塩対応な英雄王の事実陳列罪(プロポーズ)
年に数回行われる魔王との停戦協議という名目のもと、アシュレイが黒鉄の城を訪れるのは、きまって陽が落ちてからだった。
魔王との会談など当然名ばかりで、彼が真っ直ぐに向かうのは食堂の裏手にある小さな私室だ。
そこでは、氷の城から移り住んだ専属料理人が、彼のためだけに極上の酒とつまみを用意して待っている。
「まったく、アシュレイは働きすぎです。ほら、また眉間にシワが寄っていますわよ」
テーブルを挟んだ向かい側。
空になったアシュレイのグラスに強い酒を注ぎながら、ノエルが呆れたようにため息をついた。
王都から遠く離れたこの魔王城で、気兼ねなく酒を酌み交わせるこの時間だけが、アシュレイにとって唯一息ができる瞬間だった。
「そんなしかめっ面ばかりでは、良き伴侶にも恵まれませんわよ」
「……俺は娶らない。誰もいらない」
グラスを煽り、喉を焼くアルコールと共に鬱屈した感情を飲み込む。
『お前以外の誰もいらない』という本音は、王妃という鳥籠に彼女を閉じ込めるわけにはいかないという理性によって、何年も硬く封じ込められていた。
「あら、そうですの? でも、王様が独り身だなんて世間体がよろしくないのでは。一度だけでもいいから、お見合いの席に座ってみたらどうかしら。案外、素敵な方かもしれませんわよ?」
ノエルは上機嫌に自分のグラスを空にする。
普段は張っている威勢の良い食堂のお姉さんとしての警戒心が、すっかりアルコールに溶けていた。
その証拠に、彼女の白い頬はすでにほんのりと桜色に染まっている。
無邪気に他の女を勧めてくるその態度に、アシュレイの胸の奥でチリッとした痛みが走った。
酒が回っているせいか、いつもなら飲み込めるはずの言葉が、ふいと口をついて出る。
「……そういう君こそ、どうなんだ」
「私? ここには竜種しかおりませんもの、出会いなんてあるはずがありませんわ。でも……」
ノエルはとろりとした目で虚空を見つめ、どこか自嘲するように笑った。
「このまま未婚なのは良いとして……。一度も殿方の身体を知らずに終わるというのは、なんだかもったいない気がして」
――ピキッ。アシュレイの中で、何年もかけて築き上げてきた理性の防壁に、決定的な亀裂が入る音がした。
彼女は今、何と言った。
他の男に抱かれてもいいと、そう言ったのか。
自分以外の、どこの馬の骨とも知れない男の手で、彼女の全てを知るというのか。
「…………」
アシュレイは空になったグラスを、音を立ててテーブルに置いた。
視界が熱く揺れている。
これが酒のせいなのか、それとも限界を超えた嫉妬のせいなのか、もはや彼自身にも分からなかった。
ただ、目の前で無防備に酔いしれる最愛の女を、これ以上手放したままにしておくことなど、絶対に不可能だった。
「……なら」
「えっ?」
テーブル越しに手を伸ばし、ノエルの華奢な手首を強く、逃げられないように掴む。
驚いて目を丸くする彼女を、アシュレイは捕食者のような、ひどく暗く熱を帯びた瞳で見据えた。
「俺で試すか」
その声はひどく低く、彼女の返事など最初から待っていないような、有無を言わさぬ響きを持っていた。
◆ ◆ ◆
――翌朝。
小鳥の囀りとともに、窓の隙間から差し込んだ朝陽が薄暗い部屋を照らし出していた。
「……えっ、ワンナイトって、こういう感じですの!?」
シーツの中で目を覚ましたノエルは、己の身に起きた事態を反芻し、音にならない悲鳴を上げた。
昨晩の記憶は、酒の酔いを吹き飛ばすほど鮮明に脳裏に焼き付いている。
(ワンナイトとはもっとこう……後腐れなく軽く終わる感じのものでは!? あれは湿度100%でしたわよね!?)
