29.琥珀の目
――氷の城。吹き抜けの温室、その最奥。
低い畝が幾筋も走り、土と青い葉の匂いが温室の空気に混じっていた。
古びた石の台座に、白布を掛けた小箱がひとつ、寂しげに置かれていた。
墓標こそないが、それは確かに祈りの場だった。
私とカグツチはその前でしゃがみ込み、黙って手を合わせていた。
ノエルが来客の対応に行ってしまってから、私たちは同じ沈黙を抱えていた。
「……センスの角、きれいでしたね。カグツチの炎でも全て灰にならず、わずかに残っていました」
その言葉に、カグツチは目を伏せた。
「ああ。……最後まで、保ってた」
私は自分の掌を見下ろした。
今でもそこに、あの灰の温もりが残っている気がする。
「――私は、この城で竜とはなにかを改めて知りました」
そう言って、彼を見上げる。
「この世界では竜は道具であることが当たり前――ですが、私はその考えを改めます。私はあなたをもう道具だとは思いません」
カグツチの視線は台座の小箱の向こう、遠い何かを見ていた。
しばらくして、彼はぽつりと呟いた。
「……うん。ありがとう」
私なりの決意表明のつもりだったが――カグツチの表情は浮かない。
言葉を間違えたようにも思えない。
やがて、しゃがんでいた彼は立ち上がり、温室の入り口へと身体ごと向けた。
「ルシア、オレの後ろにいて」
空気が張り詰める。
カグツチは入口に向けて警戒心を顕にしていた。
その視線を追って、私は息を呑んだ。
温室の入り口に人影――ノエル。
その背後に、見知らぬ男。
「……静かなお時間を遮ってしまって申し訳ありませんわ。こちら、わたくしの友人――アシュレイですわ」
黒髪に鋭い眼光。長身のその男が、無表情にこちらを見ていた。
温室の冷気すら意に介さぬような眼差しに息が詰まりそうだ。
けれどその視線はまずノエルを確かめるように留まり――次の瞬間、私へ滑った。
ほんのわずかに、呼吸が止まる。
そのくすんだ琥珀色の瞳――ひどく、見覚えがある。
ヴォルシュタイン――レヴォネス王と、ゼファレスと、同じ色。
唇が自然と強ばる。背筋に冷たいものが走った。
隣でカグツチが半歩前へ出る。
――名乗らずとも、胸の奥に重たく沈むものがあった。
自分の心臓の脈打つ速度が上がったのが分かる。
向こうも気づいたように立ち止まった。
目を見開き、こちらを見たその表情は――驚きのような、戸惑いのような。
だが――違和感。
王族が、護衛もなく一人で辺境の地へわざわざやってくるとして――すぐに捕えないのはなぜか。
こちらを試しているのか、或いは探っているのか。
その瞬間、カグツチがじり、と踏み出した。
何をするかと思えば、ただ不機嫌そうに目を細めているだけだった。
刹那、張り詰めていた空気にピシッとひびが入る。
「なんか……声とか顔とか――なにより、匂いが気に入らない」
言いかけて、飲み込んだ気配がした。
カグツチはそれ以上を言わず、嫌悪を隠そうともせず低く顎を引いた。
「あらあら……うふふ。可愛らしい嫉妬ですわね」
ノエルは意味深に声を弾ませた。
――嫉妬。そういうものなのか。
いえ、違う。あれは甘さではなく、刃だ。
彼が私の前に立つ速さだけは、さっきまでと違っていた。
アシュレイは聞こえなかったことにしたようだったが、カグツチは腕を組んで睨み続けている。
ノエルの笑いだけが軽い。けれど私の胸の奥は、いっそう固くなる。
「センスが先が長くないことは、以前よりお伝えしておりましたの。今日は、用事のついでに立ち寄られたそうですわ」
ノエルの言葉に、アシュレイは控えめに一礼する。
その仕草はぎこちなく、視線は私とカグツチを交互に行き来していた。
――まるで、見てはいけないものを見たように。
理由はわかっていた。いまこの場にいるのは、王都で指名手配中の一人と一機。
私は、笑顔をつくった。
「どうも……はじめまして。ルシア・ヴァレットですわ」
礼儀は保った。
けれど、それは楯にすぎない。
ノエルがいなければ、今すぐ逃げ出していた。
そんな空気の中で、カグツチがぽつりと呟いた。
「はじめましてさようなら」
乾いた、抑揚のない声。
ぎょっとして振り返ると、カグツチは無表情のまま、ただ隣に立っていた。
「こらカグツチ、挨拶はきちんとなさい」
「してるよ」
反省の色はない。
いつもの無害な悪態とは違う。
視線の温度がまるで別物だった。
