幕間.乙女に寄り添う星の名は
竜種は卵から孵る時、己の因果が定まる瞬間――原初の夢を見るという。
僕が見たのは、見知らぬ灰色の空の下で、ひとりの少女が泣きそうな顔をして僕の名前を呼ぶ景色だった。
彼女が誰なのか。なぜあんなにも悲しそうだったのか。
――これは、僕が原初の夢に辿り着くための二千年の、星の瞬きほどの記憶である。
僕が王様から下賜されたのは、リュカ・ヴァレットという、その日から貴族になる男だった。
竜種とは貴族の証。その時の僕には難しいことはよくわからなかった。ただ僕はこのリュカという男の元で暮らすらしいという事実だけ理解していた。
冷たい大理石の床の上で、僕は王様から、仰々しいセリフと一緒にリュカへ引き渡された。
小さな僕の身体を抱き上げて、リュカ・ヴァレットは満面の笑みで言った。
「なんて可愛いんだ!」
その時の凍りついた玉座の空気を、僕は二千年経っても忘れられないでいる。
竜種とは畏怖すべき力であり、家を飾る冷たい道具。それを愛玩動物のように抱きしめて喜ぶ貴族など、この国にはただの一人もいなかったからだ。
そうして僕はリュカに連れられて、大きな大きなお屋敷――ヴァレットの屋敷へと到着した。
リュカは僕の頭を撫でて、少しだけ困ったように笑って言った。
「竜種に親は不要だと、歴史書にはそう書いてあるけれど。……君さえよければ、僕のエゴに付き合ってくれないか」
「えご?」
「あぁ。今日から僕たちが、君の家族になるというエゴだ。君の帰る場所であり、僕の帰る場所になってほしいんだ。帰る場所があるというのは、案外悪いものじゃないよ、スピカ」
僕にとってヴァレットが帰る場所になるのに時間は掛からなかった。
だからこそ――一歩屋敷を出た世界のあまりの冷たさに、僕はひどく困惑した事を今でもよく覚えている。
それはリュカに、貴族遊戯の決闘場に連れられて来た日の事。
今思えば、それが僕という因果の分岐点だったと間違いなく言える。
「スピカにここで戦わせるつもりはないよ。ただ――どうしても見ておくよういわれてね。……同胞が娯楽にされているなんて気分の良いものじゃないだろう。気を悪くしたらすまない」
そう言ってリュカは、僕にはまだ難しい貴族社会のしがらみを断りきれなかったことを、僕に謝った。
――ふと、視界がゆらりと揺れた。
母から与えられたスピカという名の因果を、幼い僕はまだ上手く使いこなせていなかった。
この世界の夜空に浮かんでいる、名もなき青白い星。
それが、無数に存在する触れられない隣の世界でスピカと呼ばれていると理解したのは、いつからだっただろう。
その星は、この世界の因果のずっと外側に位置している。
因果の外側にあるからこそ、すべての可能性を上から覗き見ることができるのだと、己の名が持つ意味を理解した時から――時折、僕の目に選ばなかったかもしれない別の未来が蜃気楼のように重なって見えるようになった。
右へ行けばどうなるか。左へ行けばどうなるか。無数に分岐し、平行して流れる時空間の糸。
決して触れることの出来ない、けれどすぐ隣にある世界。
自ら覗き見る術を知らない幼い僕の視界を、大切な局面においてだけ、普段は気にも留めないその景色が強い引力を持って支配する。
――今まさに、頭の中にふんわりと二つの映像が浮かび上がっていた。
一つは、僕があの竜に声をかけず、このままリュカの元へ戻る隣の世界。
そこで僕は、僕が見た夢の正体に気付くことなく――それでも、ただ無知で幸福な竜として生涯を終える。
もう一つは――決闘場の裏道で力尽きようとしているひとりの竜種に声をかける隣の世界。
