幕間.初代アルト・アグレストの手記より
玉座と対峙したのは、生まれて初めてのことだった。
おかしいと思ったんだ。
貴族になるには、血統という順番待ちの列に並ばなければならない。それをすっ飛ばして、ただの平民である俺に順番が回ってくるなんて。
◆ ◆ ◆
俺の住む辺境の領地では、命の価値はひどく軽い。
しかし、それを差し引いてもあの日の領主の判断は狂っていた。
領地の主要な産業である鉱山で、大規模な落盤事故が起きた。数名の作業員が坑道の奥に生き埋めになった。
崩落した岩盤を退かし、彼らを救い出せるのは領主が所有する貴族の道具だけだった。
しかし、領主は竜の出動を頑なに拒否した。
翌日の貴族遊戯に向けて、竜種の体力を少しでも温存するためと言う、庶民には理解し得ない理由だった。
たかが貴族同士の盤上の遊びのために、自らの領民の命を見捨てるというのだ。
「腕っ節の強いお前なら、なんとかなるんじゃないか」
藁にもすがる思いの者たちから声が掛かり、俺は現場へ向かった。
俺の家は代々、普通の人間にはない特異な力がある。竜一匹の出力にも匹敵すると言われている怪力だ。過去にご先祖様が竜と交わった結果だ、とだけ聞いているが、その事は表に出さないように親からきつく言われていた。
普通の人間が暮らすこの平和な領地で、異端の力は身を滅ぼす原因になる。
だから、これまでずっと「少し腕っぷしが強い」程度で誤魔化してきた。
崩落現場の最奥には、家屋ほどもある巨大な岩が道を塞いでいた。人間が何十人集まっても動かせる代物ではない。
俺は坑道内に立ち込める濃い土埃と、松明の光すら届かない暗闇を利用した。安全確認を理由に他の者たちを外に待機させ、一人で岩と向き合う。
息を吸い、岩の隙間に手をかけ、力を込めた。
筋肉が軋み、足元の地盤がひび割れる。
鈍い轟音とともに岩が持ち上がり、俺はそれを横の空洞へと力ずくで押し退けた。
「……たまたま岩のバランスが崩れて、隙間ができた」
土埃の中から生還した俺はそう嘯き、生き埋めになっていた作業員たちを全員引きずり出した。
この出来事は、どういうわけか中央の王都にまで知れ渡ることになった。領主の職務放棄と、それを補って余りある辺境の民の功績として。
結果として、俺は国から新たな貴族候補に選ばれた。
しかし俺は貴族になる気など毛頭ないし、そもそも貴族の地位を得るための絶対条件は、王から竜を下賜されることだ。
竜種はすでに何百年も前に枯渇していると聞いている。
新たに下賜される余剰の竜など残っているはずがない。貴族候補など掃いて捨てるほどいるのだから、ただの名誉称号のようなもので終わるだろう。
俺は完全に高を括っていた。
あんな、触れることすらできない炎の厄災を押し付けられることになるとは、この時の俺は知る由もなかった。
◆ ◆ ◆
王城の謁見の間は、床の大理石にその冷気が反射して、息が詰まるほど冷え切っていた。
しかし、その中央だけは異常な熱を帯びて空気が揺らいでいる。
大理石の床の上に置かれた、分厚い断熱性の石のプレート。
その上に、ぽつんと座り込んでいるのがそれだった。
全身から紅蓮の炎を立ち上らせる、人間の五歳児ほどの姿をした白磁のような角と、紅色の鱗のついた尻尾が生えた子供。
プレートの四隅には異様に長い鎖が繋がれ、部屋の隅に控える王の従者たちが遠巻きに牽引している。誰も、あの子供の数メートル以内には近づこうとしない。
「これが、お前に下賜される竜だ」
玉座からの王の言葉を聞き、俺は目を疑った。
俺はただ少しばかり腕っ節が強いだけの普通の領民だ。なぜ王の御前になど呼ばれたのか疑問だったが、目の前の光景を見て嫌でも理解した。
俺の前に並んでいたはずの名だたる貴族候補たちは、全員これを辞退したのだ。
触れることすらできず、言葉も通じない、この燃え盛る異常な欠陥品を。
「拒否することもできるのでしょうか」
俺が問うと、王はひどく無関心な声で答えた。
「構わん。その場合は、次の貴族候補に回すだけだ。しかし――君がこの竜を、これを手にすることは神託により決まっている」
「……? 次の候補がもういないだけでは?」
王はわずかに眉を動かしただけで、否定はしなかった。
周囲を取り囲む重臣たちの引きつった顔を見れば、彼らがこの子供の扱いに致命的なほど困り果てていることだけは分かった。
誰もこの子供の竜に触れられない。近づけないほどの熱だ。放置すれば王城が燃える。
