78.最後の子
「もう堪忍してやぁーーー!!」
閉めかけの扉から響く南訛りの絶叫。
石造りの洗濯室の中央。
そこには、昼間のサロンで私に跪いたセイデンキが、美しい金髪を床の冷たい石畳に擦り付けて見事な土下座をしていた。
そしてその頭を、無表情のシロクマが軍靴で容赦なく踏みつけている。
そこに艷やかで恍惚とした笑みはなく、冷やかで物言わせぬ堂々たる風格があった。
「気安く声を出すな下等竜。貴様のような出来損ないが、女王様に牙を向こうとしたなど万死に値する。女王様のお許しが出るまで、その洗濯した汚水でも啜っていろ」
「ちゃんと断ったやん! お嬢の命令無視して角まで差し出した言うたやろ! ほんまワイにその気はなかったんやぁぁ!!」
シロクマがグリグリとセイデンキの頭を踏み躙る。
さらに周囲を見渡せば、洗濯室の壁際にずらりと並び、入ってきた私を見るなり一斉にひざまずいて頭を垂れた。
なるほど――シロクマは貴族遊戯でカグツチに敗北するまでは無敗だった。
貴族間でしか有効にならないと思っていた決闘の結果は、貴族のいない場所であれば竜種間の序列にもなるのだ。
しかし、主抜きで竜種だけが集まる場所など、私の知る限りこの洗濯室くらいしか存在しない。その稀有な序列が、今ここで初めて発揮されているのだ。
セイデンキは踏みつけられても、怒りを見せない。ただ淡々と、序列を受け入れている。
怒りがないからこそ、彼らは序列に素直に従えるのだ。メスへの服従と同じく、これもまた本能に刻まれた冷徹な秩序なのだろう。
「……あの、シロクマ。何をしているのです」
「おや女王様、今日も花のように愛らしいですね。私はこの不敬者は私が責任を持って教育――いえ、処分いたします。さあ、遠慮なくこいつの背中を女王様の愛玩人間の足拭きマット代わりに。女王様の足拭きマットには私をお使いください」
「いりません。処分もやめてください。あとノエルさんは愛玩人間ではなく私の主です」
「そうでした、主従ごっこをなされているんでしたね。……え、処分しなくて良いのですか? この不敬者を?」
「セイデンキは真っ先に膝を折りました。むしろ、私の意図を組んでくれたのです」
シロクマは驚いたようにセイデンキから足を退けた。
足元のセイデンキは「助かったぁ……」と安堵の息を吐き、地を這うようにして素早く私の後ろに回り込んだ。
私はため息をつきながら、そっと洗濯籠を持ち直した。
令嬢たちの潰し合いといい、目の前で繰り広げられる竜のヒエラルキーといい。
ゼファレスの集めたこの鳥籠は、どうやら私が思っていた以上に、ひどく歪で厄介な場所らしい。
もっとも――ゼファレスが竜たちのヒエラルキーまで想定しているとは思えないが。
「それより、聞きたいことがあるのです」
私がそう切り出した瞬間、壁際に控えていた水色の髪の竜――たしかヒョウガという名だったか――が、慌てた様子で駆け寄り、私の腕から洗濯籠をひったくった。
彼はそのまま猛烈な勢いで洗い場に向かい、ごしごしと私の侍女服やタオル、それに私とノエルの肌着まで洗い始める。
それを合図にしたかのように、他の竜たちも弾かれたように動き出した。
「女王様、どうぞこちらへ」
「お掛けになってください」
瞬く間に木製の椅子が運ばれ、どこから持ってきたのか、ふかふかのクッションが何枚も重ねられる。
さらに別の竜が、冷えた果実水が入ったグラスに丁寧にストローまで添えて、恭しく差し出してきた。
「……ありがとう」
至れり尽くせりの接待に戸惑いながらも、私は勧められるがままクッションの山に腰を下ろした。
グラスを受け取ると、今度は目の前でシロクマが四つん這いになった。
「さあ女王様、どうぞ私を足置きにお使いください。踏みしめられる喜びに打ち震える準備はできております」
「結構です」
私は間髪入れずに丁重にお断りし、自分の足はきちんと床に着けた。
シロクマは心底残念そうにしていたと思えば、儚げな笑みを浮かべ「放置プレイもまた良し、です」などとこぼしていた。
この輪をかけて尽くせば尽くすほど幸福になれる生き物はもう放っておくことにした。
ストローで果実水を一口啜り、喉を潤してから、私は居住まいを正す。
