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45.焦熱の鏡像 後編

「おい、わかってんだろ」


 至近距離で、ロボウノイシの声が低く響いた。

 再び胸倉を掴み上げたまま、逃げ場のない距離で金色の瞳がカグツチを射抜く。


「その怒りはまだ、テメェのモンじゃねぇ」


 カグツチの喉が、引きつったように鳴る。

 図星を突かれた者の反応だ。

 ロボウノイシはそれを見逃さず、さらに言葉のナイフを深く突き刺す。


「テメェは、一番見なきゃなんねェもんから目を逸らしてるだけだ」


「……なにを、言って」


「向き合えよ。――そうすりゃ、テメェはその怒りを出力せずにはいられなくなる」


 予言めいた言葉と共に、ロボウノイシは乱暴に手を離した。

 カグツチの巨躯が、ドカッとソファに沈み込む。


 咳き込むカグツチ。

 けれどその目は、怒りよりも動揺に揺れていた。

 ロボウノイシが何を言おうとしているのか、本能的に悟って怯えているようにも見えた。


「……ロボ、暴力的なやり方には賛成出来ない。座れ」


 アシュレイが咎めるが、ロボウノイシは鼻で笑ってカグツチを見下ろしたままだ。


「あァ? 昨晩、番の成立は優先事項だっつったのはどこの誰だよ。……こいつに自分を自覚させるにゃあ、荒療治しかねェんだよ」


 そう吐き捨てると、ロボウノイシはカグツチの正面――テーブルの上に、行儀悪く腰掛けた。

 見下ろす視線は、教育者というよりは、獲物を追い詰める捕食者のそれだ。

 私が止めに入る隙など微塵もなかった。

 一言でも発せば、ロボウノイシは確実に私を止めに来ると言う確信があった。


「テメェ、飼い主が死んだにしては、随分と顔色がイイなァ?」


 言葉が落ちた瞬間、胸の奥でかすかに反響した。

 それは、もっとも嫌なものだという確信があった。


 ――身に覚えのない汚れを、突然塗りつけられたような感覚。

 

 ロボウノイシの唇の端だけが上がる。


「お前――あの日、ゼファレスの前でなんて言ったか覚えてねェのかよ」


 黒竜は続ける。

 その目には、苛立ちと――それ以外の何かが混ざっている。

 まるで、カグツチの反応を待っているような。


 カグツチが、隣でわずかに息を吸ったのが分かった。

 紅い尾の先が、床の上でほんの少しだけ動く。

 カグツチは静かだった。しかしそれは内側で炎が燻っているだけの沈黙で、いつ発火するか予想ができないものだ。


「俺に羽交い締めにされた時、ゼファレスに言われただろ。「主を捨てて俺を選べ」って」


 黒竜は続ける。


「お前があン時、ゼファレスに従ってりゃ――」


 ここは室内だ。なのにロボウノイシのその言葉が、あの日の広場の色を連れてくる。

 見えているわけじゃないのに、視界が赤く染まるようだった。

 呼吸が短くなるのが自分でも分かった。


「主と離れることになってもよォ。お前の大事な主は死ななかったんじゃねぇのか、って言ってんだよ」


 言葉が、床に落ちた。

 金属みたいに硬い音がした気がした。


 ――なぜ、今このタイミングで。


 ロボウノイシの意図が読めない。

 怒っているわけではなさそうだ。むしろ、何かを確かめようとしているような。


 ――アルト。

 広場。血の匂い。群衆のざわめき。

 あの笑み。王の笑み。


 思考が勝手に、その一本道を辿ろうとする。

 従っていれば。

 従うふりをしていれば。

 頭を下げていれば。

 何も言わなければ。


 ――彼は、死ななかった?