彼らは自分たちの手に負えないこの厄災を、事情を何も知らない素性の軽い領民に恩賞という体裁で押し付け、王都から物理的に遠ざけたかったに違いない。
玉座の間の静寂の中、俺は燃える子供を見下ろした。
彼は俺を威嚇しているわけではなかった。ただ自らの無自覚な熱を持て余し、不安げに俯いている。
俺自身、持て余した怪力を周囲から隠し、息を潜めて生きてきた。その孤独の形が、目の前の怯える厄災とひどく重なって見えた。
「……ありがたく、拝命いたします」
俺が頭を下げた瞬間、玉座の周囲から、隠しきれない安堵の吐息が波のように漏れた。
「名前はヒノカグツチだ」
その名を聞いた瞬間、俺の脳裏に昔父から聞いた古い伝承が蘇った。
竜という生き物は、母から与えられたその名の因果に縛られ、依存して生きる生き物だと。
父はこうも言っていた。竜は卵の中にいる時から周囲の音を感知して学習し、殻を割って出てきた時には既に人間の五歳児ほどの知能を持ち、言葉をペラペラと喋るのだ、と。
だが、目の前の子供はあまりにも異質だった。言葉を発するどころか、こちらと目を合わせようともせず、ただ不安げに俯いている。
この子は卵の中にいた時から、すでにその異常な熱で周囲を拒絶していたのだろうか。
誰も卵に近づけず、誰も彼に語りかけなかった。学習するための言葉も音も与えられないまま、彼はただ一人で、暗い殻の中で己の熱に怯えながら孵化の日を迎えたのだ。
だから彼は、何も知らない。何も持っていない。
ただヒノカグツチという呪われた因果を孕んだ名だけを持って、この世界に放り出された。
――俺にはこの燃える厄災が、ただひどく怯えているだけの空っぽの子供に見えてならなかった。
◆ ◆ ◆
竜を下賜され貴族となった者には、竜継の儀と呼ばれるお披露目の祝賀会が開かれる。
しかし、主役の竜がそれである以上、祝賀会は最初から破綻していた。
会場の中央、分厚い石の台座の上に座らされたその子供は、ただ怯え、無自覚な熱を垂れ流していた。
給仕の不用意な風圧か何かが原因だったのだろう。彼の炎が、近くの豪奢なテーブルクロスに燃え移った。
「火だ! 逃げろ!」
瞬く間に火柱が上がり、会場は阿鼻叫喚のパニックに陥った。
着飾った貴族たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、彼らが連れていた竜たちも主の命令に従って退避していく。
逃げ遅れた者がいないか確認しながら、俺はただ一人、炎の中心に取り残された子供の前に立ち尽くしていた。
彼は炎の中で膝を抱え、ただじっと震えている。
その時だった。
「――この子が、カリナンの子かぁ」
逃げ惑う人波を逆行し、炎の熱など意に介さない様子で、ひとりの美しい星の色のような青銀髪をした竜が悠然とこちらへ歩み寄ってきた。
そして、その竜は俺の隣に並び立ち、はっきりと人間の言葉を紡いだのだ。
「確かにこれは人の手に余るね。この子が貴族の道具になったら終わりだ」
俺は耳を疑った。
竜は道具だ。主の命令なしに自発的に口を開くことなどあり得ない。だが、その竜の瞳は知性に満ちており、燃える竜の子を見つめる眼差しには明らかな哀悼と慈しみが宿っていた。
「お前は……誰の竜だ。なぜ喋る。主はどうした?」
「僕はヴァレット家の竜、スピカだよ。僕の主は火事になる前に外に出てもらった。僕の愛するヴァレットの者に火の粉でも掛かったら嫌だからね」
スピカと名乗ったその竜は、炎に照らされる俺の顔を静かに見つめた。
「彼を厄災のままにしてはいけないよ」
炎がシャンデリアを舐め、天井が焼け落ちる音がする。
それでも、俺とこの奇妙な竜の周囲だけは、不気味なほどに静かだった。
「――愛情を持って接すればいい」
スピカは、神託でも下すかのように穏やかに言った。
「それだけで、この子は救われる。……彼を、ただの呪われた因果のまま終わらせてはいけない」
炎に照らされるスピカの金色の瞳は、目の前にいる俺たちではなく、ずっと遠い何か――俺の頭では理解の及ばない、途方もない先の未来を見透かしているようだった。
「いつか来る残酷な運命から、僕の愛した者たちを守り抜くために。……彼にはどうしても心が必要なんだ」
その言葉の真意を、俺は理解できなかった。
しかし、誰もが見捨てた厄災に対し、このヴァレット家の竜だけは明確な救済の手段を提示したのだ。
