47.優しい地獄
扉を開けると、部屋は静まり返っていた。
暖炉の火は燃えているのに、空気はひどく冷たい。
ソファの上、私が去った時と同じ場所に、カグツチはいた。
膝を抱え、大きな身体を限界まで小さく丸めて――まるで、嵐が過ぎるのを待つ子供のように。
私の姿を認めると、金色の瞳が揺れた。
けれど彼は動かなかった。「待ってて」という私の言葉を、呪いのように守り続けていた。
「――あ、」
私と目が合った瞬間、カグツチは弾かれたように顔を上げた。
瞬き一つ。たったそれだけで、表情が塗り替えられる。
先ほどの絶望や動揺を無理やり押し殺し、貼り付けたような明るさが顔面に浮かぶ。
「おかえり、早かったね。ロボとなにか難しい話でもしてた?」
その声は少し上ずっていた。いつもの軽口を再現しようとして、失敗している。
赤銀の髪の間から覗く白い亀裂が視界に入るたびに。目眩にも似た感覚に襲われた。
「……いえ」
私は喉の奥の震えを飲み込み、努めて平坦な声を返した。
「ロボウノイシが朝食をここへ持ってきてくれるそうです。食べて、少しでも元気を出しましょう」
「……うん! お腹空いた~。オレ長話苦手だからさ……甘い物もあると助かるんだけど」
カグツチは弾んだ声を上げると、慌ただしく動き出した。
テーブルの上を片付け、ソファのクッションの位置を整える。
その動作はきびきびとしていて、まるで優秀な執事のようだった。
けれど、その動きには明らかな意図が混ざっていた。
――彼は、決して私に右側を見せない。
私が動くたびに、カグツチは自然な動作を装って立ち位置を変える。
あの白い亀裂が、私の視界に入らないように。
鏡に映り込まないように。
自分が壊れかけであることを、私に意識させないように。
その必死な隠蔽工作が、私の胸をきりきりと締め上げる。
『ほら、オレなら平気だよ』『オレはまだ役に立つよ』
背中でそう叫んでいるのが聞こえるようだった。
私が気づかないふりをすることが、彼への最大の慈悲であり――同時に、彼を追い詰める毒になる。
それでも私は、仮面を被って微笑むしかなかった。
「……随分と手際がいいな」
扉が開く音と共に、不機嫌そうな声が降ってきた。
ロボウノイシだ。両手に大きな盆を持ち、湯気の立つスープと硬そうなパン、そして干し肉を運んできた。
「へい、お待ちどう。……毒見はしてねェから勝手にしろ」
彼は乱暴に盆をテーブルに置くと、私とは目を合わせずにドカッと椅子に座り込んだ。
その態度はいつも通りに見えるが、尻尾の先が落ち着きなく床を叩いている。
彼もまた、この空気の重さに耐えかねているのだ。
「え、また肉だ! さすが王族……氷の城じゃ肉は出てこなかったもんね、ルシア」
「そうですね……さすがのノエルさんも家畜は営んでらっしゃいませんでしたが」
「でも時間の問題じゃない? そのうち野生のうさぎを捕まえてきて繁殖させてノエル牧場作って……そんで真顔で屠殺してそう。どっせいって」
カグツチだけが、明るすぎる声を上げた。
彼は私の前にスープ皿を置くと、ふうふうと息を吹きかけて湯気を散らし、スプーンを丁寧に添えた。
「はい、ルシア。……熱いから気をつけてね」
「……ありがとうございます」
受け取ったスプーンが重い。
カグツチは自分の席に着くと、パンを手に取り、大きく頬張ってみせた。
咀嚼し、飲み込む。
竜種としての強靭な肉体は、命の器がひび割れていてもなお、正常に稼働しているらしい。
それが余計に、中身だけが空虚に死んでいく不気味さを際立たせていた。
「ん、これ結構いけるよ! スープも具だくさんだし」
カグツチは笑顔で感想を口にしながら、また私の世話を焼こうと手を伸ばしてくる。
水差しを取ろうとした私の手より早く、彼の指が水差しを掴んだ。
「あ、いいよルシア。オレがやるから」
「……カグツチ、自分でできます」
「いいって。ついでだからさ」
彼は手際よくグラスに水を注ぐと、満足げに目を細めた。
水面は少しも揺れていない。完璧な給仕だ。
けれど、その完璧さが、今の私には酷だった。
「……ッ、ごちそうさん」
ガタッ、と椅子が大きく鳴った。
ロボウノイシが、逃げるように立ち上がったのだ。
彼の皿には、まだ手付かずのパンが残っている。
「え? もういいの、ロボ? まだ残ってるよ」
「見てるだけで胸焼けがすんだよ。……俺は調べものがあっから書庫にいる。東棟だ。用がなきゃ来んなよ」
彼はそれだけ吐き捨てると、私に一瞬だけ視線を流した。
――あとは任せたぞ。
そんな無責任で、けれど切実な響きを含んだ目配せだった。
「食器、適当に下げておいて大丈夫?」
カグツチの声を無視して、重い扉が閉まる。
バタン、という音が、部屋の空気を再び断絶した。
あとに残されたのは、まだ湯気の立つスープと、私。
そして――壊れたことを隠そうと笑う、愛しい竜だけだった。
「……もう、行っちゃった。せっかちなんだから」
カグツチは肩をすくめて見せてから、すぐに私に向き直った。
その瞳が、次はなにをすればいい? と問いかけてくる。
「さてと。……ルシア、食後はどうする? 城の中でも探索する?」
「――カグツチ」
彼の提案を待ちきれず、私は言葉を被せた。
カップを持つ手が震えそうになるのを、必死に抑え込む。
温かい紅茶が、喉を通る時だけ熱く、胃に落ちると冷たい鉛に変わる気がした。
「大事な話があります」
カグツチの笑顔が、凍りついたように止まる。
ここからが、本当の地獄だ。