並み居る竜種たち――いや、今は私にひれ伏す忠実な情報源たちを見渡し、静かに問いかける。
「先ほど、灰色の竜種とすれ違いました。……あれは、デッドアッシュですね?」
その名を出した途端、洗濯室の空気がピリッと凍りついた。
洗濯板に向かっていたヒョウガの手が止まり、私の後ろの足元で屈んでいたセイデンキがビクッと肩を震わせる。
シロクマの恍惚とした表情も、スッと冷たく、淀んだものに変わった。
「……ええ。灰髪の竜種であればデッドアッシュで間違いありません」
シロクマが静かに立ち上がり、代表して口を開いた。
「彼も後宮に出入りしているのですか? 以前王都で見た時よりも、さらにひどくやつれているように見えましたが」
私の言葉にセイデンキが首を傾げた。
「デッドアッシュが後宮? いや、それはないはずや。後宮にいる竜種はもれなく令嬢の家の竜やし。デッドアッシュは王太子ん竜やろ?」
「えぇ。セイデンキの言う通りデッドアッシュと、あとついでにロボはゼファレス殿下の竜。後宮に用事など……いえ、女王様。どこでデッドアッシュを見たのですか?」
シロクマは首を傾げながら問う。
「地下から上がってきたように見えましたが……」
その言葉に竜たちは一斉にお互いの顔を見合わせた。
「あー……あんなぁ、地下はゴミ捨て場やねん」
「……ゴミ捨て場?」
私が問い掛ける間に、シロクマはいまここにいる竜の数を指折り数えていた。
「……いえ、全員いますね。今回は誰も破棄されていない。後宮にいる竜でないとすると……本城に行った竜か?」
言いながら、シロクマは不思議そうに首を傾げた。
すると、きらびやかなドレスをその身に宛てがっているハンガーがこちらを向いて口を開いた。
「最近になって竜種が王太子の元へ集約されまして、令嬢の付属物として小間使いに回されたのがここにいる者となります。一方で王太子の護衛として本城に配備された個体も複数機いるとの情報がありますが、機能不全と判断されれば即刻王太子によってゴミ捨て場へ廃棄される仕組みになっているのではないかと言うのが自分の推測です」
ハンガーの言葉に、私は手を口元へ寄せた。
サロンにいた令嬢の数は二十名近く。
この洗濯室にいる竜種の数は十未満。他にも炊事場、共用スペースの清掃をしていると考えれば、後宮には二十近くの竜がいることになる。
更に本城には戦力になる竜種がいるとなると――やはり、そう簡単に首を取らせてはくれない。
「アイロン、お前はなんでゴミ捨て場送りにされたんやっけー?」
アイロンと呼ばれた竜は、台の上にノエルの下着を広げ、フリルを押しつぶさぬよう、丁寧に素手でプレスしていた。
なんだかノエルに対してとんでもなく申し訳ない気持ちが湧いてくる。
「家の命令で王太子を暗殺してくるよう頼まれて返り討ちだ」
アイロン――ヴァレット家とはあまり関わりのない家――確か、ガーモンド家だったか。
その名の通り熱で衣類のシワを取るアイロンに因果を持つ竜のようだ。
竜の名前の因果は本当に人の理解を超えている。
「……あなたの独断で、ですか?」
私が探るように尋ねると、アイロンは下着のシワを伸ばす手を止めずに淡々と答えた。
「あぁ。俺が自分の意思で勝手にやりました。――主からは、捕まったら絶対にそう言えと命令されていました」
「…………」
それが貴族のやり口だ。
竜を暗殺の捨て駒として使い、失敗した時の責任はすべて道具の暴走として処理する。
怒りを持たず、ただ従順に命令に従う彼らだからこそ成立する、最悪のトカゲの尻尾切り。
アイロンの言葉には、騙されたことへの恨みも、見捨てられたことへの怒りも全く含まれていなかった。
ただ、予定と違う結果になったことを不思議がっているだけだ。
「ガーモンド家は――どうなったのですか?」
「分かりません」
おそらく、ガーモンド家はもうこの国には存在していないだろう。
あのように猜疑心の塊で、盤面を完全にコントロールしたがるゼファレスが、そんな見え透いた嘘を信じて元凶の貴族を生かしておくはずがないからだ。
「それをワイらが拾って使ってるってわけ。王太子もわざわざ捨てたもんの確認までしにきーひんからな」
「つまり……デッドアッシュは何かを捨てに来た、と?」