わからない。
それでも、背後から離れないその立ち位置だけは、はっきりしていた。
ただ、ひとつだけ確かなのは、彼が今、隣の男を《敵》として認識している、ということだった。
「はじめまして」
アシュレイは短く返し、戸惑い気味に手を差し出してきた。
貴族の挨拶としては唐突すぎる。迷いの現れだ。
こちらが応じかねていたその瞬間、隣からそっと手が伸びる。
カグツチが私の手を包み、代わりに前へ出た。
動きは滑らかで丁寧。
だがまるで、当然のような代理行動だった。
「オレはカグツチ。嫌いなものはお前」
やめなさい、そういうのは心の中だけにしておきなさい――と、思わず心の中で叫ぶ。
だがカグツチは涼しい顔のまま、抑揚のない声で笑みを浮かべている。
アシュレイは、かすかに眉をひそめる。
やがて、平和の象徴であるはずの握手から、ミシミシと音がした。
「……っ!」
アシュレイが顔をしかめ、慌てて手を引く。
カグツチは鼻を鳴らし、その手を服でごしごしと拭った。
まるで毒虫でも払うように。
咎めかけたが、彼は無表情のまま、ぴたりと私の隣に立っていた。動かずに。
「……お前に嫌われるようなことをした覚えはないが」
「あぁ」
カグツチの視線が一度だけノエルに触れ、すぐ逸れた。
アシュレイの隣でノエルが口元を押さえながら、肩を震わせて笑っていた。
「ふふ。アシュレイ、カグツチにも事情があるのよ。察しの悪いあなたにはわからないでしょうけど」
ノエルが笑うなら、それが正解なのだと思うことにした。
嫉妬――今はそういうものにしておこう。
私は小さく頷き、口角だけを上げた。
けれどカグツチの立ち位置は、冗談のそれではない。
空気がふっと引いた、その瞬間。アシュレイが静かに動いた。
じゃがいも畑の畝をすり抜け、センスの墓標へ進み、短く頭を垂れる。
温室の光が差し込み、葉の影が静かに揺れた。
彼の背を見つめながら、ノエルが問いかけた。
「ところでアシュレイ。この辺境の地に用事とは、一体なんなんですの?」
アシュレイは墓に目を落としたまま答える。
「王族に歯向かった逃亡者を探して――という名目でね。まぁ、まさかこんな辺境にいるとは思っていない。……体の良いサボりさ」
言い終える前に、彼の喉が一度だけ詰まった。
「まぁアシュレイったら……」
ノエルがのんきに笑う横で、カグツチの警戒は解けない。
私の背後から一歩も動かず、隙あらばアシュレイの首を落としそうな目をしていた。
それを察したのか、ノエルが場を和ませるように手を叩いた。
「お二人とも険しい顔をしていて怖いですわ。せっかくですし、お茶会でも開きましょうか」
気を利かせた申し出に私は断れず、墓標から数歩離れた丸卓へ向かう。
私が腰を下ろすと、カグツチは当然のように私の椅子の後ろへ回り込み、離れない。まるで剣のように。
アシュレイは墓に祈りを捧げてから、私の向かいに腰を下ろした。
ノエルは席を取らず、卓の脇に立ったまま――どこか仮面めいた微笑みを浮かべていた。
それを見たアシュレイが、ふと首をかしげた。
「元気そうでなによりだ。もっと落ち込んでいるかと――いや、君は強い女性だからな……」
「何年もかけて心の準備はしていましたから。……とはいえ、そう簡単には受け入れられませんわ。一人だったら泣いていたかもしれません。ルシアさんとカグツチがいてくれたので」
アシュレイはその言葉のあと、私を見た。
「……なるほど。――で、これからどうするんだ」
問いかけはあくまで他人事のようだったが、ノエルの表情が一瞬だけ強張るのを私は見逃さなかった。
「スコット家が解体寸前とは言え、君だけなら嫁ぐ道もあるだろう。……俺に提案が――」
「ふふ、心配ありがとう。でも家のしがらみには、もう懲りましたの。不自由な貴族生活なんて、いまの私にはもう出来ませんわ。一人で生きていけますし! どっせい!」
いつものノエルの調子に、場の空気がわずかに緩む。
しかし緩んでいるのはノエルの周りの空気だけであり、私の頭はこの場をどう切り抜けるかでいっぱいだ。
「お茶でも用意しますので、みなさんこのままお待ちくださいな」
そう言ってキッチンへと消えるノエル。
その背を見送りながら、私はアシュレイへ視線を向けた。
彼も私の方を見やり、ほぼ同時に視線がぶつかった。
ノエルという平穏を守りながら――私はこの男とどう戦えばいい。