その先で何が起こるのか、細かな景色までは見通せない。ただ、その道を選べば、僕はもう今のままの無知で幸福な竜ではいられなくなる。
温かい箱庭が壊れ、二度と戻れないことだけは、肌が粟立つような確かな重圧として伝わってきた。
前者を幸福と呼ぶのだとしても。
それでも、僕は嫌だった。
リュカは僕に「家族になろう」と言ってくれた。
もし僕が、世界の冷たさや自分の夢の正体から目を背け、ただ甘やかされて生きるだけの空っぽな存在で終わるのなら――それは結局、貴族に飼われている幸福な道具でしかないじゃないか。
彼がくれた家族という温かいエゴに応えるためには、僕はこの世界の本当の形を知らなければならない。
卵の中で見た、少女が泣いていた理由を探さなければならない。
きっとそれが、僕の生まれた意味だ。
だから僕は、自分を探すリュカの呼びかけに短く返事をすると、薄暗い通路の隅でただ死を待っているだけの、角のひび割れた竜の元へと歩み寄った。
「……君、もうすぐ死ぬんだね」
僕が声をかけると、その竜は濁った目でゆっくりとこちらを見上げた。
怒りも、悲しみもない。ただ己の終わりを受け入れた、空っぽの瞳だった。
「あぁ。俺は、誤ってまた上級貴族の竜に怪我をさせてしまった。主は酷く怒っていたな」
主に怒られる――僕は言葉の意味が理解出来ず、でもわざわざ聞くのは野暮だと口を閉ざした。
僕のように、広い庭で本を読み、リュカと日向ぼっこをするための時間は、彼には一秒も与えられていない。
「……名前は? 母さんからもらった名前があるだろう?」
「アトラス」
名を聞かれたから答える。義務のようなやり取りに、アトラスが今までどんな仕打ちを受けてきたのかを想像して僕はぞっとした。
「アトラス――隣の世界では神話に出てくる巨人なのに。……君は無能だから捨てられたんじゃない。神話の通り、本当は強すぎたから……主を困らせてしまったんだね」
僕の視界に当たり前に映る世界を口に出すと、アトラスは驚きに目を見開いていた。
「俺の名の意味が……因果が分かるのか?」
「うん。やっぱり、僕だけにしか見えてないんだね」
僕はしゃがみ込み、彼の視線の高さに合わせた。
無意識に流れ込んでくるいくつかの映像の中で――アトラスが救われる世界は一つとして存在しなかった。
理不尽に命を終えようとしている彼も、僕と同じように、生まれる前に何か不思議な夢を見たのだろうか。
自分が卵の中で見たあの夢の理由を少しでも知りたくて、僕は彼に問う。それがせめて、アトラスへの手向けの花になればいい、と。
「ねえ、聞きたいことがあるんだ。君は、卵の中でどんな夢を見たの?」
僕がふと尋ねると、アトラスは虚ろな瞳をゆっくりとこちらへ向けた。
「原初の夢、か……覚えていない。夢など、とっくの昔に忘れてしまった」
「原初の夢?」
「あぁ。竜種が卵から孵る時に見る、自分の因果が定まる瞬間。それがどんなものであれ、そこに至るように出来ている。竜種とは因果の生き物だからな」
ひどく平坦な声だった。
ただの道具として消費されるだけの彼らにとって、因果の定まる瞬間に見るという原初の夢など、生きていくのに不要な情報でしかなかったのだろうか。
「お前は、随分と綺麗な鱗をしているな」
そう言ってアトラスは僕の尻尾に視線を向けた。
リュカやお手伝いさんが毎日、丁寧に磨いてくれるんだ。痛くないか、熱くないかって、いっつも僕の機嫌ばっかり気にするんだ――その事実をアトラスに伝えることが躊躇われた。
「……うん、自慢の鱗なんだ」
僕が笑って答えると、アトラスは少しだけ目を細め、どこか眩しいものを見るように僕の角を見つめた。