私の問いに、シロクマが静かに頷いた。
「その可能性が極めて高いかと。ゼファレス殿下は機能不全と判断したものを手元に置くことを酷く嫌います。それが物であれ、竜であれ……あるいは人間であれ、です。地下にあるのは、ただのゴミ捨て場ではありません。王室から排出される機密書類や不要な品々、そして――」
シロクマは一拍置き、天井を指差した。
「後宮の最下層に作られた、強酸が満々と湛えられた処理槽。私どもは忘却の溶解池と呼んでおりますが……あそこへ落とされたが最後、紙もインクも、人間も、竜の肉も骨も、すべてがドロドロに溶け、文字通りこの世から忘却されます。幸い、人間が落とされたところはまだみたことがありませんがね?」
シロクマの言葉に、アイロンが手を休めずに頷いた。
「ああ、あそこは酷いもんだ。幸い、シロクマがすぐに気づいて引き上げてくれたから良かったが……あと数日放置されていたら、角ごと溶解池に溶かされ、還る場所もなく彷徨い続けていただろうな……」
アイロンは、ノエルの下着を器用に折りたたみながら、事もなげに死の淵を語る。
「数時間程度なら皮膚が焼けるだけで済みます。角さえ無事なら皮膚なんていつか治りますからね。でも長く浸かれば角にひびが入り、竜としての命が終わる。さすがの私でも溶解池で溶かされるような最後はお断りします。痛みに美学がない……」
シロクマの淡々とした説明に、私は背筋が凍る思いがした。
デッドアッシュは、あの壊れた足取りで、同胞か、あるいは不要とされた何かをその地獄へ捨てに行ったというのか。
「デッドアッシュは完全に心が壊れとる。せやけどゼファレスの命令一つで、無駄なく動くからお気に入りなんやろ。捨てに来たのが何かは知らんが、気分のええもんやない」
セイデンキが肩をすくめると、シロクマも「後で暇を見て様子を見に行ってきます。女王様のお手を煩わせるまでもない」と事もなげに言った。
「――デッドアッシュも、昔はあぁではなかったのだがな」
アイロンは、ノエルの機能性の高そうなベージュの肌着に器用に蒸気を当てながら、淡々と口を開いた。
見てはいけないものを見た気がして、ふいと目をそらす。
「えー? そうか? 今と対して変わらんやろ。貴族の目が唯一なかった女王の巣ですら喋らんかったもん」
セイデンキが口を挟むと、シロクマが静かに頷いた。
「ええ。まさかあの朴念仁が、最後の女王――カリナ様を見事撃ち抜くとは思いませんでしたよ」
「カリナ様、オスが死ぬほど嫌いやったからな。ワイなんか『私の前で喋らないで、言葉が移る』って女王の巣から追い出されたわ」
「ええ。カリナ様は異常なほどのオス嫌いで有名でしたからね。生まれてまだ二十年ほどの、とても若い竜だったからでしょうか。どんなオスが近づいても決して心を許さなかった。えぇ、私も『気持ちが悪い』と城外へ蹴り飛ばされましたとも……気持ちよかったです」
「当たり前やろ。オスは卵産ませることしか考えとらんし。シロクマは相手がメスやったらみんなこないな態度やから騙されたらあかんで、女王様」
セイデンキの忠告にシロクマをちらりと見やると、彼は艶やかな笑みをこちらに浮かべたまま、否定する気は全くないようだった。ブレることを知らない竜だった。
「カリナ様がお亡くなりになってからデッドアッシュは心を閉ざし、ますます誰とも話さなくなりました。貴族遊戯では無言で向かってくる相手をズタズタに……ええ、私も身体中切り刻まれ軽く絶頂しました」
(普通の人は切り裂かれて絶頂はしません……)
内心で冷たく突っ込みつつ、私は先を促した。
「そうやって二百年近く、カリナ様のことばかり考えて狂乱していたデッドアッシュですが……今から八十年前、ゼファリオン様に強奪されました」
シロクマはどこから取り出してきたのか、果実水のおかわりを注いだ。
「……ゼファリオンに」
「えぇ。強奪した彼ともう一機の竜――ロボを使って、前の王家を滅ぼすために。他にも何機か強奪したそうですが、皆死にました」
シロクマの言葉に、私の頭の中で散らばっていたピースが音を立てて組み合わさっていく。
