48.竜と少女
貴族の仮面は、もうひび割れているけれど、それでも被らなければならなかった。
視線を合わせずに言う。
「今日は一日、別行動です。私は別の部屋を使います。夜もそこで寝ます」
「……」
カグツチが顔を上げた。
傷ついたような、捨てられた子犬のような目。
彼は自分の角に走った亀裂を庇うように手を添え、おずおずと口を開いた。
「なんで……? オレ、一緒じゃなきゃやだ」
「……頭を冷やしたいのです。それに、この城には部屋がたくさんあるのでしょう?」
「だ、だって……夜は冷えるよ? ルシア、寒がりなのに……オレがいないと……」
「大丈夫です」
私は彼の言葉を遮った。
大丈夫――その言葉が彼の心に深く突き刺さった感覚があった。
それでも、突き放さなければならない。これ以上、彼に優しくされたら、私はその場で泣き崩れて、全部台無しにしてしまう。
「……今日は一人にしてください。お願い」
最後は懇願になってしまった。
カグツチは何かを言いかけたが、私の頑なな態度に、唇を噛んで黙り込んだ。
「……うん、わかった」
カグツチの声は、小さく震えていた。
でも私は、振り返ることができなかった。
――ごめんなさい。ごめんなさい。
心の中で謝り続けながら、私は逃げるように踵を返した。
背後からカグツチの気配が消えるのを感じながら、私は部屋を出た。
廊下は、死んだように静かだった。
石造りの床が、靴底を通して冷たさを伝えてくる。
一度外に出て、山側の建物――東棟にある書庫を目指した。
外は憎たらしいほどの晴天だった。太陽の光が目に染みて、涙が零れそうになる。
東棟まで迷うことはなかった。
雪道に、私の足が二つ入りそうなほどの大きな足跡を辿れば、そこはもう東棟の入口だった。
開いた形跡のある大きな扉を引いてみるが――ビクともしない。
そうだった。ここは竜種の城。
何度か肩をぶつけてみたが、石造りの扉は冷たく沈黙しているだけだった。
指先に力を込めても、爪が白くなるだけでびくともしない。
――ああ、そうか。
これまで、私が道を塞がれることなんて一度もなかった。
歩みを止めれば、いつだって彼が先回りして、呼吸をするよりも自然に道を開けてくれていたから。
私が開かないと知ることすら、彼は許さなかったのだ。
その事実に気づいた途端、視界が酷く歪んだ。
扉に額を押し当て、熱を奪われていく感覚に耐える。
突き放したばかりの熱が、もう恋しい。
「……なに遠慮してんだ。もっとガンガン叩けよ、気付かねぇだろ」
頭上から、地響きのような声が降ってきた。
見上げれば、大きな扉が音もなく内側へと吸い込まれていく。
逆光の中に立つ黒い影――ロボウノイシが、面倒そうに鼻を鳴らしていた。
「さっさと入れ」
「……感謝します」
私は掠れた声を絞り出し、逃げ込むように書庫へと足を踏み入れた。
一歩入れば、そこは奇妙な光景だった。
天井まで届く本棚、無数のスクロール、そして部屋の中央には巨大なデスク――書庫のはずなのに、かと思えば窓際にはベッドが置いてある。
個室なのか、書庫なのか……具体的に何をする部屋なのかは分からなかった。
けれど、カグツチのいた部屋のような温もりは、どこにもない。
ロボウノイシは重い扉を閉めると、私を一瞥もせず、奥にあるデスクから椅子を引き出し、どかっと腰を下ろした。
「元々書庫だったんだがいまはアシュレイの部屋代わりだ。今日はここを使え。安心しろ、アシュレイは殆ど椅子に座ったまま寝てっから、ベッドは未使用だ」
暖炉の中では煌々と薪が燃えている。
その隅には恒暖石が置いてあった。
「これだけ部屋が離れてりゃカグツチに会話は聞こえねぇよ。で? 何から聞きたい?」
その言葉は、研ぎ澄まされた刃のように私の喉元に突きつけられた。
「聞きたいことはたくさんあります。まず――なぜ、今になって亀裂が入ったのですか」
「器の限界だ。あいつは元々、お前という外付けの怒りの熱にずっと当てられてたわけだろ。そこへ俺が与えた精神的なショックという内圧がかかった。外からの熱と内からの圧――つまり耐えきれなくなった器が、内側から爆ぜた。――要は熱々のガラスに俺が冷水ぶっかけちまったってわけだな」
そう言い終えると、バツが悪そうにため息をついた。
「……そこに関しては悪かったと思ってる」
今更ロボウノイシを責めるつもりはない。
なぜなら、彼は指摘していた――その当てられ続けた熱量が異常のせいだ、と。
ふと、ある事実に思い至る。
思えば、カグツチの角が悲鳴を上げたあの瞬間、アシュレイだけは一度も取り乱さなかった。
復讐の要であるはずの最強の駒に、死の宣告が下ったというのに。
焦りも、嘆きも、塵ほども見せなかった。
――それはつまり、彼にとっては想定の範囲内だったのだ。
壊れたなら、直せばいい。
そのための部品なら、目の前に転がっているではないか。
アシュレイのあの冷徹な沈黙は、私という人間がそれを選ぶのを、ただ冷ややかに待っていたのだと思い至り、背筋に氷の楔を打ち込まれたような戦慄が走った。
「……番になれば、カグツチは助かるのですね」
私は確信を持って問いかけた。
ロボウノイシは、酷く投げやりに答えた。
「カグツチが怒りを得るってことは、内側に溜まった怒りを排出出来るってことだ。完全な個になりゃ器も元通りだ。あいつ側には、お釣りが出るほどのメリットしかねェよ」
ロボウノイシはそこで言葉を切り、椅子の背もたれに深く体重を預けた。