竜種とは、家を着飾るための装飾品。家格を示すための道具。
それが、この世界における竜種の当たり前の終わり方なのだと、僕はその時初めて知った。
己の因果が定まる瞬間も忘れ、誰の記憶にも残ることなく消えて行こうとするアトラスの姿を目の前に、僕は胸の奥に痛みを覚えた。
「アトラス、僕は君を忘れないよ」
僕のその声は、近付いてくる複数の足音でかき消された。
聞き覚えのある足音が一つ混じっていて、僕は振り返る。
「スピカ! ああ、良かった……どこへ行ってしまったのかと……!」
ひどく切羽詰まった声と共に、リュカが数人の警備員を連れて裏路地へ駆け込んできた。
彼は迷わず僕の傍に膝を突き、どこか怪我をしていないかと、震える手で何度も僕の頬や肩を確かめた。
「ごめんね、リュカ。少し、彼とお話をしていただけなんだ」
僕の視線の先を追い、リュカは薄暗い影の中で蹲るアトラスの姿に気づいた。
リュカの表情が、はっきりと痛ましさに歪んだ。
「……この竜、腕章……グランデ家の竜じゃないか。なんて酷い……。おい、すぐにグランデ家に使いを出してやってくれ。彼らの竜がここで倒れていると」
リュカは背後の警備の一人に、急ぎで知らせに走るよう頼んだ。
彼は決して冷酷な人間ではない。
他家の竜の末路にすら心を痛める優しい人だ。けれど、この貴族社会の常識を根底から覆してまで声を上げるような革命者でもない。彼にできる最大限の誠意が、持ち主に最期を看取らせるための使いを急がせることだった。
「さあ、帰ろう、スピカ」
リュカが僕の手を引く。その手はとても温かく、僕を何より大切に想ってくれているのが伝わってきた。
振り返ると、アトラスの角が乾いた音を立てて欠け落ちた。
使いが到着したところで、あの主が彼を迎えに来るのかは分からない。ただ、僕たちの世界がこの瞬間を最後に二度と交わらないのだということだけは、静かに、けれど確かに理解していた。
◆ ◆ ◆
僕は、原初の夢を忘れることはなかった。
数百年経っても、リュカが老いてこの世を去っても。ヴァレットの当主が代を重ねていっても、決して色褪せることはなかった。
幼い頃は蜃気楼のように揺れていた僕の視界は、時を重ねるごとに澄み渡り、無数に分岐する未来の時空間を確かな精度で観測できるようになっていた。
高みからただ静かに、世界を見下ろすための星の眼。
リュカの跡を継いだヴァレットの人間たちも皆、僕をただの道具ではなく、大切な家族として愛してくれた。
しかし、その優しさは貴族社会においては致命的な異端だった。
彼らは社交界には顔を出すものの、命をすり減らす貴族遊戯には決して僕を出そうとしなかった。そんなヴァレット家を、他の貴族たちが「臆病者」「竜の持ち腐れ」と陰で嘲笑し、次第にはみ出し者扱いし始めていることに、僕は薄々気付いていた。
ただ優しいだけでは、この冷酷な社会では生き残れない。
いつか彼らが、その優しさゆえに他家から排斥され、没落してしまう未来が――僕の星の眼には、はっきりと視えていたのだ。
だから僕は、ヴァレットを守るためにこの力を使った。
右の道へ進めば財を失う。左の道へ進めば政敵の罠にはまる。無数に広がる並行世界の中から、ヴァレットが最も安全に、最も強固な基盤を築ける最適解のルートだけを観測し、当主たちをそっと導き続けた。
この取引には乗るべきだ、あの派閥には近づかない方がいい。
僕が気まぐれのように落とす言葉は、やがて一度の過ちも犯さない絶対の神託として、王家の信用を得て、上級貴族達を取り込み、ヴァレット家を導く指針となった。