(……ゼファリオンに強奪された、ヴォルシュタインの二機の竜。ロボが話していた、かつて共に王家を滅ぼしたというもう一匹の戦友……それが、デッドアッシュ)
「私はグレイシャル家のシロクマゆえにゼファリオン様には加担しませんでしたがね」
「加担しない家が殆どだっただろう」
アイロンが蒸気を上げながら相槌を打つ。
「ゼファリオンはやってることがむちゃくちゃだった。何がしたかったのか、結局よくわからない」
アイロンのその言葉に、他人事ながら胸が痛んだ。
ロボが話してくれたゼファリオンの話を聞けば――少なくとも、ゼファリオンはただ無茶苦茶な男ではなかった。
「まぁ、ゼファレス殿下の時代で完全に竜は終わりやろうな」
「でしょうね。今のデッドアッシュは、ただ息をしているだけの壊れた道具。いずれすべての竜が、あぁして順次作り変えられるのでしょうね」
シロクマから無言で差し出された果実水を、私は機械的に受け取った。
冷たいグラスを握りしめながら、静かに息を吐く。
彼らが呪いだと恐れるそれの正体を、私はアシュレイから聞いている――デッドアッシュは命定改名の再接続の失敗による結果だ。
それは確かに竜種の名とその因果を歪めてしまうが、術者である主の肉体にも多大な代償を伴う両刃の剣である。
だからゼファレスとて、安易には使えないはずなのだ。
けれど、本質を知らない竜たちから見れば、見知らぬ魔法で名を弄ったとしか映らない。未知の恐ろしさを前に、彼らが未来に絶望し、諦観するのも無理はない。
セイデンキはすっと立ち上がり、背筋を伸ばしながらぼやいた。
「元々ワイら、貴族の道具やし。最近だとほら、スコット家あるやん。あそこのセンスなんかひどいもんやで。角にひび入って捨てられて、そのままどうなったか行方知れずや。せやから、こうして洗濯室で他愛もない会話ができてるってだけで、大往生なんやで」
「……そうだな。ここへ来て一ヶ月経つが、今が一番楽しいと思える」
(……ゼファリオンが掲げた夢を、この竜たちは知らないのだ)
私は、並み居る竜たちを静かに見渡した。
かつての王が何を成そうとしたのか。今の王太子が何を企んでいるのか。彼らは何も知らされず、ただ所有物として振り回され、すり減り、そして捨てられる。
だからこそ、死を待つだけのこの薄暗い洗濯室を、彼らは理想郷だと錯覚してしまっている。
なんという残酷で、哀しい世界だろう。
「ええ。終焉に向かうだけのこの場所に、女王様が現れてくださったことですし」
シロクマがうっとりと私を見る。
彼らの言葉の端々からは、逆らえない運命と死への諦観が滲んでいた。
「ふふ、女王様がこれから何をなさろうとしているのか――私はとても楽しみにしております」
私は敢えて何も口にすることはなかった。
救いの手は、正しい人間のぬくもりで出来ており――この手を血に染めようとしている者が差し出すものではないからだ。
「女王様、洗濯が完了しました」
ヒョウガが洗い立ての衣類が入った籠をすっと差し出してきた。
「ありがとうございます……」
やるせない気持ちのまま、私は籠を受け取った。
「せや、デッドアッシュとカリナ様の話を聞いて、ふと思い出したんやけど……」
セイデンキが、天井を見上げながら口を開いた。
「デッドアッシュとカリナ様の子って、今どこにいるんやろな? 生きとったら、まだ三百歳くらいやろ?」
――三百歳。
嫌な予感に、心臓の鼓動が早くなる。
たったひとりだけ、とてもごく身近に、三百歳の竜種がいる。
「……カグツチ」
私が呟くと、シロクマが何でもないことのように頷いた。
「はい。ついこの間、決闘で私を刺激的にこんがり焼いてくれましたよ。私達とは違い――随分と主との距離が近かった。竜種最後の子は人間に愛されて育っていたようですね」
私は、自分の手が震えているのを自覚した。
三百歳の火竜。
彼の父親が、あのデッドアッシュだという事実。
いつも無邪気に笑い、私の隣で美味しそうに甘味を頬張る温かいカグツチの姿と、先ほどすれ違った、生気のない灰色の亡霊の姿が頭の中で対比され――強烈な寒気が背筋を駆け上がった。
もし、ゼファレスを追い詰めた際にデッドアッシュが立ちはだかるとするのなら――カグツチに、父親と戦えと命じることになってしまうのか。