アシュレイはノエルの髪を一束すくい上げ、まるで壊れ物を扱うかのような手つきで、致死量の愛の言葉を浴びせかけてきたのだ。
『君だけいればいい』
『俺の世界には君しかいない』
『あぁ……これはきっと夢だ。夢なら覚めなくていい。君を愛している』
普段の塩対応からは想像もつかない激しい熱情。
呆然としながら、ノエルは隣で静かな寝息を立てるアシュレイの寝顔を眺めた。
もちろん、昨日の出来事は夢などではない。
奪われた唇の感触は未だに熱を帯びて残っているし、シーツの下を窺えば、胸元には花びらを散らしたような赤い痕がいくつも咲いている。なにより雄弁なのは、身じろぎするたびに感じる腰の鈍い痛みだった。
あれだけの愛の言葉の雨を浴びせられて、アシュレイの顔を昨日と同じ目で見る事など、到底出来るわけがなかった。
(……いえ。よく見なくても、元々ひどく整った顔立ち、ですわよね)
規則正しく上下する胸の動きを眺めながら、ノエルは吸い寄せられるように手を伸ばし、小さく寝息を立てるアシュレイの唇にそっと指先で触れてみる。
この唇で途方もない愛を囁き、自分の唇を何度も奪ったのかと思うと、自然と顔にカッと熱が集まるのが分かった。
(そういえば……ロボが言っていましたわ。ゼファレスが作った後宮は解体されていないまま残っていて……あそこにいる令嬢たちはみな、アシュレイを慕っていると……)
ふと過った事実に、胸の奥がチクリと痛む。
その時だった。
「……んん」
ノエルの指先の感触に反応したのか、アシュレイが薄っすらと目を覚ました。
彼はノエルが自分の唇を撫でている事に気付き、次にお互いが何も着ていないシーツの中である事に気付いた。
カッと目を見開き――そのまま、ひどく険しい顔で石像のように硬直した。
「お、おはようございます、アシュレイ……」
気まずさに耐えきれずノエルが挨拶をした、まさにその瞬間。
コンコン、と短いノック音とともに、扉が勢いよく開け放たれた。
「おいノエル、アシュレイ見なかったか? あいつ用に用意させた部屋に姿が見当たらねェ。あり得ねぇと思うがここで酔いつぶれて……って、あ?」
部屋に入ってきたロボの呑気な声が、途中で不自然に途切れた。
「――は?」
床に脱ぎ散らかされたままの、二人の衣服。
ベッドの上でシーツにくるまりながら、この世の終わりのような顔で固まっている国のトップと、赤面したまま固まる料理人。
その光景を見たロボは、数秒だけ完全にフリーズし――一瞬で、全てを理解した。
「…………」
「…………」
息が詰まるような沈黙の後、ロボは静かに扉のノブへ手をかけた。
「……ふ、服はシワになるから、ちゃんと掛けておけよ。邪魔したな」
――ぱたん。
信じられないほど手際よく扉が閉まり、部屋は再び静寂に包まれたのだった。
ロボが気を利かせて扉を閉めた直後。
部屋を包んだ数十秒の重たい沈黙を破ったのは、ベッドから滑り降りて床に両膝をついたアシュレイだった。
「す、すまないノエル……ッ!!」
シーツを握りしめ、顔を真っ赤にして固まっているノエルに対し、国のトップであるはずの英雄は、額を床に擦り付ける勢いで土下座をした。
「俺はなんということを……酒の勢いとはいえ、君の意に反してあんな……っ! いくら謝っても許されることではない、俺は万死に値する最低のクズだ!!」
アシュレイの悲痛な叫び。酒の勢いでタガが外れていたとは言え、記憶ははっきりと残っていた。
しかし、一方でノエルには、その土下座はまったく別の意味に変換されて鼓膜を叩いた。
(万死……。私みたいな女と一夜を共にしたことが、そこまでお嫌でしたの……?)
ノエルは、きゅっとシーツを胸元で引き寄せた。
昨晩の熱と、甘い言葉の残滓が急激に冷えていくのを感じて、鼻の奥がツンと痛む。
「……じゃあ、昨日のあの言葉は、全部うそでしたのね」
「お、おおお、俺は何を口走った!?」
「『君だけいればいい』とか、『俺の世界には君しかいない』とか……あれは全部、お酒に酔った戯言でしたのね……。そりゃあそうですわよね、後宮には私より綺麗なご令嬢が山ほど……」
傷ついたように俯き、涙目で震えるノエルを見た瞬間。
アシュレイの頭の中で、何かがぶち切れる音がした。
「違う! 断じて違う!!」
「ひょっ!?」
ガバッと顔を上げたアシュレイが、ノエルの両肩をガシッと掴む。
その目は血走っており、有無を言わさぬすさまじい気迫がこもっていた。