この子を愛せ、と。
◆ ◆ ◆
ヒノカグツチ。
この世界にはない、意味の分からない言葉だ。
しかし、燃え盛る炎の中で蹲る彼を見ていると、まるで『火の、カグツチ』と、その炎そのものを名前に縛り付けられているように思えてならなかった。
だから俺は、彼を縛るその名前から『火』の言葉だけを切り離してやることにした。
言葉を変えれば、彼を苦しめるこの熱も消えてくれるのではないか。
竜の因果など俺には分からないが、それは彼を火の呪いから遠ざけるための、俺なりの泥臭いおまじないだった。
「お前は、カグツチだ」
そう告げると、カグツチは言葉の意味も分からぬまま、ただ不安そうに首を傾げた。
後日、王都から竜継の儀のやり直しの案内が届いたが、俺はそれを無視した。王都からの督促は二度と来なかった。王家も貴族も、俺たちをこの辺境の領地に隔離し、忘れることを選んだのだ。
俺は貴族としての義務などすべて放棄し、領地のため、そしてただ目の前の言葉を持たない子供の警戒を解くことだけに時間を費やした。
彼が来てから数日が経ったある日、ひとつの決定的な出来事を見た。
彼は触れるもの全てを焼き尽くし灰にする。しかし、俺が石のテーブルに置いた食物を彼が口にする時だけは、その肉もパンも決して燃え尽きることがないのだ。
食事の瞬間だけ、彼は己の生存本能によって無意識に熱をコントロールしている。この子に教育の余地が存在する。明確な希望が見えた瞬間だった。
旧領主が温存していた優秀な竜は王都に接収され、残された枯れた鉱山と、誰も触れられない竜だけが俺に押し付けられた。
せめて皆が少しでも暖かく、腹を満たして眠れるようにと、俺は寝る間も惜しんで奔走した。深夜まで執務室の灯りが消えないのは当たり前になっていた。
ある夜、夜通しの作業を見かねた領民の一人が差し入れを持ってきた。
白い、ふわふわとした砂糖菓子。マシュマロというらしい。甘いものなど自分から進んで買うような柄でもないが、その気持ちがありがたくて、俺はそれを紙袋ごと持ち帰ることにした。
屋敷に戻り、カグツチを隔離している石室へと向かった。本当は温かいベッドで寝かせてやりたいが、そんな事をしたらみるみるうちにベッドが燃える。彼の場合はこうする他ないのだ。
扉を開けると、暗がりの中で彼の身体を包む炎が静かに揺れている。
石室に入るなり、カグツチの視線が俺の手元――紙袋に釘付けになった。竜の嗅覚は鋭い。甘い砂糖の匂いを嗅ぎ取ったのだろう。
炎の向こう側から、興味津々な様子で身を乗り出してくる。その仕草は、世界を焼き尽くす厄災というよりは、ただ腹を空かせた子供そのものだった。
俺は袋からマシュマロを一つ取り出し、彼に見せるように掲げた。
すると、カグツチはそれをじっと見つめ、不意に口を半開きにした。
「……あると」
それは、意味を持たないただの音の反射ではない。
俺はアルト、君はカグツチと教え続けたように、彼が俺という個体を認識し、『アルト』という音に明確な意味を紐付けていたのだ。
彼が生まれて初めて発した言葉。
それは呪いの名でもなく、俺が教え込んだ偽名でもなく。ただ彼に食事を与え、根気強く対話を試み続けた俺を呼ぶ声だった。
俺は微かに震える手でマシュマロを摘み、炎の直前で立ち止まってそれを直接差し出した。
「これはマシュマロといって、ひどく熱に弱くてすぐ溶ける。……お前、炎を出さないように上手に食えるか?」
彼は俺の目と、指先を交互に見つめた。
次の瞬間。石室を包んでいた紅蓮の熱が、ふっと完全に消失した。
彼は己の生存本能のためだけでなく、俺の手から食物を受け取るという明確な意志をもって、全身の炎を極限まで抑え込んだのだ。
熱を失った薄暗い空間で、彼はゆっくりと顔を寄せ、俺の指先から直接マシュマロを咥え取った。
もぐもぐと口を動かしていた彼は、信じられないものを見つけたようなキラキラと輝く瞳で俺を見上げ――次の瞬間、俺が持っていた紙袋へ向かって躊躇いなく両手を伸ばしてきた。
竜の膂力だ。無防備だった俺はあっけなく後ろへ押し倒された。
「おわっ……!」
石造りの床に背中から崩れ落ちる。俺は咄嗟に腕を回し、彼が頭を打たないようにその小さな身体を抱きとめた。
覚悟したはずの灼熱の痛みは、訪れなかった。
彼は俺の腕にすっぽりと収まる形で、ただ無心に紙袋へ手を突っ込んでは白い菓子を口に放り込み続けている。食物に夢中になっている間、彼は俺という接触対象に対しても、完全に自らの熱を遮断していた。