血なまぐさい決闘で序列を決めずとも、誰も手出しができない不可侵の領域。
僕が彼らを、貴族社会における特別な家へと押し上げたのだ。
それは、僕を愛してくれたこの優しい家族を、破滅の因果から守るための――星としてのせめてもの恩返しだった。
◆ ◆ ◆
僕が見た原初の夢は、ただひとつの光景だった。
どこか遠い未来。ひどく冷たい灰色の空の下。
血の匂いと絶望が立ち込める中で、ひとりの少女が立ち尽くしている。
頭から血を被ったような彼女の髪は、ヴァレットを象徴する青銀から一番遠い色をしていた。
今にも泣き出しそうに顔を歪め、決して涙をこぼさないよう必死に灰色の空を見上げ――そして、僕の名前を呼んだ。
「――スピカ」
その夢の中での感情をはっきりと覚えている。
君に、ずっとずっと会いたかった――と。
彼女が誰なのか。あの表情にどんな意味が込められていたのか。
僕は、無数に広がる隣の世界を辿り、その少女の姿を探し続けた。
僕の眼は、自分が進む先の未来を直接見ることはできない。未来視ができるのは、あくまでも無数に枝分かれした隣の世界の行く先だけ。そこから僕の進む道の予測を立てなければならない。
だから――彼女をもっと早く見つけ出すことは可能だった。
それなのに見つけられなかったのは、まさか僕が星に還った後の未来――探そうともしなかった世界の終わりに君がいるとは思わなかったからだ。
その盲点に気付き、因果の海の中からようやく彼女の因果を見つけ出した時には、千年の月日が経過していた。
無数にある因果の未来を覗き見ると、その最後はたったひとりの竜種によって終わりを迎えるよう収束していた。
星を終わらせるその竜種の名は――ヒノカグツチ。
竜種は怒りを持たない。しかし、その火竜は臓器を見つけ、怒りを宿し、この星全土を怒りで焼き尽くしてしまう。
その臓器こそ、ルシア・ヴァレット。
彼女は僕が愛した、この優しくて温かい一族の、最後の娘だった。
しかし、ルシアと言うたったひとつの光を見つけ出した代償は大きかった。
僕は無数に広がる隣の世界をあまりにも多く覗き見しすぎたのだ。
かつては指先の震えや木々の葉脈すら鮮明に観測できていた僕の星の眼は、酷使の果てに限界を迎えつつあった。今では輪郭がぼやけ、細部のノイズが混じり、まるで擦り切れた古い絵画のようにしか未来を捉えることができない。
僕は思い知らされていた。
触れられない隣の世界をどれほど覗いても、最後にあるのは灰色の空の下で泣き出しそうな少女が立ち尽くす、代わり映えのしない絶望の光景ばかりだったのだ。
そう――僕の原初の夢もここへ繋がっている。
不完全な映像の断片をかき集めるうちに、僕の淡い希望は完全に打ち砕かれた。
どれほど枝分かれした隣の世界を辿っても、厄災は必ずルシアを見つけ出す。
なら――ヒノカグツチがそもそもこの世に現れない世界ならどうだろう。
その世界は平和だった。世界が終焉を迎えることもない。
でも、だめだった。
ヒノカグツチが星を焼き尽くさないとしても、もう一つの因果が彼女を必ず飲み込んでしまう。
それが王太子ゼファレス・ファ・ヴォルシュタイン。
僕がヴァレット家の竜となり、ルシアが生まれるより先に寿命を迎えてしまうからこそ起こる、最悪の悲劇だった。
僕が星へ還った後、竜を失ったヴァレット家は、容赦なく貴族社会から蔑まれる運命にある。
それを危惧したルシアの両親は、家と娘を守るため、次期王であるゼファレスとの婚約を急いだ。一方のヴォルシュタイン王家にとっても、簒奪者という汚名を雪ぎ正統性を得るために、二千年の歴史を持つヴァレットの血は喉から手が出るほど欲しい切り札だった。
