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81.盤面への侵入

 シロクマの機転に救われ、私はゼファレスの背後について後宮のエントランスを歩いていた。


 一定の歩調で前を行く広い背中を見つめながら、私は彼の真意を測ろうと冷たい思考を巡らせる。

 なぜ、この男はただの侍女である私をわざわざ本城へ連れ帰るのか。


 理由の一つは明白――ノエルの孤立化。

 彼女は兄アシュレイを縛るための最高の人質であり、ゼファレスの盤面において完璧にコントロールされなければならない駒だ。

 しかし、ノエルは後宮という檻にあっても全く怯むことなく、彼女らしさを保っていた。

 この後宮の内側の管理はフェリシアに任されていると言っていたし、ゼファレスに報告が上がっていてもおかしくない。

 だから私を奪ったのでは。

 私を切り離すことでノエルを精神的に孤立させ、アシュレイの弱点を完全に掌握する。

 極めて合理的で、彼らしい盤面操作だ。


 だけど、本当にそれだけだろうか。

 ただ盤面を操作するためだけなら、私を適当な地下牢へ放逐すれば済む話だ。

 猜疑心(さいぎしん)の塊のような彼が、己の膝元である本城にわざわざ得体の知れない侍女を引き入れる理由としては、どうにも不自然だった。


 ふと――ゼファレスが私に向けた、あの熱を帯びた瞳を思い出し、背筋に嫌な悪寒が走る。

 あの男は、竜継の儀の時も――そしてこの間の夜も、私に特別な感情を向けた。

 彼は私をルシア・ヴァレットだとは気づいていない。

 理屈ではない、おぞましい引力。それが、彼を動かしている最大の要因なのかもしれない。

 そうだとしても――誰も信じていないと言う人間が、なぜ人を欲するのか。私にこの男を理解する日が来ることはなさそうだった。


 白の離宮の入り口――重たい扉へ差し掛かろうとした、その時。


 地下へと続く階段から重たい足音が響いてきた。

 シロクマが言っていた、もう一つの足音の正体。私はその姿に目を見張った。

 現れたのは、見慣れた黒髪と琥珀の瞳。

 しかし、その服は沈殿物の泥で汚れ、ところどころが破れており――その両腕に至っては、強酸に焼かれたのか、黒く変色し爛れていた。


「――後宮へ行きたいと懇願しておいて何をするかと思えば。ゴミ拾いに来たのかい、兄さんは」

 

 アシュレイが背中に背負い、引きずるようにして運んでいる巨大な黒い影は――他でもない、ロボだった。


 私は表情が崩れそうになるのを、必死に奥歯を噛み締めて耐えた。

 ロボは完全に意識を失っているのか、だらりと手足を下げてアシュレイの背に覆い被さっていた。その背中にはアシュレイの外套が掛けられているが――髪も服も溶けかかっている。皮膚だって無事では済まないだろう。

 先ほど洗濯室で竜たちが噂していた、ゴミ捨て場に破棄された何か――それは、他でもない彼だったのだ。


 激しい混乱が、私の思考を殴りつけた。

 アシュレイ・ファ・ヴォルシュタインは、誰がどう動こうと、何を失おうとノエルを選ぶと即答した男だ。

 恐らく兄としての矜持も何もかも捨ててゼファレスに後宮へ連れて行ってくれと懇願したのだろう。

 なら、何よりも真っ先に彼女の元へ向かうはず。それなのに、なぜ彼はノエルを後回しにしてまで、泥と酸にまみれながら、壊された竜を一人で地下から救い出しているのか。


 ゼファレスが足を止め、冷たい愉悦を浮かべて声をかけた。


「確かに地下に捨てたそいつをくれてやるとは言ったが……兄さん、そんなに竜がほしかったのかい」


 嘲るような響き。

 ゼファレスにとってロボはとうに壊れた不要な玩具に過ぎず、それをわざわざゴミ捨て場まで拾いに行く兄の姿は、ひどく滑稽で惨めに映ったのだろう。

 アシュレイは足を止め、暗く濁った瞳で弟を見据えた。


「……あぁ。私は祖父から何ももらえなかったからな。羨ましかったんだ。お前が要らないというのなら、もらっても構わないだろう」


 淡々とした、抑揚のない声。

 王太子としての矜持など微塵もない、劣等感に塗れた完全なる敗北者の返答だった。

 しかし、私にはわかった。彼は狂ってなどいない。あの男は、損得の計算をすべて投げ捨ててでも、ロボを見捨てなかったのだ。


 ふと、視界の端でゼファレスの口元が動いた。

 ほんの数ミリ、その余裕めいた笑みがピクリと引きつったのを、私は見逃さなかった。

 ――苛立っている。


 絶対的な支配者であるはずの彼が、沈殿物の泥まみれの敗北者を見下ろしながら、微かな不快感を隠しきれずにいる。

 彼にとって、あの竜は何度痛めつけても決して己に屈しなかった不愉快なゴミだったのだろうか。

 それとも、完全にコントロール下にあるはずの兄が、ノエルという合理的な理由もなしに――何の見返りもないはずの竜のために、己の腕を焼いてまで情に動いたことが計算外だったのか。

 それを理解するには、私はあまりにもゼファレスと言う人間を知らない。


「兄さんは祖父のことを尊敬してたからね。構わないよ。帰りの馬車は必要かい?」


 再び口を開いたゼファレスの声色は嘲っていたが、その瞳の奥には、理解できないものを前にした冷たい濁りが沈んでいた。


「……いい。こいつを洗ってから、歩いて帰る」


「あぁそうかい……では僕は先に失礼させていただくよ。兄さん、明日は朝から忙しいんだ。ペットの世話に入れ込んで執務に響くようなことは勘弁してくれよ」


 ゼファレスは鼻で笑うと、完全に興味を失ったように踵を返した。


「行くぞ、ルウ」


「……はい」


 私は深く頭を下げ、アシュレイたちの横を通り過ぎる。

 すれ違いざま、アシュレイの視線がわずかに私へ向いた気がした。

 分厚い眼鏡越しに、視線が交差する。


(――私は盤面に入りました。アシュレイ様)


 アシュレイが私だと見抜いたかどうかまでは判断出来なかった。

 私はただの侍女として、ゼファレスと共に本城へ続く跳ね橋へと足を踏み出した。


 背後で、重苦しい音を立てて後宮の門が閉ざされていく。

 安全な黄金の鳥籠は、もう手の届かない場所へと遠ざかった。

 前を歩くゼファレスの背中は、まったくの無防備だ。

 しかしその足取りには一片の隙もなく、まるでこの世界そのものが彼を守るために設計されているような、おぞましい錯覚すら覚える。


 それでも。

 私は、静かに呼吸を繰り返しながら、冷えきった心の内側で業火の炎を研ぎ澄ます。

 この男がどれほど底知れぬ怪物であろうと、盤面に上がり、その背中の真後ろに立つ権利を私は得た。

 私はただの侍女として――この怪物の喉元に、静かに刃を突きつけ続ける。


 全てを終わらせるために。

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