俺の腕の中にいるのは、世界を焼き尽くす厄災ではない。ただ腹を空かせ、甘い菓子に夢中になっている、普通の体温を持ったひとりの子供だった。
ただの欠陥品として見捨てられた空っぽの器に、今、確かに心が芽生えた。
俺がこの世界に存在しているということを、最も純粋な形で証明してくれたのは、皮肉にも人間が道具と蔑むこの竜だった。
◆ ◆ ◆
竜の成長は早い。カグツチがこの家に来て十五年が経つ頃には、彼の背丈はゆうに俺を越えていた。
人間の青年と変わらぬ姿になった彼は、今やすっかり言葉を流暢に操り、俺の家族として生活に溶け込んでいる。
「アルト、今日もお仕事?」
「ああ。あの鉱山にもう一度懸けるしかない」
人間のツルハシでは刃が立たない、黒鋼のように硬い岩盤の層。あそこを突破できればという希望だけが頼りだった。
ため息をつく俺を見て、カグツチはニッと笑って見せた。
「任せて! オレ、手伝うよ」
彼が意気揚々と鉱山の奥深くへと先行していく。俺が最奥で見たのは、信じがたい光景だった。
「アルト、見てて。……こうやって、熱を真っ直ぐに、細く……」
かつては無自覚に周囲を焼き尽くしていたあの凶悪な熱が、彼の明確な意志によって制御され、指先から放たれる一筋の極小の熱線として岩盤の一点に集中している。
超硬度の岩盤だけが、まるでバターのように音もなく溶け、深い穴を穿っていった。
「……できた。アルト、この奥に何か光ってる石がいっぱいあるよ!」
溶けた岩盤の奥から、見たこともない純度の魔宝石の鉱脈が顔を出していた。
「これはマシュマロ三袋分くらいの働きでしょ?」
「三袋分? とんでもない。三百袋あっても足りないくらいだ。よくやったな、カグツチ」
誰も近づけなかった厄災の炎は、十五年の対話と学習を経て、俺たち家族の未来を切り開くための、誰よりも頼もしい光に変わっていた。
この手記を手にするであろう、我が子孫たちへ。
お前たちが生きる時代に、まだ彼がアグレストの家にいるのなら。彼はきっと、お前たちが知る通りの、よく笑い、よく食べる、ただの優しい家族としてそこにいるはずだ。
しかし、どうか忘れないでほしい。
彼の本名はヒノカグツチ。世界を焼き尽くす因果を背負わされた厄災だ。
俺が彼に与えたカグツチという名は、呪われた因果から彼を切り離すための、ただの泥臭いおまじないに過ぎない。
だから、どうか彼を愛してやってほしい。
彼に、炎ではない温もりを与え続けてやってほしい。
彼が己の恐ろしい因果を忘れ、ただの不器用な家族として生きていけるように。
アグレストの名を継ぐ者たちよ。厄災の炎を、ただの優しい火に留め置くためのこの途方もないおまじないを、どうか俺の代わりに紡ぎ続けてくれ。
初代アルト・アグレスト
◆ ◆ ◆
「シロクマ。カグツチはいまどこに」
私は手記を閉じると、その表紙を指でなぞる。
これは私がカグツチには内緒で、旧アグレスト領にある屋敷の隠し部屋からシロクマに持って来させた手記だ。
「はい。お申し付け通り本日は王都にアシュレイ王を迎えに行って頂きました。なんでオレが、と拗ねていらっしゃいましたが。相変わらず女王様と離れるのが嫌なのですね」
「この手記をここへ持ってくる際、中身を改めましたか?」
「いえ。女王様が決して見てはならないと仰っていたので」
この件をシロクマに任せたのは正解だった。
他の人間や竜を信頼していないからではない。この件に関しては、情を持ち込むことを私が切り捨てたからだ。
「シロクマ、ヒノカグツチと言う名を知っている者を全て教えなさい」
「はい。三百年前、女王の巣にいた者は私とセイデンキのみ。後宮の洗濯室であの会話を聞いていたのがハンガー、ヒョウガ、アイロンとなっております」
「そうですか。では、あなたから伝えてください。その名前は闇に葬り去りなさい、と。女王命令です」
「――かしこまりました」
こういう時、シロクマは何も言わない。淡々と命令を受け入れ、疑問も持たない。そうしてくれることが今はありがたかった。
母からもらった本当の名前を彼に告げないことは――愛なのか。それはきっと私が決めることじゃない。
それでも、アグレストの愛は確かにここにある。
これは彼の隣に立つ者としての責任だ。
彼が、ただのカグツチでいられるように。