この完璧な政治的利害の一致こそが、ルシアをあの男のもとへ縛り付ける、決して逃れられない因果の鉄鎖となる。
僕が神託を使い、ヴァレットを繁栄さえさせなければ回避出来た未来でもあった。それは既に取り返しのつかない因果となり、ルシアを縛り付けていた。
このヒノカグツチとゼファレス――二つの事象は、隣の世界の僅かな揺らぎ程度では決して消滅しない、歴史の強固な特異点だった。
彼らが存在する限り、ルシアの運命は必ず一つの最悪な結末へと収束していく。
僕が未来を読む時は、必ず今いる世界に限りなくよく似た世界を観察するところから始まる。
これから語るのは、その観測の果てに見えた、最もあり得る未来の姿だ。
王太子ゼファレスの元へ嫁ぎ、心身を徹底的に蹂躙され、王太子の左腕として生きる事しか出来ない人形――美しいけれど血の通わない、まるで造花のような彼女。
そんな絶望の底にいる彼女を、よりにもよって愛を知らない厄災――貴族の道具として心を摩耗させたヒノカグツチが見つけ出してしまう。
彼はルシアを番だと認識した瞬間、彼女を縛り付けるゼファレスを惨殺し、彼女を強引に奪い取った。
頭からゼファレスの血を被り、赤く染まった髪で立ち尽くすルシア。
加害者を失った安堵も、厄災への拒絶すらもできず、彼女はただ空っぽに顔を歪め、灰色の空を見上げた。
――もし、母の昔話で聞いた優しい星が生きていてくれたなら。私を、この地獄から助けてくれたのですか。
僕が卵の中で見たあの景色の真実。それは、ルシアの心が完全に壊れた、絶望の臨界点だった。
彼女が「スピカ」と呼んだのは、希望ではない。完全な孤独と絶望の中での、悲痛な祈りだったのだ。
そして直後、飢えた孤独を抱えたヒノカグツチは、空っぽの彼女を臓器として取り込み、彼女の絶望に呼応するように星ごと焼き尽くして終わる。
――竜種が卵から孵る時に見る、自分の因果が定まる瞬間。それがどんなものであれ、そこに至るように出来ている。
アトラスの言葉通りだった。あの原初の夢の光景は、絶対の終着点として彼女の運命に重い楔を打っている。どれだけ別の可能性を手繰っても、因果の収束によって、彼女は必ずあの灰色の空の下へと引きずり込まれてしまう。
この世界の彼女もまた、その巨大な因果の濁流に飲み込まれてしまうのだ。
僕が生きてさえいれば。
あと少しだけこの寿命が長く、彼女の生きる時代まで届いていれば。僕自身の手で、その理不尽な絶望から彼女を救い出すことができたのに。
……そんなこと、僕が許せるはずがなかった。
僕が千年の時を超えて彼女を見つけ出したのは、あの日、卵の中で僕を呼んだ彼女の涙の原因を知るためであり――許容するためではない。
そんな、誰一人として救われない終幕など、僕は絶対に認めない。
だから僕は、残されたわずかな眼の光をすべて使い、この因果の網目に最後の一撃を打ち込むことに決めた。
たとえそれが、星の眼ですら捉えきれなかった有り得ない奇跡に縋るような、無謀な賭けだとしても。
僕の角はルシアの母、アリアの代で限界を迎える。それはどの世界を覗いても変わらない。
どれほど強く願っても、僕の命はルシアが生まれる前に尽きてしまう。
直接彼女の傍にいて、その手を引いてやることすらできない。
僕は思考を変えた。
どこにも正解がないのなら、僕が創るしかない。
結末の景色が変えられないのなら、そこに至る過程――辻褄を合わせればいい。
彼女がすべてを失って絶望するのではなく。僅かでもいい。彼女が僕の名を呼び、そこに幸せが少しでも残っているのなら。
