幕間.■■■・ファ・ヴォルシュタイン
「――血は争えぬものですな。玉座の装飾を替えたところで、野蛮な簒奪者の気配までは拭いきれない」
すれ違いざまに落とされた老いた貴族の呟きは、誰に宛てたものでもない独り言を装いながら、正確に僕の鼓膜を叩いた。
大理石の冷たい廊下。十三歳の僕は立ち止まることなく、表情の筋肉ひとつ動かさずに歩みを続ける。空っぽになった左袖が、歩調に合わせてひどく軽く揺れていた。
簒奪王家という血の呪い。旧体制派の貴族たちが放つ、ねっとりとした悪意と蔑視。
この毒の雨から僕を守っていた母の強さを、失ってから改めて知る。
三年前。国中を覆った流行り病の際、王室の医師団は平民の出である母よりも、歴史ある上級貴族たちの治療を優先し、母を見殺しにした。
その怒りと絶望の果てに、僕は祖父の竜の因果を書き換え、あの悍ましいデッドアッシュという怪物を作り出した。
代償として左腕を食われ、祖父と同じ命定改名を発現させた僕に対し、父である王が与えたのは労いでも慰めでもなく――「ゼファレスと名乗れ」という、王家の都合にまみれた命令だった。
僕から、母が愛情を込めて呼んでくれた本当の名前を奪い取ったのだ。
母を殺した貴族たち。母との最後の繋がりだった名前すら奪った父――あぁ、お前らがのうのうと平穏を享受していることが腹立たしい。
致死量の毒を素肌で浴び続けているこの密室で、僕は貴族たちを追い詰めることも、父に歯向かうことも――何も出来ず、ただ孤独に耐えることしかできない惨めな子どもだった。
ふと視線を向けると、中庭に兄のアシュレイの姿があった。
兄は貴族たちの猛毒のような暴言などまるで耳に通っていないとばかりに花を見ていた。ノエルというただ一人の女の幻影。その強烈な執着によって脳を満たされた兄には、貴族たちの放つ冷ややかな視線も、陰湿な嘲笑も、一切のノイズとして届いていなかった。
(……狂人が。羨ましいことだ)
僕は奥歯を噛み締めた。
兄は傷ついていない。傷つく世界に生きてすらいない。
それに引き換え、自分はどうだ。聡明すぎるが故に、向けられる悪意のすべてを正確に理解し、処理し、孤独に耐えることしかできない。
己の手足となる権力も左腕も持たない今の僕にとって、沈黙と無表情だけが唯一の防具だった。
いつか絶対に、父を、兄を、そしてこの私腹を肥やす豚どもをこの国の肥料にしてやる。
残された右手の袖の中で、血が滲むほど固く拳を握り込んだ、その時。
「殿下」
ふわりと、柔らかい香りが僕の横に並んだ。
数日前から僕の身の回りの世話を任された、ルウシェという使用人だった。
彼女は僕の視界を遮るようにあえて半歩前に出た。そして、貴族の背中が消えた廊下の先を、身分不相応なほど冷たい横顔のまま、射殺すような瞳で睨みつけていた。
僕が咎めるよりも早く、ルウシェは振り返り、その表情を一変させた。
痛ましげに眉を寄せ、僕の硬く握られた冷たい右手を、両手でそっと包み込む。
その温度が、とてもあたたかかった。
「……お辛かったですね」
「……何がだ。僕は何も」
「隠さなくてよろしいのです。あのような卑劣な言葉に、殿下が心を痛める必要など一切ありません」
彼女の温かい体温が、僕の凍りついていた指先にじんわりと流れ込んでくる。
ルウシェは周囲に人がいないことを確認すると、使用人としての垣根を越え、僕の細い肩を抱き寄せた。
「怒ってもいいのです。悲しんでもいい。私が、殿下の悲しみをすべてお預かりしますから。……あなたはまだ、無理をして大人になる年齢ではないのですよ」
その腕の中は、僕が三年間、血を吐くような思いで探し求めていた安全地帯そのものだった。
名前も、左腕も、母の愛も奪われた僕が見つけた唯一のぬくもり。
僕の脆く弱い空白を、彼女はまたたく間に満たしていくのだった。
それから、ルウシェは常に僕のそばにいてくれた。
庭園の隅で吐き捨てた孤独も、誰にも理解されない子供じみた空想も、彼女だけは逃さず拾い上げ、慈しむような笑顔で頷いてくれた。
世界中が僕を簒奪者の血と蔑んでも、彼女の掌だけは、僕がただの僕であることを肯定し続けてくれたのだ。