 胸の奥で、何かが潰れる感覚。

 でも――でも、それは可能性の話だ。

 戻ることのない過去の話であり、いま掘り返す話ではないはずだ。

 大丈夫、私はまだ立っていられる。


 それでも――あの日、あの場所で――私は何があったのか、何一つ知らないと言う事実だけは残っている。

 カグツチは何も言わないし、私も何も聞かなかった。

 聞く余裕がなかったと言えばそうなのだけれど――聞いてはいけない気がした。


 だって、恐らくあの頃のカグツチには怒りがなかった。

 だから聞けばきっと、怒りのない声で言っただろう――「アルトはもういない」と。


 それを聞けば、それでも怒り続ける自分がただ醜いだけになる。

 そして、その瞬間にアルトが二度死ぬことになる。

 それだけは、どうしても耐えられなかった。

 だから何も聞かなかった。


 黒竜はカグツチを真っ直ぐに見据えたまま続けた。


 カグツチの尾が、無意識に私の指先に触れていた。

 いつもより重い触れ方だった。

 私は反射的に、カグツチへ目をやった。

 さっきまでのふざけた顔が消えている。

 表情の読めない瞳――私の理解の外側にいた。


「だからあの日――オレを羽交い締めにした後、部屋から出さなかったわけ?」


「あぁ。炎の名を持つ王様に、火竜がいねぇのは格好がつかねぇ。だからゼファレスはお前を無理やり奪うことにしたってわけだ」


 カグツチが、ゆっくりと上体を起こす。

 ソファに沈んでいた巨体が起き上がるだけで、部屋の空気が一段重くなる。


「しょうがねぇだろ、ゼファレスサマの命令に逆らうと後が怖えんだよ」


 悪びれた様子もなく、黒竜は言い捨てた。


 ――その瞬間、カグツチの尾が、私の指先からすっと離れた。


 触れていたはずの熱が消えたのに、皮膚の裏だけがじんと残る。

 嫌な予感がした。

 あの日と同じだ。群衆のざわめきの中で、彼の声だけが妙にはっきり聞こえた、あの瞬間と。


『今朝いきなり近衛兵に連れてかれてさ、オレだけ閉じ込められたと思ったら、そこの黒い竜に羽交い締めにされて……』


 頭の奥で、当時の言葉が反響する。

 私はあの時、カグツチの顔を見られなかった。

 見れば、現実になってしまう気がしたから。


 けれど今は、見てしまった。


 カグツチから笑顔が消えていた。

 いつもの軽い口調を乗せるための口元だけが形を作っていて、目が――目だけが、ロボウノイシを獣みたいに捉えて離さない。


「……あ、れ」


 カグツチが呟いた。

 その言葉はとても軽いのに声は低い。冗談の皮を剥いだ鉄みたいな音だった。


「あれ……オレ……あの日――そうだ……なんで、アルトを、追いかけなかったんだろう」


 黒竜の眉が、わずかに動く。

 それは焦りに見えた。


「閉じ込められても、羽交い締めにされても、そういうものかって……思った。アルトが別室にいるって聞いても、そこに行くって発想が――なかっ、た」


 私は息を止めた。

 言葉の隙間から、当時のカグツチの表情が透けて見える気がした。悪いことをしてしまった子どもみたいな顔。何が起きているのか分からない顔。


「だって、待っててって、言われたから――」


 しかし、次の瞬間そこにあったのは――あの時のカグツチではなかった。


「そっか……オレ、アルトのこと――守れたのに、守れなかったんだ」

 

