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30.優しさの番人

 私はわずかに姿勢を正した。

 眉間に寄ったしわを整え、貴族の仮面を被る。

 カグツチは相変わらず座ることなく、私の背後に立っていた。


 この男――アシュレイに対して、今はノエルの「友人」という言葉だけが私を踏みとどまらせている。

 逃げられない状況だけは作らせない。

 この氷の城という安息地が血に染まることだけはあってはならない。

 彼女の竜が守ろうとしたこの平穏は、決して奪わせない。


 温室のじゃがいも畑の葉が、光を受けてきらめいた。


「ノエルには伝えていないのか。王都でのことを」


 冷たい声に身構える。

 だが、ノエルの名を呼ぶ響きには熱がこもっていた。


「……やはり、分かっていて黙っていたのですね」


「――いますぐこの城を去れ」

 

 アシュレイの口ぶりは唐突だったが、まるで思考を読まれたような気配を感じた。


「彼女を巻き込むな」


 その声色だけ、やけに熱がこもっていた。

 私は一歩も引かず、視線だけを静かに合わせた。


「ノエルさんを巻き込むつもりはありませんわ。けれど城を出た瞬間に拘束される――そういう可能性もあるのでは? なら、この城から出ないのが安全ですわね」


「……ノエルを盾にする気か?」


「いいえ。信用に足る確約が欲しいだけですわ」


 アシュレイは一瞬だけ口を噤んだ。

 視線が、私の背後――ノエルが出ていった扉の方へ流れる。


 温室に流れ込む風が、じゃがいもの葉を揺らす。

 そのわずかな音が、沈黙を際立たせていた。


「……君は、信用しないな」


 責める調子ではない。

 観察するような声だった。


「当然ですわ」


 即答する。


「ヴォルシュタインの人間が私を見逃す理由がありませんもの」


 アシュレイの眉がわずかに寄る。

 苛立ちではなく――焦りに近い。


「なら、どうすれば信じる?」


「あなたがご自身で考えた、その答えこそが私は欲しいのですが」


 問いは短い。

 しかし、その奥に滲む感情は先ほどまでと明らかに違っていた。


 それ以上、私は言葉を発さない。

 沈黙の中で、アシュレイが小さく息を吐く。


「……私がこの城に来たのは、ノエルの様子を見に来ただけだ」


 低く、抑えた声。


「センスが長くないと聞いていた。だから定期的にここへ来ていた。……ノエルのためだ。嘘じゃない」


 その名を呼ぶときだけ声が揺れた。

 私はその揺れを見逃さなかった。


「……守りたい、と?」


 探るように問い返す。


 アシュレイは否定しなかった。


「……それ以外に、何がある」

 

 私は言葉を返さず、しかし視線は外さなかった。

 逃げる気配も、譲る素振りも見せない。


 アシュレイは小さく息を吐いた。

 その仕草は、どこか迷いを含んでいた。


「……信用に足るかはわからない。しかし私に証明できるのはこれだけだ」


 そう前置きしてから、彼は懐に手を入れる。

 だが、すぐには取り出さなかった。

 一瞬だけ指が止まり、ためらいが走る。


 それを見て、胸の奥が僅かにざわついた。


「これは――本来、他人に見せるものじゃない」


 低く言い、ようやく一冊の小さな本を取り出す。

 革張りの表紙は擦り切れていて、何度も開かれた痕があった。


 彼は私に向けて差し出すのではなく、静かに机の上に広げた。


 次の瞬間、視界に流れ込んできたのは――


 笑うノエル。

 本を読むノエル。

 髪を結ぶノエル。

 雪の中で振り返るノエル。


 どれもが、作られた肖像ではない。

 「生きている時間」そのものを切り取ったような鮮明さだった。


「……記憶写真」


 思わず零れた声に、アシュレイは頷く。


「ああ。君の言う通りだ。集中も覚悟もいる。一枚出力するだけで、何日も寝込むこともある……何年もかけて、少しずつ増やした」


 ページが静かにめくられる。

 そこに並ぶのは――すべて同じ女性。


「彼女は私の全てだ。だからこそ、危険を連れてきてほしくない」


 視線が、私へ戻る。


「君たちを捕らえる気はない。本当だ。しかしこの城に火種を残すこともしない」


 私は本から目を離せずにいた。

 警戒は、まだ解けていない。

 けれど――


 この男が軽い気持ちでここに来たのではないことだけは、否応なく理解させられていた。

 

 しかしそれよりも――目の前の涼しい顔の男が、万人が扱えない魔道具をノエルのためだけに使いこなしている。その事実が、私の思考を乱した。

 それだけで、もう私の理解の外だった。


「――さて」


 私が息を吸うより先に、カグツチは私の背にぴたりと寄った。

 いつでも逃げ出せるように、というところだろう。


「出ていってもらう前に一つ、提案がある」


 アシュレイは肘を卓に乗せ、淡々と告げた。

 その顔に、やましさも得意げな様子もなかった。

 ただの事務連絡のように、現実を突きつけてくる。


「ルシア」


 ――空気が凍った。

 背筋を撫でる、鋼のように硬い声。

 

「オレはそいつを信用しない。ノエルには悪いけど、今すぐ出よう」


 先ほどまでのざわめきが嘘のように場が静まり返る。

 それは既に決定された事実のように響いた。

 ノエルの名を出したのは、彼なりの気遣い。


「大丈夫。外に誰かいてもオレならどうにか出来るよ」


 しかしその言葉の底にあるのは、容赦しないという明確な意思だった。


 アシュレイが、ゆっくりと手を上げた。

 