そんな意味の反転が成立する道はないか。彼女が笑って終われる道はないか。
そして――ほんのひと握りの、針の穴を通すような奇跡の果てに、ひとつの可能性を見つけた。
彼女が、最強の厄災の手を取り、ヒノカグツチを御する道。
それは、どの隣の世界にも存在しなかった、全く新しい一本の糸。
その奇跡を現実として成立させるためには、僕がこの世界の歴史に、幾重にも重なる嘘を仕込む必要があった。
まず、ヒノカグツチに心を与えなければならない。
数多に見た隣の世界の中で唯一、ヒノカグツチが厄災として顕現しなかった世界――それは、アグレストと言う家に賜られた世界だった。
そのためには、タイミングを合わせなければならなかった。ルシアが生まれるよりちょうど三百年前。少しでもズレれば、ヒノカグツチは別の家に行ってしまう。
ルシアが生まれるよりちょうど三百年前、僕はわがままを言って女王の巣へ送ってもらい、カリナへ運命を仄めかした。
ヒノカグツチが誕生する事は既に因果で決められていた。ダイヤモンドと、隣の世界で最大のダイヤの鉱石の意味を持つふたり。彼らが結ばれ、彼女が命と引き換えに最悪の厄災を産み落とす。
次に、その命をアグレスト家へと届けなければならない。
僕は王家に対し、一つの嘘の神託を遺した。
「やがて生まれる最後の子。炎に包まれたその厄災は、英雄へ捧げよ。名を――アグレスト」
なぜアグレストがあの厄災を押さえ込めたのか、その過程までは見えなかった。ただ、そうしなければ彼は貴族の道具になり果て、三百年後にルシアの怒りを燃料として世界を終わらせてしまう。彼が炎を抑える術を学び、ルシアがヒノカグツチを御するためには、どうしてもアグレストが必要だった。
だけど、ヒノカグツチに心を持たせるだけでは、ルシアは救えない。
人の心のままでは、たとえヒノカグツチが優しさを持っていたとしても、彼の持つ破壊の衝動を抑え込むことはできない。
ルシアを苦しめる世界から彼女を守るために、結局のところ、彼女はヒノカグツチと共に世界を焼き尽くし、灰の地平で彼と二人きり、永遠の孤独を彷徨うことになる。
それは、ただの延命だ。彼女が真に救われたとは、到底言えない。
世界は灰になろうと構わない。
ルシアが笑えない世界なら――それは僕の正解じゃない。
そのためには、絶望の淵にあっても正気を保ち、運命を呪ってでも生きたいと叫ぶ、狂おしいほどの生への執着――既存の因果を跳ね除けるほどの怒りが必要だった。
その怒りに火を点け、彼女を一人の人間としての生に繋ぎ止めさせることができる唯一の存在――そんなものは、どの世界を見渡しても見つけられなかった。
数多の隣の世界を、吐き気がするほど覗き見ても、そこにあるのは同じ絶望の反復だけ。
ゼファレスに心身共に壊され、人形と成り果てたルシアが、誰からも救いの手を差し伸べられず灰色の終焉へと向かう姿だけだった。
――だけど、たった一つ。
無数の絶望の因果の中で、僕の星の眼が釘付けになった光景があった。
その世界でも彼女はゼファレスの人形だった。けれど、王宮の片隅で虚ろに佇む彼女に、一人の庭師の男が声をかけたのだ。
周りの貴族たちが腫れ物に触れるように彼女を避ける中で、その男だけは、彼女をヴァレット家の娘でも王太子の所有物でもなく、ただ一人の少女として見つめ、不器用に言葉を贈った。
それはほんの些細な、取るに足らない言葉だ。
王太子から攫っていくようなそんなロマンチックなものではなくて――ただ、目の前の花の美しさを共有するだけの、ほんとうに、些細な言葉。
――その瞬間、死んでいたはずのルシアの瞳に、ほんの僅かな光が灯るのを僕は見た。