 カグツチの声が震えていた。

 目には後悔が滲んでいた。


「……へぇ」


 ロボウノイシが、喉の奥で笑った。

 相手を小馬鹿にする笑い方。けれど今は、逃げ道を探す音に聞こえた。


「今さら気付いたってか。優しい飼い主様だったのにな」


 カグツチの尾が、床を撫でた。

 音はない。

 しかし空気の密度だけが確実に変わった。


「――お前がアルトを語るなよ」


 言い返す声は低く、静かに響いた。

 私の知っているカグツチの軽さが、言葉の表面だけに薄く残っているだけで――それはカグツチではなかった。


「あの時……お前がオレを羽交い締めにしなければ」


 短く息を吸う。

 その吸い方が、泣きそうな人間のものに似ていた。


「お前が、オレを部屋に閉じ込めなければ……」


 言葉が途切れる。噛み砕けない何かが、喉に引っかかったみたいに。


「……なんだよ、その目」


 黒竜が笑いを消しかけて、舌打ちまじりに吐いた。

 ――あの目は、何かを確かめた後の顔だ。

 ロボウノイシは、予想外の何かを見つけてしまったような表情をしている。


「――命令だっつったろ。あの場で逆らえってのか?」


「――命令」


 カグツチが、同じ単語を繰り返した。確かめるみたいに。

 次の瞬間、言葉の意味が変質する。


「……命令なら、何してもいいことになるのか」


 それは質問じゃない。

 自分自身に刃を向けながら、その痛みを他人へ転嫁しようとする――悲痛な八つ当たりだった。


「ねぇ、ルシア」


 カグツチの尾が、ぴたりと止まる。

 止まったまま、ゆっくり持ち上がる。熱が、遅れて追いつく。


「こいつ、壊してもいい?」


 その言葉のすぐ後に――部屋を覆い尽くすような夥しい(おびただ)質量の殺気が広がった。

 呼吸一つで首が飛ぶような緊張感に、本能が警鐘を鳴らす。

 ロボウノイシも、アシュレイも、完全にこの殺意に飲まれていた。

 それなのに、私は彼から目を逸らせなかった。

 名前の響きが優しいままなのに、そこにいつもの温かみは感じられない。

 触れたことのないカグツチが、私を呼んでいる。


 息を呑むことさえ許されない瞳の冷たさに、ソファに爪を立てた。

 私が頷いた瞬間――ロボウノイシはいなくなる。その予感だけが明確に絵になった。


「……なりません」


 私の声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。

 カグツチがロボウノイシを壊しても、私たちの渇きが癒えることはない。

 それはただ、戦力を無駄に損なうだけの合理性に欠ける行為だ。

 カグツチの尾が、行き場を失った熱を孕んで空を切る。


「……うん」


 カグツチの声が苦しげに軋んだ。

 分かっている。分かっていてなお、振り上げた拳の落とし所を見失っている子どものようだ。


「でも、こいつがいなければ……こいつが邪魔さえしなければ、アルトは死ななかった」


 カグツチの声が、まるで迷子の子どものように彷徨っていた。

 けれど目だけが違う。熱ではなく、底冷えのする暗さで――獲物を数える目だ。


「……カグツチ」


 名を呼ぶ。声が震えないように、喉の奥で一度噛みしめてから。


「それは、違います」


 優しく言おうとしたのに、言葉の芯だけが勝手に硬くなる。


「アルトを――奪ったのは、ロボウノイシではありません。あの男です」


 カグツチの尾が、ぴたりと止まった。

 止まったまま、行き場を失った怒りが、空気の中で軋む。


 私はそっと、カグツチの手の甲に触れた。

 その熱さは、背中に乗せてもらって運んだ時のぬくもりとは程遠い。

 単純に怖かった。――握ったら、私の方が焼けてしまいそうで。


「あなたがいま感じているものは、きっと……怒りと後悔です」


 カグツチの手を血で染めることはしたくない。それでも、正しい怒りを持っていてほしい。

 ひどい矛盾だった。

 怒りに正しさなどありはしないというのに。


 指先に力を込める。

 伝わる温度は火のように熱い。それでも離れたいとは思えなかった。


「ロボウノイシを壊しても、アルトは戻りません」


 その言葉を私が紡ぐことがどれだけ矛盾したものであるか――カグツチは気付いているだろうか。

 どれだけ矛盾していても、言わなければならなかった。そうでなければ彼の心は壊れてしまう。そんな気がした。


 カグツチの喉が鳴った。

 泣きたいのに泣けない、獣の呼吸。


「……オレ、守れたのに」


 その声が、やっと今の痛みを連れてきた。

 カグツチの声は震えていて、私も鼻の奥がつんと痛くなる。


「……ええ」


 否定しない。否定したら、また彼は分からないままに戻ってしまう。


「守れたかもしれない。……だから苦しいのですね」


 私はもう一度だけ、カグツチの手に触れた。

 カグツチに向けた言葉だったはずなのに、私の胸に刃先が刺さる。