「殿下」
ある、ひどく冷え込む眠れない夜のことだった。
僕はいつものように、彼女に隣にいることを求めた。
重く湿った王城の闇の中で、ただ隣に彼女の体温があるだけでよかった。
母を亡くしたあの日から、僕の心の奥底に空いたままの巨大な空白を、その静かな鼓動で埋めてほしかった。
それなのに。
「……ルウシェ?」
ルウシェは、最後まですべてを肯定する聖母の顔を崩さなかった。
彼女は優しい声のまま、僕を愛着を求める子供としてではなく――権力を持つ男として撫でた。
ルウシェの手のその温度が恐ろしくなった。
「これからもずっと、殿下の特別でいさせてくださいね」
蕩けるような甘い吐息。
それが僕の耳を打った瞬間、脳内の論理回路が、おぞましい真実を弾き出した。
その言葉は、今までルウシェが与えてくれた無償の愛の請求書。未来の王座への予約票だ。
彼女が与えてくれた慈しみも、僕を包んだ微笑みも、すべてはこの瞬間に僕を飼い慣らすための、極めて精巧な投資に過ぎなかったのだ。
その愛は、僕が母から受け取るはずだったものとは、あまりに似ていて、決定的に違っていた。
僕が望んだのは救いだったのか、それとも彼女が一方的に押し付けた呪いだったのか。
それを理解する猶予さえ与えられないまま、暗闇の中で布の擦り切れる音だけが、耳障りなほど大きく響いた。
拒絶すべきだった。
けれど、今ここで彼女を突き放せば、彼女は僕の前から消えてしまう。
あの冷たい土の下に眠る母と同じように、二度と手の届かない場所へ。
僕は吐き気を催すほどの自己嫌悪を、ただ静かに飲み込んだ。
母を失わないための代償として、自らの尊厳を性愛という名の取引に差し出す。
その夜、十三歳のゼファレスという少年は死に、他者の打算を数値でしか測れない冷徹な怪物が、僕の殻を破って産声を上げた。
◆ ◆ ◆
初めての夜を越えてから、幾度もルウシェと肌を重ねた。
けれど、重ねれば重ねるほど、僕の心は満たされるどころか、磨り減った砂時計のようにさらさらと崩れ落ちていった。
母の温もりを求めて縋り付いた腕の中は、今や冷たい取引の匂いしかしない。彼女が僕を愛おしげに撫でるたび、その指先が僕の背負う王位継承権という重みを計量しているのが分かってしまう。
――これで最後だ。
僕は、自分の中に残った最後の一滴の期待を懸けて、賭けに出ることにした。
もし、彼女がこの言葉を聞いても僕を抱きしめてくれるなら。打算でもいい、ただの僕を愛し続けてくれるのだと証明してくれるなら。
「……ルウシェ。僕は決めたんだ」
暗がりの寝台で、僕は彼女の柔らかな肩越しに、震える声で告げた。
「……君には、僕の側で、ただの使用人としてずっと一緒にいてほしいんだ。地位も名誉も与えられないけれど、二人で静かに生きていこう」
一瞬、空気が凍りついた。
静寂。僕の心臓の音だけが、期待と恐怖で早鐘を打つ。
だけど、返ってきたのは、慈愛に満ちた母の抱擁ではなかった。
「……は?」
耳元で響いたのは、地を這うような低い、濁った声だった。
僕を抱いていた腕から、体温が急速に失われていく。ルウシェは乱暴に僕を突き放すと、寝台の上に起き上がり、暗闇の中で僕を見下ろした。
「冗談でしょう。王妃にしないってこと? ……あんた、自分が何を言ってるか分かってるの?」
「ルウシェ、僕はただ、君と――」
「黙りなさいよ、このガキが!!」
鋭い罵声が、僕の鼓膜を切り裂いた。
ルウシェの顔から、聖母の仮面が剥がれ落ちる。そこに現れたのは、獲物を逃した獣のような、剥き出しの悪意と醜悪な憤怒だった。
「誰があんたみたいな簒奪者のガキと、好き好んで寝るっていうのよ! 気持ち悪いのよ、母親の影を追って甘えてくるその目が、その手が、その声が! 私がどれだけ吐き気を堪えてあんたの相手をしてきたと思ってるの!? 全部、王妃になるためよ! あんたを操って、一番高い場所へ行くためだったのに!!」
言葉の礫が、僕の心を粉々に粉砕していく。
ああ、やっぱり。