直後、その世界でもルシアはゼファレスに徹底的に叩きのめされ、最悪の終焉へと引きずり込まれてしまう。男の小さな抵抗は、巨大な因果の前にはあまりに無力だった。
けれど、僕は知っている。因果の海の中で、彼女の心に触れることができたのは、後にも先にも、隣の世界の君ただ一人だった。
「……アルト・アグレスト。君なら、できるはずだ」
あの世界では間に合わなかった。あの世界では力が足りなかった。
ならば、僕がこの世界で準備を整えてやる。
三百年かけてヒノカグツチを家族として育み続けた、アグレストの血を受け継ぐ君であれば。
君がヒノカグツチを御する力を持ち、ルシアと同じ時代に生まれ落ちるのなら、きっとやってくれる。
彼なら、ゼファレスから彼女を守り切れるはずだ。
全てを諦めかけた彼女の胸に「生きろ」と、この世界を壊してでも幸せになれと、強烈な自我を刻み込めるのは君しかいない。
だから最後にもう一つ。ルシアがゼファレスの毒牙に掛かる前に、彼女を隠し、絶望から遠ざけるための盾を用意することにした。
これはもう、賭けに近い。
彼女の両親が王家との利害に靡く前に、絶対に覆せない因果の鎖で彼女を繋ぎ止めることは、この瞬間にしかできないことだったからだ。
僕は、のちにルシアの祖父母となる今の当主夫婦を連れて、あえて野盗の出没する街道へと向かった。
直後、茂みを掻き分けて男たちが現れ、そして――期待通りの暴力が、それらを一掃した。
返り血を浴びて現れたのは、獲物を片手に、獰猛なまでの生気を放つアグレストの男。
その圧倒的な力を前に、夫婦は腰を抜かしながらも、自分たちが救われたことを悟った。
「ああ……ありがとうございます、アグレストの殿方。なんと御礼を申し上げればよいか……」
震える声でお礼を口にする当主。何でも望みを言ってほしいと、家財を投げ打つ覚悟で縋り付く。その、善意と安堵に満ちた絶好の機会を、僕は逃さなかった。
僕は待ちわびていた会合に、その男の元へ歩み寄った。
まだ戦いの熱が引かない彼の手を握り、背後の二人に、そしてアグレストの男に、魂を削り出すような声で最後のお願いを口にする。
「――アグレスト。僕はもうじき、この世を去る。僕がいなくなったあと、どうか、ヴァレットを、僕の愛した家族を守ってほしい」
唐突な僕の言葉に、場が凍り付く。だけど、僕は止まらない。
「お礼は――そうだな。将来、貴殿の家に男の子が生まれたなら、ヴァレットの娘を娶らせたい」
それはあまりに飛躍した、けれど拒みがたい神託だった。
命を救った直後の高揚感と、救われた直後の極限の恩義。その渦中で、アグレストの男は僕の金色の瞳の奥に潜む、狂おしいほどの情念に圧し潰されそうになり――。
「……それは、噂に聞く神託でしょうか?」
「あぁ、そう思ってくれて構わない。君を――君たちを僕は信用している。こうして僕の大切な人たちを助けてもらったことだしね」
「アグレストはヴァレットの足元にも及ばない下級貴族ですが――」
男が戸惑い、僕と当主夫婦を交互に見やる。
無理もない。名門ヴァレットが、本来交わるはずのない下級貴族に縁談を申し込むなど、正気の沙汰ではない。
けれど、その言葉を遮るように、当主が静かに僕の隣に立った。
僕の金色の瞳を見つめる当主の目にあるのは、盲目的な服従ではない。約二千年もの間、一族と共に歩んだ守護竜に対する、絶対の信頼だった。
「……スピカ。お前がそこまで言うのだ。この御仁こそが、お前が去った後のヴァレットを救う唯一の楔になるのだね?」
僕はただ、短く頷いた。