「……待て」

 

 目を伏せ、しばし沈黙。

 何かを天秤にかけるように考え、やがて顔を上げた。

 真っ直ぐに、私とカグツチを見る。

 

「私はゼファレスの兄だ。だが、討つつもりでいる。――ただ、それはいずれの話だった」


 アシュレイの瞳が嘘を言っているようには見えない。

 そのまま続けた。

 

「計画も、人も、資源も……まだ整ってはいない。だが、重要な鍵が二つ、同時に揃っているとなると……」


 テーブルの上で、アシュレイは手を組んだ。

 やがて一拍、間を置く。

 その瞳がゆっくりと細められる。

 

「……今こそ、動くべき時なのかもしれないな」

 

 アシュレイの視線は、静かに私へと向けられた。

 

「共闘のご提案でございますか? あなたを信頼に足る方だとは到底思えませんわ」


 気位を崩さず、私はきっぱりと告げる。

 しかし、彼が未だに私たちを捕らえる動きを見せないということは――嘘は言っていないのだろう。


「拘束しないと約束してくださるなら、私たちは即座に退きます。ノエルさんのお顔を潰すのは本意ではありません」


「――ルシアがそうするならオレもそれに付き合う」

 

 アシュレイが何か言いかけた、その瞬間。

 その言葉は、最後まで形にならなかった。


「おまたせしましたわ〜!」

 

 ノエルの声が割り込んだ瞬間、彼のために空けられていた椅子にカグツチは無言で腰を下ろした。


「本日は特別に、お茶請けに揚げた芋を薄くスライスしたものをご用意しましたの! 見た目は歪ですが、お味の方は――美味しいですわ!」

 

 カツッと皿が置かれ、カリッと乾いた音が響く。その瞬間、張り詰めていた空気が音を立てて崩れた。

 

「なんだこれ」


 ノエルが席につく。

 夢中で皿の上の揚げた芋を見つめるカグツチの様子はまさに大型犬そのもの。ぱたぱたと尻尾まで揺れている。

 先程までの警戒が嘘のようにためらいなくつまみ上げ、口の中へ放る大型犬――ではなく、竜種。

 

「うま……っ! でもこれ塩じゃなくて砂糖振ったら、もっと美味いんじゃないか?」


「この美味しさがわからないなんて、センスといい竜種はほんとバカ舌ですわね……」

 

 皿の上で、芋の薄切りがカサカサと鳴る。

 ノエルは紅茶のカップを胸に抱え、ふわりと笑っていた。

 穏やかで、少し寂しげで、それでも幸せそうな笑み。

 この瞬間が続けばいい――そんな顔だった。

 

 アシュレイはそんなノエルを静かに観察しながらも――その視線には隠しきれない熱がこもっている。

 先ほどの言葉が嘘なら、その瞳はもっと冷たいはずだ。

 しかし――この男が一人で来たとは限らない。護衛が遅れて入ってくる想像を、私は捨てきれなかった。


 ――それでも、私は心のうちの刃をそっと手放した。


 もう充分。これ以上は切り込まない。

 アシュレイを信じたわけではない。

 いま、私がここですべきはノエルの平穏を守り抜くこと。

 もう、ここにはいられないとしても。

 

 カグツチは、完全に芋に夢中だった。

 ぴたぴたと尻尾で床を叩き、残っていた一枚を摘み上げて――ようやく、アシュレイを横目で見る。

 竜の目が、ほんの一瞬、細まる。

 それは殺気ではない。

 ただ、何かあれば即座に殺せるという上位種族の瞳。

 カグツチにとってアシュレイは、「私が敵だと分類していない」。ただ、それだけだった。


「……これ、意外とクセになりますわね。カリカリしていて」

 

 ノエルは紅茶のカップを置き直し、ぽつりとこぼす。その声に、場の空気がわずかにほころんだ。

 

「センスにも、食べさせてあげたかったですわ」

 

 その笑顔は、どこか晴れやかだった。

 涙はとうに乾いていた。

 すぐ隣に喪失があるのに、彼女は前を向いていた。

 もっと沈んでいると思った。

 泣いて、塞ぎ込んでいると。だけど彼女は――もう、歩き出していた。

 

「……長居したな。ノエルのお友達と話せてよかったよ。見送りはいい。また来る」


「えぇ、いつでもお待ちしておりますわ」

 

 アシュレイはすっと背を伸ばし、椅子を離れた。

 カップも皿も空のまま、振り返らずに扉へ向かう。

 アシュレイが卓の脇を通る。カグツチは椅子の肘掛けに片手を預けたまま――すれ違いざま、アシュレイの手とカグツチの手が触れた。

 ノエルの死角で、カグツチの掌に白い紙片が滑り込む。次の瞬間、彼の指がぐっ、と閉じる。

 アシュレイは私を一瞥する。まるで後でそれを見ろとでも言いたげだ。


 扉が静かに閉まり、場を包んでいた嵐の気配がぴたりと止む。


 ふと、カグツチの拳が硬いままだと気づく。

 指の隙間に、白い切れ端が噛んでいた。

 ――ここで確かめるわけにはいかない。


 カリ、と芋が砕ける音だけが残った。


 私は席を立つ。


「ごちそうさまでした、ノエルさん。この城で頂いた中で、いちばん美味しかったです」


「ふふ。ルシアさんにそう思っていただけたなら、これ以上に嬉しいことはありませんわ」


 ノエルは笑ったまま、カップの縁をそっと撫でる。

 そして何も問わず、いつもの微笑みを戻した。

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