79.因果逃れのおまじない
あまりの事実に思考が追いつかず、私が呆然としている間にも、竜たちは私を他所にのんきな世間話を続けていた。
「そういや、カリナ様の本当の名前ってなんやったんやろなぁ? そもそも、なんで隠してたんや? ほんまにオス嫌いだけが原因? スピカでも聞き出せなかったっちゅー話やん」
セイデンキが、雑巾を絞りながら改めて不思議そうに首を傾げて問う。
それに対しシロクマは淡々と――さも当然のことのように答えた。
「おそらく、因果逃れのおまじないではないかと。竜にとって名は魂であり、因果そのもの。何か抗いたい原初の夢があって、それを切り離すために敢えて名を伏せる――と言う習わしが、今から千五百年ほど前には存在してたのですよ」
「千五百年前じゃワイは生まれとらんから知らんかったわ」
竜の名、因果、原初の夢。
それぞれの言葉がパズルのピースのように散らばっているのに、あの壊れた竜の姿がカグツチと重なりかけて、一向に思考がまとまらない。
「そういえば――この間の決闘の際にアグレストの当主がカグツチと略称で呼んでいましたね。……貴族が因果逃れのおまじないを知っていて呼んでいるとは思えませんが」
その言葉が落ちた瞬間。
私の世界から、周囲の雑音がすっと遠のいた。
水の跳ねる音も、竜たちの声も、何も聞こえない。
ただ、ひどく速い自分の心音だけが、警鐘のように鼓膜を打ち付け続けている。
散らばっていた不吉なパズルのピースが、頭の中で音を立てて勝手に組み合わさっていく。
私はその絵を見たくないと言うのに。
「……どういう、ことですか」
喉が干からびたように張り付いて、掠れた声しか出なかった。
私の震える問いに、シロクマはうっすらと目を細めた。
そして、千八百年の時を生きる底知れぬ瞳で、私を真っ直ぐに見据える。
「彼の名前はカグツチではありません。ヒノカグツチですよ」
シロクマの言葉だけが私の鼓膜に反響する。
「アグレスト家は社交界に一切顔を出さなかったので。あの坊やがどう育ったのか、無事に生きているのかすら、我々はあの決闘の日まで知りませんでした。……なぜ彼がヒノカグツチという真名を隠し、略称で呼ばれているのかは我々には分かりません。母であるカリナ様が掛けたおまじないとも思えない……」
「カリナ様はヒノカグツチの卵を産んで亡くなっとるからな」
セイデンキは洗濯室の床の水気を雑巾で拭き取りながら、何気なく言葉を継いだ。
「……もしかして、親殺しの因果でも持ってるんやろか、あの坊やは」
竜たちにとってはただの世間話の一つに過ぎないのだろう。
けれど、無邪気で残酷なその言葉は、私の胸を鋭く抉った。
――ヒノ、カグツチ。
それが、彼の本当の名前。
「女王様はヒノカグツチの知り合いなん?」
セイデンキの無邪気な問いかけに、私は小さく息を吸い込み――迷うことなくはっきりと告げた。
「私は、彼の番です」
「…………は?」
ぽてっ、とセイデンキが持っていた雑巾を床に落とした。
洗濯室の空気が、ピタリと止まった。
洗い場から滴り落ちる水音だけが、やけに大きく響く。
ハンガーはずり落ちかけた眼鏡を直すことも忘れ、ヒョウガは手にした洗濯物を握りしめたまま石像のように固まっている。
あのシロクマですら、口を半開きにしたまま瞬き一つしない。
一秒、二秒、三秒。
彼らの優秀すぎる脳髄が、そのたった三文字の単語が持つ意味を必死に処理し、おとぎ話の神話と目の前の現実のすり合わせを終えた――その瞬間。
洗濯室が爆発した。
「番!? 番って実際に存在するものなのですか!? 確率で言えばありえないことなんですが!? 神話的特異点と言っても過言ではないのですが!?」
「嘘やろ、神話の話やなかったんかい!」
「生きてる間に番を見るなんて……」