僕が愛した母は、最初からここにいなかった。僕が守ろうとした安全地帯は、僕を食い物にするための蜘蛛の巣だった。
「あぁもう……ほんっとふざけないで。左腕の欠けたあんたが、私なしで生きていけるわけないでしょう!」
ルウシェが、醜く顔を歪めて僕の髪を乱暴に掴み上げた。
僕の視界にはルウシェはもういない。目の前には知らない獣が鼻息を荒くして怒り散らしていた。
「これからも私の言うことを聞いて、私に縋っていればいいのよ! この惨めなガキがッ!」
彼女から放たれた支配の暴力と悪意が、密室の空気を黒く塗り潰す。
(……ああ。もう、いい。もう、嫌だ)
僕は目を閉じた。
絶望ですらなく、ただ、すべてを終わらせたいという無色の虚無。
僕がその闇に沈もうとした、その瞬間だった。
肉を掴む鈍い音と、空気が爆ぜるような圧力が部屋を支配した。
目を開けると、そこには音もなく現れたデッドアッシュの右腕が、ルウシェの首を掴み上げていた。
「ぐ、あ……っ、はな、して……ッ!!」
なにが起こっているのかよくわからなかった。
ルウシェは刃物など持っていなかった。僕の命を奪うつもりもなかっただろう。
だが、僕の心が完全に砕け散り、暗闇に落ちようとしたその瞬間――デッドアッシュはその首をへし折った。
――ばき。
乾いた、残酷な音が響いた。
花の茎を折るような、あまりに呆気ない幕切れ。
首の骨を折られたルウシェの身体が、人形のように床へと崩れ落ちる。
先ほどまで呪詛を吐き散らしていた口からは、もう何の音も漏れない。
静寂が戻った。
僕は、デッドアッシュを見た。
血に濡れたその腕。無機質な瞳。
心拍が跳ね上がる。脳に血が巡る。
脳裏をよぎったのは、十歳のあの日、僕が振り払ったあの大きな手だった。
まさか。
こいつは。
いや。そんなはずはない。
ありえない。あってはならない。
もしそれが事実なら、ほんとうに欲しかったものを、とっくに自分の手で破壊していた事になってしまう。
だから、僕は思考を塗り潰した。
これは愛ではない。情ではない。
僕が改名で因果を歪めた結果、主人の不快感に物理反応するようになった、ただの便利な欠陥だ。
頬を伝う涙さえ、もう出なかった。
(……壊れたんだ)
僕も、ルウシェも、デッドアッシュも。
デッドアッシュは何も言わず、その肉塊から興味を失うと、いつものように静かに壁のそばに立った。
僕は、ルウシェだったものを目の前に、声を上げずに笑った。
明日からはもう、誰も信じなくていい。
打算を測り、盤面を操り、独りで生きていく怪物になればいい。
十三歳の僕は、その夜、本当の意味で息を引き取った。
◆ ◆ ◆
――ルシア・ヴァレット。
二千年続く由緒正しき貴族名家の、最後の娘。
その血統の美しさと純度は、竜なしの家になろうとも貴族社会において誰もが知る最高級のブランドだった。
しかし、そんな極上の駒が嫁ぐ先は、なぜか社交界に顔すら出さない無礼なオルドレア辺境の田舎の下級貴族、アグレストだった。
歴史もない。社交もない。王家への貢献もない。
貴族社会において、歴史と社交という裏付けのない武力など、ただの野蛮な暴力でしかない。なぜヴァレット家は、そんな泥にまみれた猿に一族の血統を投げ捨てるような真似をしているのか。
合理的ではない。誰もが不審に思いながらも、不可侵の領域であるヴァレット家を前に口を噤んでいた。
僕自身も、眼下で繰り広げられる貴族遊戯を見下ろしながら、その不可解な盤面を測りかねていた。
――それは、瞬きを許さないほどの一瞬のことだった。
決闘場の中央。
夜の闇ごと焼き尽くすような紅蓮の火柱が上がり、千八百年の歴史を誇るグレイシャル家の白竜が、まるでただの羽虫のように石畳へ叩きつけられた。
「……ほう」
貴賓席から見下ろす僕の口から、感嘆の息が漏れる。
なるほど、確かにあれほど規格外の力を持った竜を有しているのなら、アグレストの家が武力においてのみ強烈な発言力を得ることは可能だろう。
戦術も何もない。ただの圧倒的な暴力。
僕が盤面を支配するための手駒としては、悪くない性能だった。
「勝者――アルト・アグレスト!」