卓上に置かれた彼の爪が、苛立ちを隠すようにコン、と硬い音を立てる。
「その時――私はどうなるのでしょうね」
「まぁ、そうなるよなァ……」
ロボウノイシは椅子に座ったまま天を仰いだ。
「分かんねぇ。そもそも、俺は竜種同士だって番を見たことねぇしな……」
「ロボウノイシ……あなた、いくつなのですか?」
「おいやめろフルネームで呼ぶな。俺は八百歳だ」
「では、これからはそのように改めますわ」
私は本棚を見回した。
これだけ本があるなら、必ず”あの本”はここにある。
目を凝らすと、見覚えのある装丁が目に入った。
「――ロボ、そこの本棚の下から五段目、右から三番目の本を取って頂けますか」
ロボは首を傾げながら振り返り、天井まで伸びた本棚を見上げた。
気だるそうに立ち上がり、手を伸ばすと一冊の本を取り出し、私に差し出した。
「――とある竜が、言っていました。竜と人間の番なんて、神話の中の物語のはずでした、と」
手に馴染む重さ。見慣れた装丁を指でなぞる。
もう何度も見たその本――そのページへ、私は迷うことなく辿り着く。
幼い頃、アルトと読み合ったあの一節。
あの頃は、ずっと一緒という意味だと思っていた優しい言葉。
『我が命を臓器と成せ。君が心を燃やす限り、我は無に還らん――』
「これは、神話ではなかったのですね」
巨大な翼を広げた竜と、対等に隣り合う少女――何度も繰り返し目に焼き付けてきた、その絵。
「これがいつの話の事なのかは分かりません……ですが、恐らく――番になった後、私が取り込まれて消える可能性は低いと思っています」
「でもな、歴史書なんていつだって嘘ばっかりだ。人間にとって都合のいい事しか書かれてねェ」
ロボの言葉に、私は静かに首を横に振った。
「……ええ。確かに歴史書は、あなた達の心については嘘ばかりでした。痛みも、寒さも感じない道具だと」
私は開かれたページの端を指で撫でる。
「ですが――構造については、間違っていませんでした」
アシュレイは言った。竜種は進化の袋小路にあると。
あの記述だけは、残酷なほど正確だった。
「歴史書が機能について嘘をつかないのなら――この絵もまた、真実のはずです」
見慣れたページ。何度も見てきた竜と少女の絵。
「アシュレイ様は言いました。番とは完全な個に至るための機能統合だと。ロボも言っていましたね――私はカグツチの臓器だと」
竜と少女の絵を指でなぞった。
「臓器とは、竜が持っていないもの――怒りです。番になるとは、てっきり私を取り込むものだと誤認しておりましたが――私の持つ怒りをカグツチに灯すと言うことでしょう? そうすればカグツチは、自分自身の怒りを持ち、それを自在にコントロールできるようになる。完全な個として」
私はページを開き、彼に見せる。
「『我が命を臓器と成せ。君が心を燃やす限り、我は無に還らん』――私の怒りがカグツチに灯り続ける限り、カグツチは完全な個として存在し続ける。そして私は、怒りを灯した者として、竜の隣に立ち続ける」
そこには、竜に取り込まれることなく、対等に隣に立つ少女が描かれている。
「その証拠に、少女は竜の隣に立っています。取り込まれて消えたなら、この絵には描かれていないはずです」
私は小さく息を吸い込み、顔を上げた。
「私は消えません」
私の迷いのない断言に、ロボは虚を突かれたように目を丸くした。
「アシュレイ様の言い方からすると、それ相応の代償はあるのでしょう。自分自身という個に執着しなければ、という言葉の真意まで図りかねますが――恐らく人ではない何かになるのは確かでしょうね」
本を閉じ、表紙を指でなぞった。
「私という意志が残り、ゼファレスの首を討てるのであれば構いません」
数秒の沈黙。
ロボウノイシは、値踏みするように目を細めた。
「……お前の行動原理はそこなのか? あいつへの愛じゃなく、復讐かよ」
「カグツチを壊したのは私の責任です。彼に死んでほしくない――それは本当です」
私は一度目を伏せ、そして静かに告げた。
「復讐とは――誰かを殺しても良い大義名分ではありません。復讐を終えた後に残るものなんて何もありませんよ。私の人生は、ゼファレスを殺した瞬間に終わります。……ならば、その過程で人間を辞めることなど、些細なことです」
ロボは口元を引き結んだ。
「……お前、復讐が終わったら死ぬつもりか」
「……」
私は本を見つめた。
ここはカグツチから遠く離れた別の棟だ。ここならカグツチの耳に私の言葉が届くことはないだろう。
だけど――なぜだか、その先を言葉にするのが憚られた。
もしも肯定したら――カグツチはきっと拒否する。あの空き別荘で私の意思を否定したあの日と同じ瞳で。
「――とにかく、今はカグツチを救うことを優先しましょう」
ロボは一瞬、何かを噛み殺すような顔をした。それは、どうしようもない哀れな生き物を見る目だった。
「……チッ。逃げんなよ、クソガキが」
ロボは舌打ちしたが、それ以上は追及しなかった。
「……アシュレイは番になった人間がどうなるかなんて知らねェよ。でも俺はな、そういうイカれた覚悟を見ると放っておけねェんだよ。名が変わっても変わんねェな……俺は」
やがて、彼はふんと鼻を鳴らし、呆れたように、けれどどこか懐かしむように目を細めた。
「その絵は可能性じゃねェ。……歴史だ」
ロボは低い声で告げた。
「ヴォルシュタインについて話しておく。……竜と人間――神話のその後の話だ」