「素晴らしいですね。ところで女王様、番以外と番うご予定は?」
猛烈な早口でまくし立てるハンガー、頭を抱えて叫ぶセイデンキ、なぜか私に向かって拝み始めるヒョウガ。
そして、どさくさに紛れてうっとりと顔を寄せてきたシロクマを即座に手で押し返し、私はギリッと奥歯を噛み締めていた。
こんなところで大騒ぎに付き合っている場合ではない。早く戻らなければ。
そう焦燥を覚えた、その時だった。
「……皆様、お静かに」
ふいに、シロクマがスッと表情を引き締め、天井を見上げた。
その声の絶対的な冷たさに、騒いでいた竜たちが一瞬で口をつぐむ。
「実は、皆様が騒いでおられる最中から、二つの足音を追っていたのですが」
竜種となった私にも、確かに周囲の喧騒は人間の時以上に聞こえている。
しかし、後宮という特殊な環境下で大勢の人間と竜が動く音は、ただの雑音の塊として鼓膜を叩くだけで、何を意味しているのかまでは区別がつかない。
でも千八百年の時を生きるシロクマの卓越した聴覚は違った。
彼は静かに目を細め、幾重にも重なる無数の音の波から導き出した事実を、淡々と口にする。
「一つは、ゼファレス殿下ですね。たった今、真っ直ぐに階段を進んでおられます――そしてもう一つ……」
そこで、完璧な自信に満ちていたシロクマが、微かに眉をひそめた。
「地下への階段を下りていきましたね。誰のものか判別がつかない。なぜ地下へ――?」
「ゼファレスが向かったのは、どこの部屋ですか!?」
私はシロクマの言葉を遮り、身を乗り出した。
地下へ降りていった正体不明の足音――先ほどの灰色の亡霊の姿が脳裏をよぎる。
ひどく不気味で気懸かりだが、今はそれどころではない。
「足音の反響と扉の軋み音からして最上階……女王様の愛玩人間――おっと失礼、主の部屋ですね」
――ドクン、と。
私の心臓が、大きな音を立てて跳ね上がった。
(私たちの、部屋に……?)
竜たちは「へえ」「戴冠式はまだやっちゅーのに気が早いなぁ」と、まるで対岸の火事のようにのんきな世間話を再開している。
彼らにとって、自分たちが直接呼ばれない限りは慌てる理由などないのだ。
だけど、私は違う。
あの部屋にはノエルがいる。
そして何より――天井裏には、先ほど彼らに自分の番だと宣言したばかりの火竜が潜んでいるのだ。
私が雑音で状況を探れないように、カグツチもまた、この喧騒の中では誰が自室に近づいているのか気づいていない可能性が高い。
あの男は前回、私に母親の幻影を重ね、歪んだ執着の目を向けた。
もし今度、ノエルの前で私のことを尋ねたら。私を気に入ったと口にしたら。
カグツチは間違いなく、天井を蹴破ってゼファレスの首を獲りに行く。
その瞬間、部屋は紅蓮に包まれる。ゼファレスはおろか私の復讐も、王都も、すべてが一瞬で灰になる。
「……申し訳ありません、お話し中ですが」
私は持っていた果実水のグラスを台にドンと置き、立ち上がった。
これ以上平静を装うのは無理だった。
「部屋へ戻ります。お洗濯、ありがとうございました」
「女王様。一つお聞かせ願えますか。――あなたは、ひょっとしてゼファレス殿下を……この人間の国を滅ぼそうとしているのでは?」
国を滅ぼすつもりなど微塵もない。
しかし――脳裏に貼り付いた原初の夢を思い返し、私は肯定も否定もせず席を立った。
「ここで見聞きしたことは――ヒノカグツチのことも含め、他言無用です」
「お、お待ちください女王様! それから先ほどの番のお話、もう少し詳しく……!」
シロクマの珍しく焦ったような声を背中で聞き流し、私は早歩きで洗濯室を後にした。
扉を閉めた瞬間、猛然と廊下を走り出す。
どうか間に合ってくれと祈りながら、私はノエルの待つ自室へと急いだ。