当主はそれだけで、僕の言葉の裏にある焦燥と祈りを汲み取ってくれた。彼は深く息を吐き、今度はアグレストの男へと向き直る。
「失礼した、アグレスト殿。……驚かれるのも無理はない。だが、このスピカが、御礼の品ではなく貴殿との縁を望んだ。スピカの言葉は我ら一族にとって、何物にも代えがたい福音なのです」
当主は、戸惑う男の手を自ら取り、力強く握りしめた。
「もうじきヴァレットは竜なしとして没落する。その痛みに我が子どもたちが苦しまぬよう……貴殿のその勇猛さを、どうか我が末の代まで、傍に置いてはいただけないだろうか」
妻もまた、慈しむような眼差しで僕の背に手を添え、男へ深く頭を下げた。
僕の言葉を正解として受け入れ、自分たちの意志として縁を結ぼうとする二人の覚悟。
アグレストの男は息を呑み、己の血塗れた手と、まっすぐに彼を見つめる老夫婦を交互に見比べた。
これから没落の危機を迎える名門の盾となる。それは下級貴族にとって余りある誉れであると同時に、底知れぬ重圧と闘争の未来を約束される呪縛に他ならない。
――だけど、彼は逃げない。僕はそう確信していた。
なぜなら彼らは、他でもないアグレストなのだから。
かつて僕が嘘の神託によって押し付けた、ヒノカグツチという最悪の呪い。それを忌み嫌うことなく、三百年の時をかけて家族として受け入れ、解きほぐしてきた強靭な一族。
理不尽な因果を背負い、守り抜く覚悟など、彼らの血にはとうに刻み込まれているのだ。
やがて男は、すべての退路を断つように、迷いなく力強く拳を胸に当てた。
「……そこまで仰られるのなら。畏まりました。御心のままに。そして、ヴァレットの信頼に応えるべく。我がアグレストの血筋、命を賭してその因果をお引き受けいたしましょう」
アグレストとヴァレットが許婚の約束を交わさなければ、ルシアは幼い頃からゼファレスの毒に侵され、ヒノカグツチと出会う前に心を壊してしまう。
アルト・アグレスト。
……君を巻き込む罪悪感はあった。
この先に何が起こるのかは、もう未知数だ。上手く行く保証なんてどこにもない。
それでも僕は、この二千年の愛を全て君に賭けることにする。
それから数年の時が経ち、僕の角にひびが入った。
ルシアの母になるアリアにはまだ伴侶はいない。
どれだけ寿命を引き延ばそうとしたとしても、あと数年は持たない。
それから数カ月が経ち、ヴァレットとの別れの時が来た。
僕は、僕を愛してくれたヴァレットの人間に見守られながら、静かにこの物語の本を閉じようとしていた。
(……あぁ。そうか)
その時、僕はひとつの矛盾の答えに辿り着いた。
竜種が孵る時に見る原初の夢は、自分が必ず到達する確定した因果だ。
僕の肉体が、ルシアが生まれる前に滅びてしまうのなら――なぜ僕の因果が定まるその瞬間に、彼女がいたのだろうか。
答えは簡単だ。
僕の原初の夢は終わっていない。
あの灰色の空の下で彼女が「スピカ」と呼ぶ、変えられない因果。
ただ、その言葉の意味だけを絶望から、誇りへとすり替えるために――僕はそのためだけに君に会いに行く。
「――待っているよ、ルシア」
家族に見守られながら、僕は空を見上げてひとり呟く。
僕は、一足先に星へ還る。
君が泣けなかった夜に。一人で復讐を背負おうと凍える夜に。そして、死の淵で自分を見失いそうになるその瞬間に。
君に会えるその日まで、いつだって君を見守る、ただの優しい光になろう。
僕の原初の夢は、絶望なんかじゃない。
まるで星の光のように、君に届く頃にはもう消えていたとしても。
この星の光を、君と会うための道標として。
あと少し。
あともう少しで君に会える。




