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80.限界の殺意

 どうか間に合ってと祈りながら、私はノエルの待つ自室へと急いだ。

 廊下の角を曲がり、自室の重厚な扉が見えた瞬間――私は目を見開いて立ち止まる。

 半開きの扉の向こうから、空間そのものが歪むような、異常な重圧が漏れ出していたのだ。


 足が竦むような気配に私の本能が警鐘を打ち鳴らしている。

 あれは――紛れもなくカグツチから発せられている。


「……冗談ではありませんわ! たかが侍女一人、他所からいくらでも補充が利くでしょう! ルウは私の大切な侍女ですわっ!」


 聞こえてきたノエルの声は、いつになく激しい剣幕だったが、まだ何かが起こった形跡はなさそうだ。

 大丈夫――カグツチはまだ、ゼファレスを前に耐えていてくれている。

 彼はノエルを巻き込まないために、己の極大の炎と殺気を体内の奥底へ超圧縮して耐え忍んでいるのだ。

 私は足音を殺し、半開きの扉の隙間から部屋の中を覗き込む。


「たかが侍女一人に、ずいぶんと吠えるじゃないか。ノエル」


 白の礼装を纏い、ソファに腰掛け退屈そうに脚を組むゼファレスの後ろ姿が見えた。

 ノエルは彼に向かってヒステリックなほど声を荒らげていた。

 いや――よく見れば、彼女の瞳は怒りではなく、明らかな焦燥に揺れている。

 

 ――ミシィッ……!

 超圧縮されたカグツチの殺気が、物理的に天井の太い梁を軋ませた。

 ゼファレスの視線が、わずかに上へ向きかける。


 ――まずい。早くこの男をこの部屋から遠ざけなければ。

 ノエルのそんな心の声が、手に取るように聞こえた気がした。

 彼女はゼファレスの意識を天井から逸らすため、咄嗟に手元のティーカップをソーサーに激しく叩きつけ、立ち上がりざまに自身の椅子を派手に蹴り飛ばした。


「断固、お断りいたしますわ!!」


 ガシャンッ! ガンッ! という破壊音が、部屋の軋み音を強引に上書きする。

 そのあまりに野蛮な振る舞いに、ゼファレスはわずかに目を丸くし、やがて呆れたように鼻で笑った。


「……凄まじい気迫だな。お前が暴れるたびに、天井が軋んで落ちてきそうだ」


 ゼファレスはノエルの怒気だと思っているようだが、違う。この勘違いが長く持つとは思えなかった。

 これ以上は、カグツチが抑えきれない。


 今すぐあの無防備な背中から首へ、刃を突き立てたい。

 アルトの命を奪ったこの男に対する私の復讐心は、本来もっと冷たく、静かに澄んだものだったはずだ。

 けれど、先日この部屋で彼が漏らした――あの、とろりと濁った気色悪い熱が、私の底に沈んでいた感情に火を点けていた。

 他人の大切なものを無慈悲に奪い尽くしておきながら、己は幻影の母に縋る傲慢な怪物。

 その悍ましさに、喉を焼くような強烈な殺意が胸の奥で暴れ狂う。


 しかし、私はそれを奥歯が鳴るほど強く噛み締め、無理やり飲み込んだ。

 ここで私が刃を剥き出しにすれば、ノエルが巻き込まれ、王都が灰になる。


 私は深く息を吸い込み、どす黒く煮えたぎる殺意を水の底へと沈み込ませて――半開きの扉を押し開けた。


「――洗濯から戻りました、ノエル様」


 部屋の空気が、ピタリと止まる。

 ゼファレスの琥珀色の瞳が、ゆっくりと私へ向けられた。


「……話は聞こえていただろう。今すぐ荷物をまとめろ」


「なっ、お待ちになって! ルウ、あなたは嫌と言って構いませんのよ!?」


 ノエルが私を庇うように前に出ようとする。

 私はその背中へ向かって、小さく、けれど明確な拒絶の意味を込めて首を振った。

 そして、思考を挟むことなく、天井裏のカグツチが爆発するよりも早く、ゼファレスの御前で深く平伏した。


「――謹んで、お受けいたします。殿下」


 その言葉が落ちた、直後だった。


 肌を刺すような、異常な重圧。

 室内の温度が急激に跳ね上がり、呼吸すら困難になるほどの殺気が、全方位から叩きつけられた。

 

