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46.亀裂

 音は、部屋の空気を凍らせるのに十分だった。

 カグツチの腕の中で、私は息を止めていた。

 耳元で聞こえた、あの硬質な破裂音。それは幻聴などではない。

 氷の城で聞いた音と同じ――命の器が軋む音だ。


「……カグツチ」


 恐る恐る、名を呼ぶ。

 私を抱きしめる腕の力は、まだ強いままだ。

 けれど、その熱の中に微かな震えが混じっているのが分かった。


 私は強張る指先で、彼の腕をそっと押し返した。

 カグツチは抵抗しなかった。ゆっくりと身体が離れ、至近距離で視線が絡む。


 金色の瞳は、揺れていた。

 後悔に足を絡め取られ、膝が折れた者の目の色だった。


 そして――私の視線は、吸い寄せられるように、そこへ向かった。


 赤銀の髪の間から伸びる、白磁の角。

 その右側の根元に、一本。白い稲妻のような亀裂が、はっきりと走っていた。

 

「あ……」


 声が漏れた。

 見間違いようがない。それは、氷の城で見たセンスの角と、同じ傷跡。

 寿命などまだ先のはずの若い竜に刻まれた、死へのカウントダウン。


 ――いやだ。


 真っ白で、なにもないところに最初に浮かんだ言葉はそれだった。

 それは、ルシア・ヴァレットの解答としてはありえないものだった。


『そうやってお前らが人間ごっこをしてる間にも、その中途半端な慈しみがこいつを内側から焼き殺してんだ』


 私が彼に与えたのは、救いではなかった。

 後悔という名の残り火。守れたかもしれないというもしもの地獄。

 私の復讐心が、私の怒りが――私のいちばん大切なものを、いま、へし折ろうとしている。


「……チッ。マジかよ」


 静寂を破ったのは、ロボウノイシの舌打ちだった。

 見れば、黒竜はバツが悪そうに視線を逸らし、乱暴に頭を掻きむしっている。


「……おいルシア。なんなんだよ、そのデタラメな怒りの質量は。てめェ、そのちっこい身体のどこにそんな業火詰め込んでやがんだ……」


 その言葉は、彼なりの動揺だったのだろう。

 だけど、今の私にはその言葉さえ遠い。

 目の前にあるひびという現実だけが、私の思考を白く塗りつぶしていく。

 

 センスが空へ還った、あの美しい光景。

 あれが今、カグツチの未来として、確かな輪郭を持って私の喉元に突きつけられていた。


「……アシュレイ、どうするよ」


 ロボウノイシは不機嫌を隠さないままアシュレイに投げかけた。

 アシュレイは、ソファに座ったまま、冷ややかな瞳で私たちを見つめていた。

 その目に、驚きはなかった。

 ただ、壊れた機械の修理方法を思案するような――あるいは、答えを知っている教師が、愚かな生徒を見守るような目。

 

 ――番になれば、完全な個になる。

 ――番になれば、この欠落は埋まる。

 