「嘘なわけがないだろう! 引くぞ!? 俺が君を見ていた年月と執着の深さを知ったら、普通なら悲鳴を上げて逃げ出すからな!!」
「え、ええぇぇ?!」
「黒鉄の応接室の奥に、俺の祭壇がある……あそこにはな、壁一面に君の姿を映した記憶写真を貼り詰めた隠し部屋がある。君に似合うと思って買ったドレス、宝石、香水……一度も君に渡すことなく行き場を失った何百という贈り物の山が、あの中に詰め込まれている。俺は王都での地獄のような政務の合間にあの部屋へ籠もり、君への贈り物の山に囲まれてただ呼吸をするだけで救われていたんだぞ!?」
「ま、まさかこの間カグツチが応接室で「気持ち悪いから箱に詰めて王都に送ろう」と言ってまとめていた荷物の中身は……」
「こんなものでは終わらないぞ! 俺がなぜゼファレスを裏切り、魔王ルシファーの駒になってまで王座に就いたと思っている!? 民のためでも貴族のためでもない、あいつが俺の弱点がノエルだと知っていたからだ! 俺は何百万の人間が住む国家の行く末を天秤に乗せ、一秒の躊躇いもなく君が平穏に笑っていられる世界の方を選んだ! 君のためならこの国ごと消し炭になっても構わないと本気で思っていたんだ!」
「え、あ、あしゅれ……?」
「そして戴冠式の日、君にこの化け物じみた黒い腕を見られた時……俺は王としての矜持なんてどうでもよかった、ただ一人の男として、世界で一番愛する女に醜いと恐れられ、嫌われることだけが恐ろしくて、――それなのに、君は、……っ、君は」
ノエルの小さな自己肯定感のグラスに、アシュレイからの致死量の愛の言葉が、大きな水差しどころか滝のごとき勢いで注ぎ込まれていく。
普通の女なら逃げ出す案件である。
しかし、長らく友人であったその男を目の前に、ノエルは困惑よりも先に――あっけなく感情が動いてしまったのだ。
今にも泣き出しそうな琥珀色の瞳に、そっと手を伸ばしかけた瞬間――その手首ごとアシュレイは掴んだ。
「それほどまでに君を愛し、執着し、狂っているからこそ――君が一番嫌う貴族社会の王妃という鳥籠にだけは絶対に閉じ込めてはならないと、俺は一生この悍ましい感情を隠し通すつもりだった……。たまに魔王城へ行って、嫉妬で頭がおかしくなりそうになりながら君の手料理を食うだけの、不器用な男として一生を終える覚悟を決めていたんだ……それがどうだ、君があんな……俺以外の男の身体を知るなんて言うから!!」
アシュレイの呼吸は荒く、その琥珀色の瞳は完全に理性のタガが外れた猛獣のそれだった。
ノエルの手首を掴む手は小刻みに震え、もはや自分が何を言っているのかすら制御できていないようだ。
「あ、あああ、あ、あの、おまちになって、おまちに……」
ノエルの顔が、首から耳の先まで一瞬で茹でトマトのように真っ赤に染まる。
口をパクパクさせ、完全に思考停止してしまったノエルを見つめながら、アシュレイはついに、震える声で決定的な一言を口にした。
「……こんなエゴの塊のような俺で、本当に申し訳ない。だが……どうか、俺に責任を、取らせてもらえないだろうか……」
懇願するような、ひどく切実な声。
その必死な瞳で見つめられたノエルは、もはや貴族社会への嫌悪感など宇宙の彼方へ吹き飛んでいた。
(だっ……だめですわ、このように致死量の愛を注がれて、前のようにアシュレイを見る事なんてもう出来るわけないです……! 先ほどまで、友人だったのに……だったのに! 好き……っ!!!)
ノエル・センス・スコットはチョロかった。
「……もちろん、君に王宮などという狭苦しい場所で苦労させるつもりはない。嫌なら永遠に黒鉄の城にいてもらっても構わない。俺が政務の合間を縫って、こちらへ通うから……」
その、あまりにも不器用で遠回りな提案を聞いて、ノエルの茹で上がっていた頭が、スッと冷静さを取り戻した。
「――お待ちになって。それはつまり、私を妻にするけれど、一緒に暮らさないということですの?」
「そ、そういうことになる……。君を、あの陰湿な貴族社会の渦中に引きずり込みたくないんだ」
悲壮な決意を込めて言うアシュレイに、ノエルは呆れたように小さくため息をついた。
「アシュレイ。私、魔王城で毎日気絶しながら、火竜や白竜たちのご飯を作っている女ですわよ?」
「……あぁ、竜種達が死ぬほど羨ましい」
「人間の貴族がチクチク小言を言ってきたところで、カグツチの放つ理不尽な熱気や、シロクマの絶対零度の威圧感に比べたら、そよ風みたいなものですわ。文句を言う輩がいるなら、ロボ直伝の私の特製ポトフを超特盛りで胃袋に詰め込んで物理的に黙らせます」