 ――死ぬ。


 本能が逃げろと悲鳴を上げていた。視界が歪み、意識が遠のく。

 竜種である私ですら、この殺気の前では立っているのがやっとだった。膝が笑い、今にも床に崩れ落ちそうになる。奥歯を噛み締め、必死に意識を繋ぎ止める。

 これはもはや、災害だった。私に向けられたものではないからこそ呼吸が出来るものの、もし目の前でこの殺気を向けられたら――きっとそれだけで死に至る。

 天井裏にいるカグツチの理性が、ついに限界を突破したのだ。


「……あ、」


 直にその殺気を浴びたノエルが、小さく声を漏らす。

 どれほど精神が屈強であろうと、ただの人間の脆弱な肉体が、世界を焼く火竜の本気の殺意に耐えられるはずがない。

 ノエルは糸が切れた操り人形のように、ふつりと意識を手放し、床へ崩れ落ちた。


「ノエル様!」


 震える膝に力を込め、意識を保つだけで精一杯の身体に鞭打ち、私はとっさに彼女の身体を支える。

 気絶している。だけどそれだけだ。


 ――この異常な空間で、平然と立っている男が一人だけいた。


「……なんだ、今の殺気は?」


 ゼファレスは不快感をあらわにし、気絶するノエルを一瞥する。

 そして鋭い視線を頭上の軋む天井へと向けた。

 死の重圧を浴びながら、この男は顔をしかめただけだ。

 狂っている。


(――しまっ、)


 ゼファレスが真実に気づく――私が絶望しかけた、その瞬間。


「――失礼いたします、ゼファレス殿下」


 ノックと共に、音もなく扉が開いた。

 そこに立っていたのは、白銀の礼装を乱れ一つなく着こなした、後宮の管理者――シロクマだった。洗濯室から私を追いかけてきたのだろうか。


「シロクマ……。今の異常な殺気はなんだ」


 ゼファレスが剣呑な声で問う。

 するとシロクマは、床に倒れ伏すノエルを一瞥し、底知れない冷たさを孕んだ作り物の笑みを浮かべて、優雅に一礼した。


「誠に申し訳ございません。下階のクラウゼン家の令嬢が、部屋の待遇に不満があると廊下で少々暴れられまして」


「ベアトリスが?」


「はい。所有竜であるセイデンキをけしかけてきましたので、少々威圧して黙らせました。その余波が、吹き抜けを伝ってこの部屋の天井にまで反響してしまったようです」


 シロクマは困ったように肩をすくめた。

 廊下に面した吹き抜けの方から、令嬢の「いやぁぁぁ! セイデンキが死んだぁぁぁ!?」という悲鳴が、下階から反響してタイミング良く微かに聞こえてくる。


「…………」


 シロクマの報告は、見事なまでに理路整然としていた。

 後宮の管理権限を持つ彼が、反抗的な令嬢とその竜を力で制圧した。

 そこから漏れ出た殺気が、この部屋の令嬢の意識まで刈り取ったのだという、完璧な物理的偽装。


 ゼファレスの視線が、ゆっくりと頭上の天井からシロクマへと下りる。

 かつて無敗を誇った白銀の竜の気迫ならば、これほどの重圧を生むのも道理だ。だが、この重圧の震源が本当に下階なのか――ゼファレスの琥珀色の瞳に、微かな疑念が過る。

 しかし、彼は自分の目的が優先だとばかりに小さく鼻を鳴らし、追及を切り捨てた。


「……ふん。くだらない。たかが下等竜一匹の威圧に、無駄な気を散らさせるな」


 そう吐き捨てると、シロクマは芝居がかった手つきで、私の腕の中で気絶しているノエルを示した。


「こちらの令嬢はどうなさるおつもりで?」


「ベッドにでも転がしておけ」


「仰せのままに。……して、殿下。そちらの地味な侍女をお連れになるのでしょうか」


「あぁ」


「代わりの使用人はいかがいたしましょう」


「不要だ。――それとも、お前がその女の面倒を見るとでも?」


「私はゼファレス様より後宮の管理を任されている身ですので」


 シロクマは一礼し、それを拒否と受け取ったゼファレスはそれ以上何も言わなかった。

 ゼファレスは立ち上がると、私を見下ろした。


「ついてこい」


 短く命じ、彼が部屋を出て行く。

 私は気絶したノエルをそっとソファに寝かせ、一度だけ深く頭を下げた。


「――では、行ってまいります」


 扉の脇に立つシロクマが、すれ違いざまに、私にしか聞こえないほどの極小の声で囁く。


「……あとは、私にお任せを」


 私は視線を落としたまま、静かに頷き、ゼファレスの背を追って部屋を後にした。

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