「……私も同じです。守れたかもしれないと、毎日思っています」


 言った瞬間、自分でも驚くほど静かな声が出た。


 カグツチの肩から、力が抜けたのが分かった。

 怒りで膨れ上がっていた輪郭が、急にしぼんでいく。

 戦うための筋肉が緩み、あとにはただ、行き場のない喪失だけが残った。


「……ルシア」


 名前を呼ばれた、その直後だった。

 カグツチの瞳から、すっと色が抜けたように見えた。


 次の瞬間――ぐらり、と。

 隣に座っていた巨大な質量が、音もなく視界いっぱいに倒れ込んできた。


「え……っ」


 支えようと手を伸ばすより早く、熱い塊が私にのしかかる。

 どさりと重い音がして、私はソファの背もたれと彼の身体の間に押し込められた。

 抱きしめられたのだと気づくのに、数秒かかった。

 強い力だった。骨が軋むほど強く、私の背中に腕を回し、顔を私の首筋に押し付けてくる。

 まるで溺れた人間が、唯一の流木にしがみつくような――必死で、痛々しい強さ。


「……あぁ……くそ……」


 耳元で、カグツチの声が震えていた。

 熱い。身体が触れ合っている面積から、炉のような熱が流れ込んでくる。

 人間なら火傷しそうなほどの体温。けれど今は、その熱がひどく頼りなく震えている。


 守れなかった。

 その事実が、今になって彼を焼いているのだ。

 空白だった場所に後悔という名の火が灯り、熱くて、痛くて、どうしようもなくて――私に縋るしかできない。


 私は戸惑いながらも、背中に回された腕の上から、そっと彼を抱き返した。

 大きな背中だ。私なんかよりずっと強くて、分厚い。

 それなのに、私の腕の中で彼は小さく縮こまっているように感じた。


「……大丈夫。大丈夫です」


 彼の背中を撫でながら、私はふと思い出していた。

 王都を追われ、この辺境へ向かうまでの長い道中――カグツチは一度も、アルトについて言及しなかった。一度名前を口にしかけて、止めたのだ。

 私はそれを、私への気遣いだと思っていた。

 私を傷つけないために、彼はあえて悲しみを押し殺してくれているのだと――そう信じることで、私は彼という存在に甘えていた。


 ……けれど、本当は違っていたのだ。


 あの時の彼には、向けるべき怒りが最初から存在していなかった。

 機能として私に寄り添い、構造として私を運んでいただけの、竜種と言う怒りを失った生物。

 でも、もう断言できる。

 これは構造じゃない。


「……アルト。アルト、ごめん……」


 震える声で彼の名を呼ぶこの熱を、私は知らなかった。

 ずっと隣にいたはずなのに。

 私はいま初めてカグツチという心に出会っている。

 そして、出会うと同時に私は彼に後悔という名の地獄を与えてしまったのだ。


 赤子をあやすように、背中を撫でる。

 ごつごつした背骨の感触。指先に触れる服の生地越しに、彼の鼓動が直接響いてくる。

 私たちには、埋めなきゃいけない穴が空いている。

 それはきっと、誰かを壊しても埋まらない。

 こうして互いの傷口を塞ぐように、熱を分け合うことでしか誤魔化せない。


 しばらくの間、部屋には私たちの衣擦れの音と、カグツチの不規則な呼吸音だけが響いていた。


 私は顔を上げ――そこで初めて、目の前に座る黒竜とアシュレイが息を殺していることに気づいた。


「…………」


 いままで完全に無視された形のロボウノイシが、虚空を見つめたまま固まっていた。

 居心地が悪そうに、枯れ枝のような尻尾の先だけが床をぺち、ぺち、と叩いている。


 ――その顔には、苛立ちと同時に、明確な戸惑いが浮かんでいた。

 まさか、これほどまでに奥深く、カグツチの空虚を抉り、燃え上がらせてしまうとは思わなかった、というバツの悪そうな表情。

 ロボウノイシは、自分と同じ怒りの衝動を理解できるからこそ、その余波がどれほど危険なものか、そして自分自身にすら及ぶ可能性に、一瞬「やりすぎた」と恐れたのだ。


「……ロボウノイシ。カグツチに後悔を植え付けることが、あなたがやりたかったことだと言うのですか」


 私の静かな糾弾に、黒竜は気まずそうに視線を逸らした。


「……チッ。計算違いだ。……ここまで脆くなってやがるとはな」


 それは、彼なりの最大級の動揺だった。

 ロボウノイシは助けを求めるように隣のアシュレイを見るが、アシュレイは「自分で撒いた種だ」と言わんばかりに冷ややかに首を傾げるだけだ。

 彼は乱暴に頭を掻きむしり、何か言い訳をしようと口を開きかけた――その時だった。


 その焦りがこの空気に伝播するよりも早く。


「……っ、う、あ……!」


 カグツチが小さく唸り、私の服を強く掴んだ。

 すぐ耳元で――ぴし、と。

 何か硬いものが、内側から弾けるような乾いた音がした。

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