「…………ん?」
世界を救った英雄の顔が、文字通りぽかんと間抜けに開いた。
長年一人で勝手に抱え込んでいた王妃という鳥籠の深刻な悩みが、逞しすぎる実用主義によって木端微塵に粉砕された瞬間だった。
ノエルはシーツを胸元で引き寄せながら、ふにゃりとだらしない笑顔をこぼす。
「それに……食事すら取り忘れる不器用な王様には、私がついていて差し上げないと。残っているという後宮の令嬢たちに、あなたの胃袋は任せられませんもの」
「……ノエル、それはつまり……」
「つつしんで、その責任、取っていただきますわよ」
かくして、英雄の長きにわたる片思いと鬱屈した葛藤は、一夜の過ちと圧倒的な愛の暴力によって、あっけなく幕を閉じたのだった。
◆ ◆ ◆
その日、オルドレアの若き王がようやく妃を迎えることになり、雨にも関わらず国は朝から婚姻の儀に湧いていた。
オルドレア全土を見渡せるほどの、高い高い空の上から、火竜の背中に乗った魔王はかつて自分の生まれ育った大地を見下ろしていた。
「やっぱり、アシュレイとノエルの結婚式見たかった?」
「えぇ。ですが魔王の身で堂々と参加、と言う訳にも行きませんし、変装したとしてもあなたの身長までは誤魔化せない」
「オレ、人型でも人間より大きいから目立つもんねぇ」
「ですから、私たちなりに二人を祝福してあげたいのです」
「ふふ、それでオレの出番ってわけだね」
「えぇ。彼女のハレの日に雨だなんて……似合いませんもの」
「アシュレイのためではないんだ? ひょっとして恨んでる? ノエルを連れて行っちゃったこと」
「……食堂が寂しくなりますが、ノエルさんが幸せならそれでいいのです」
カグツチは楽しげに喉を鳴らすと、ゆっくりと大きく息を吸い込んだ。
◆ ◆ ◆
――王都、大聖堂の一室。
純白のドレスに身を包んだノエルは、どんよりと垂れ込める灰色の空を見上げて、少しだけ残念そうに眉を下げていた。
このあと二人はバルコニーへ出て、国民の見守る中、婚姻の儀を執り行う手筈となっている。
「雨、止みませんわね。せっかくのドレスが濡れてしまいますわ」
「俺が濡らさない。……だが、そうだな。君の晴れ姿には、青空こそがふさわしい」
隣に立つアシュレイが、息をするように甘い言葉を紡ぎ、ノエルの額に唇を落とす。
あの一件以来、この男はタガが外れたように愛を囁くようになってしまった。
「……もう、アシュレイったら。これはただの婚儀ではなく、言わば国民へのお披露目。人前で軽々しく触れてしまえば王の品位が疑われますわよ?」
「あぁそうだな。お楽しみは部屋に戻ってから取っておく事にするよ」
「あ、アシュレイっ……! この間までただの友人だったのにっ!」
「あぁ。でも今はもう違う。――さぁ、行こう」
ノエルが照れ隠しに軽く睨みつけようとするよりも早く、アシュレイは彼女の手を引きバルコニーへ一歩踏み出した。
――その時だった。
――ビリッ、と。 上空の空気が、微かに震えた。
遥か天高くで、雷鳴にも似た轟音が轟いた。
次の瞬間。王都を覆い尽くしていた分厚い雨雲が、中心から外側へ向かって、まるで巨大な見えない腕で薙ぎ払われたかのように、一瞬にして円形に吹き飛んだ。
「えっ……?」
ぽっかりと空いた雲の穴。
そこから、一直線に眩い光が降り注ぐ。
それは巨大なスポットライトのように、バルコニーに出た二人を、そして王都全体を、暖かく優しい陽だまりで包み込んだ。
「おおおっ……!」
「奇跡だ! 神が、王と王妃を祝福しておられる!」
眼下の広場に集まっていた民衆たちが、突如現れた太陽に歓喜の声を上げる。
しかし、その不自然なほどに見事な、あまりにも暴力的なまでの晴天を見上げて――ノエルとアシュレイは、同時に顔を見合わせた。
ほんのりと肌を撫でる、極上の熱気。
空の理すらも力業でねじ伏せる、この規格外の現象。
こんなことができる存在を、彼らは知っている。
「まったく……神の祝福だなんて、とんだ見当違いですわね」
ノエルは呆れたように息を吐きながらも、その口元はどうしようもなく綻んでいた。
「あぁ。世界で一番不器用な魔王様と、そのお世話係からのご祝儀だろう」
アシュレイもまた、遥か上空の青空へ向かって、心からの敬意と感謝を込めて目を細める。
降り注ぐ陽だまりの中。
誰よりも世界の理不尽を知る二人は、空へ向かって最高の笑顔を向けたのだった。




