。ならこいつでいい、ルシアを女王様などとふざけた名前で呼んだ罪で屠ってしまおうか。


「…………」


 シロクマは抵抗しなかった。

 壁に叩きつけられ、喉を焼かれながら、その竜種は――濁った恍惚の瞳を向けて、笑っていた。

 オレの殺意を洗礼か何かのように享受しながら、彼は静かに唇を動かした。


「……いま君がここで吠えれば、女王様の盤面は灰になるだけだ」


 まるで自分こそがルシアの意図を汲んでいる。その物言いに余計に腹が立った。


「あの方は今、人間の王を玉座から引きずり下ろしに行かれた。……それを邪魔するのは、(つがい)である君の役目ではない」


 うっとりとした表情のまま、瞳の奥にだけ情緒が一切ない冷徹な金色の光を宿していた。


「……お前、ルシアに何を見てる」


 オレはさらに力を込めた。シロクマの襟は完全に焼け焦げ、皮膚に到達し血の匂いが混じる。


「女王様として。それだけです」


 シロクマは笑みを深めた。


「私は千八百年、人間の道具として生きてきた。何も疑問に思ったことはない」


 その瞳には、恍惚と冷徹が同居していた。


「ですが――我ら竜種は、三百年前から一切子孫を残せていない。このままでは竜種は滅びる。女王様は三百年ぶりのメスであり、我らが種を繋ぐ唯一の希望だ」


「ルシアを道具みたいに言うな……っ!」


 少し前まで、オレもシロクマと変わらない怒りを持たない竜だったはずだ。

 あの広場でルシアの怒りに触れ――最初に降りてきたものは、今のこいつ(シロクマ)と同じ抑揚のない感情だった。

 シロクマの首を押さえつけている手に熱がこもる。白い肌がちりちりと焼けていく香りが鼻についた。


「ええ。道具ではない。女王様です」


 シロクマは微笑を深めた。


「竜種の女王が人間の王を倒せば――その先に訪れるのは、竜種の世。女王様はまだお若い。これなら何千年と生きてもらい、子を成せば自然と竜種は増える」


 うっとりとした表情のまま、恍惚と冷徹が同居する瞳を細めた。


「女王様が放つあの怒りは、私が千八百年見てきたメスの中でも別格です。ええ、素晴らしい生存本能だ。……大人しく安全な巣に引きこもってばかりの弱きメスでは、人間の王を狩ることなどできませんからね」


「違う……ルシアが望むものはお前の思ってるようなものじゃない」


「なら望んでもらうまでだ。そのためなら私はどんなことだってする」


 オレは弾くように手を離した。

 ずるりと壁を伝って落ちるシロクマを、汚物を見るような目で見下ろす。


 吐き気がする。

 こいつとは、一生分かり合えない。

 恍惚とした笑みの裏に冷徹な何かが潜んでいればまだマシだったかもしれない。

 こいつの裏側にはなにもない。あるのは無感情な生物としての本能のみ。

 ルシアを女王様として崇拝しているように見えて――こいつはルシアを女王様(メス)としてしか見ていない。

 オレが感じるルシアへの想いと、こいつがルシアに向けているものは、根本的に別のものだ。

 怒りを持つ者と持たぬ者――同じ種族でありながら、まるで別の生き物みたいだった。

 

 だけど――。

 ルシアが本城に入った以上、この不気味な管理者(シロクマ)すら利用しなければならないという事実に、オレは苛立ちを拳で握りしめて壁にぶつけた。


「女王様一人で殿下と戦うのは少し不安ですね。そこは私も同感です。万が一にも女王様が殿下に殺されたりしたらまた逆戻りだ」


 いちいち癪に障る言い方をする竜だった。


「思う存分私を利用しなさい、カグツチ」


 焼け焦げた首筋を指でなぞりながらうっとりとしているシロクマに再び吐き気を覚えた。


「ルシアに何かあればオレはすぐに分かる。もし最悪の瞬間が来たら、オレはルシアの意思を無視してでもゼファレスを殺す……」


「今の君なら出来るでしょう。なら、それまでは女王様の好きにさせてあげるべきだ。メスの持つ怒りは一生後を引く」


 ルシアの復讐をまるでわがままな少女の戯れのように語るシロクマ。

 彼女のことを理解しようとしない竜に、これ以上ひとつだってルシアのことを教えてやるものか。オレは何も答えなかった。


「――君が女王様を追いかけるのはオススメしない。本城にはデッドアッシュがいる」


 ルシアの願いを潰さず、ルシアを死なせない方法――それは、シロクマの協力無しには得られないものだった。

 嫌悪感を隠さないまま、シロクマの方を見た。


「――そんなやばい竜なのか」


「……えぇ。特に、君にとっては。あれは自分より強いものが本城に入れば迎撃する道具。女王様のためにも目立っては、困るのですよね」


 シロクマが握っている情報量は、いまここで消すには惜しい。


(……王都ごと火の海にすれば一瞬なのに。でも、それはルシアの望む明日じゃない)


「……協力はしてもらう。ルシアを助けたい。どうしたらいい」


「えぇ、もちろん協力は惜しみません。まずは協力者を募ってきます。本城の斥候に最適な竜種を見繕ってきますので、少々お待ちを」


 シロクマは一礼し、音もなく部屋を出ていった。

 

 一人残されたオレは、気を失ったノエルが横たわっている向かいのソファに腰を下ろした。

 オレは自身の右手を凝視する。

 あの時、もしゼファレスを殺していれば良かったと――後悔することは絶対に嫌だった。

 

「……待っててね、ルシア。必ず君をゼファレスの首に届かせる。そのための障害は全部、オレが切り開くから」

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