 彼の言いたいことは分かっている。けれど、彼はそれを口にしなかった。

 アシュレイは静かに立ち上がった。


「……ロボ。あとは任せる。私がいるとややこしくなるだけだ」


 彼は私にかける言葉など持っていないと言わんばかりに、視線を黒竜へ移した。


「死なせない程度にフォローしてやれ。……私は王都に戻る。ゼファレスがどう盤面を動かすのか――まずそちらが優先だ」


「あァ? おい待てよ、俺に子守りさせんのかよ」


「お前の撒いた種だ。責任は取れ――では、また会えることを願っている。ルシア・ヴァレット、カグツチ」


 それだけ言い捨てて、アシュレイは踵を返した。

 名を呼ばれることすらなかった。その背中は、「ここから先は私の仕事ではない」と物語っていた。


 重い扉が開閉する音が響き、アシュレイの気配が消える。


「……チッ。あの野郎、一番めんどくせェところを俺に丸投げしやがって……」


 ロボウノイシの悪態だけが、寒々しい部屋に残された。


 離れたはずの腕が、再び――今度は拒絶を許さない強さで、私を引き寄せた。

 痛いほどに押し付けられる身体。

 まるで、酸素を失いかけた炎が、燃え移るための薪に必死で食らいつくように。

 カグツチがいまどういう感情でいるのか――私には分からなかった。

 例え甘やかな愛着などではなく、もっと切羽詰まった生存本能に近い渇望だとしても――彼が今、私を必要としている。

 それだけで、突き放すことなどできなかった。


「――カグツチ、角は痛みますか」


 彼の腕の中で問いかける。

 カグツチは私の肩に顔を埋めたまま、小さく首を横に振った。


「……ううん、痛くない」


「少し……ロボウノイシと話をしてきます。すぐに戻りますから、ここで待っていてくれますか?」


「……」


 私の背中に回されたカグツチの腕が、置いていかないで、と言いたげにぎゅっと強く締まる。

 言葉よりも雄弁な、拒絶と懇願。

 しかし、それからすぐに解放された。

 私を困らせてはいけないと、必死に理性を総動員したのだろう。


「……うん。待ってる」


 その従順さが、今はひどく胸を抉った。

 名残惜しむように触れていた指先が離れる。

 途端に忍び寄る冷気に身震いしそうになるのを堪えて、私は立ち上がった。


「行きますよ、ロボウノイシ」


「俺の意思はガン無視かよ」

 

 そう言いながらも、ソファから立ち上がるのだった。

 私はカグツチから視線を切ると、扉の方へと歩き出した。

 背中で感じる彼の視線が、痛いほど突き刺さる。

 けれど振り返らなかった。振り返れば、二度と動けなくなる気がしたから。


「なぁ嬢ちゃん。奴に気遣いのつもりなのかもしれねェが竜種は耳がいい。隣の棟にでも行かねェ限りちょっとは聞こえちまうぞ」


 応接室を出てすぐの廊下で、私は足を止めた。

 ロボウノイシは気怠げに石壁に背を預け、忠告してくる。

 ――昨日、議会の内容を語る彼ははっきりとこう言っていた。竜の聴覚舐めるな、と。カグツチに敢えてそれを聞いたことはないが――恐らく、カグツチの耳も良いのだろう。その事実は、今の私にとって好都合だった。


 私はロボウノイシに、カグツチには絶対に聞かせられないことを問わなければならない。

 もしカグツチがそれを知れば、彼は自分の身を案じて、あるいは私を案じて、全力で番になることを拒絶するだろうから。


「……いいのです。カグツチには聞かせたくない、と言う意図さえ伝われば」


「んじゃ、ここで構わねぇな。聞きたいことは大体察しが付いてる」


 その言葉に、私は首を横に振った。

 そして、わざと少し声を張る。扉の向こうにいるカグツチに、聞こえるように。


「あなたは、カグツチが私の怒りに当てられていると言いましたね。……私が、少しでもカグツチから距離を取れば進行を遅らせることは可能ですか?」


「……んまぁ、無意味じゃねェとは言わねェけどよ」


 ロボウノイシは「そんな話をしに来たのか?」と怪訝な顔をした。

 私は彼をじっと見上げ、畳み掛ける。


「別の部屋を使わせてください」


 それは、カグツチへの「別離」の宣言。

 そして――ロボウノイシへの「密談」の要求。


 私はロボウノイシを見据えたまま、声を出さずに唇だけを動かした。


 『そ・こ・で――は・な・し・が・し・た・い』


 ロボウノイシの瞳孔が、すっと細まる。

 私の意図――カグツチには聞かせられない話――という真意を、この黒竜が読み取れないはずがない。

 数秒の沈黙の後、ロボウノイシの口元がニヤリと歪んだ。


「……分かったよ。空き部屋は腐るほどある。好きに使え。とりあえず朝飯用意してやるから、部屋に戻ってろ」


 話はついた。

 私は一度深く息を吸い込むと、震える足を叱咤して、再び応接室の扉に手を掛けた。


 まずはカグツチに、残酷な嘘をつかなければならない。

 彼を救うための真実を手に入れるために。

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