鐘の音が響き、審判が勝者の名を告げた。
石畳の中央で、狂暴な火竜を隣に従え、のん気に笑っている若い青年。
審判がその名を高らかに叫んだ瞬間。
僕の心臓が、不自然な拍動を打った。
ありふれた、どこにでもある名前だ。そんな名を持つ貴族など、この王都には掃いて捨てるほどいるはずだった。
アグレスト。
毎年の竜継の儀に招待状を送っても、一度として返信すら寄越さない。社交を放棄し、義務を黙殺し続ける、無礼なだけの下級貴族。
僕の盤面においては、存在しないも同義のノイズだと思っていた。
しかし、初めてこの目で捉えたアグレストの竜はどうだ。
先ほど一瞬で白竜を屠ったあの火柱。あれほどの出力、そして精密な制御。王家の資料に記録のない、全くの空白から現れたその個体は、僕が盤面を完成させるために不可欠な、史上最強の王の剣に相応しい性能を秘めていた。
あの個体を王家が収め、僕の道具として再定義する。それはこの国を盤面ごと統べる上で、極めて合理的で、正当な支配の拡大であるはずだ。
……そう、思考の表層で計算を弾きながら。
それ以上に、視界に映る不気味な絆が、僕の臓器を逆撫でする。
戦いを終えたばかりだというのに、その身に纏う熱は春の陽だまりのように穏やかで、無造作に少年の髪をかき混ぜている。
「……クソが」
僕の口から、乾いた呟きが漏れる。
隣に立つ少年――アルト・アグレストには、竜を支配する力も、因果を縛る術の気配もない。ただの凡庸な、どこにでもいるお人好しの青年だ。
なのに、あの火竜は。
青年の「カグツチ、よくやったな」という、なんの重みもない薄っぺらな一言に、まるで世界ですべての肯定を得たかのように目を細め、喉を鳴らしている。
ドラグマキナとは――道具だ。
逆らわない。従うことでしか生きている意味を示せない、進化を辞めた去勢された化物だ。
道具を使うのは人間だ。
それが竜と人の正しい関係のはずだ。
現に僕の背後に立つ灰色の死神は、僕の不快感にのみ反応し、不純物を排除するためだけに存在する完璧な道具として完成している。
それなのに、あの赤銀の火竜には、主従の鎖が見えない。
あの男がふざけて背中を叩けば、火竜は楽しそうに尾を揺らして応える。
そこに介在しているのは、命令や支配ではない。
ただの、盲目的で、あまりに無防備な――信頼と呼ぶには実体のなさすぎる、不気味な絆。
(なぜだ……。なぜ、あんな何も持たない男を、ただの人間を信じきっている?)
カグツチという竜は、アルトという人間を魂ごと預けている。
その名がただの呼び名に過ぎなくとも、社会的地位がなかろうと、そんなことは彼らの絆において一滴のノイズにすらなっていない。
貴族としての矜持も持たず、貴族社会から関わりを断った記録のない空白。
その空白の中で、あの竜はあのお人好しの少年の隣で、ただの家族として完成していた。
(……あぁ。目障りだ。反吐が出る)
僕がどれほど血を流し、左腕を食われ、名前を捨ててまで構築しようとした完璧な盤面が、あんな非合理な、実体のない情に負けている。
僕のデッドアッシュは、僕の心を埋めてはくれない。
僕が支配しなければ、僕の元から去っていく物でしかない。
だが、あの火竜は。
もしあの男がすべてを失い、ただの抜け殻になったとしても、きっと笑って隣に居続けるのだろう。
その確信が、僕の胸をひどく不快に抉る。
羨ましいわけではない。そんなはずはない。
ただ、僕がかつてへし折らざるを得なかったものを、きれいなかたちのまま平然と持ち歩いているあいつが、許せない。
奪ってやりたい。壊してやりたい。
なぜあの男は、僕の手に入れられないものを見せびらかす。
やがて――観客席の入り口から、息を切らして決闘場へと駆け込んでくるひとつの影があった。
「……アルト!」
ルシア・ヴァレット。
彼女は、貴族の令嬢としての体裁など投げ捨てるようにして石段を駆け下り、柵越しにその青年の無事を確認していた。
僕の視線が、彼女の瞳に釘付けになる。
その瞳に浮かんでいたのは、家格への執着でも、勝利の喜びでもなかった。ただ、怪我ひとつなく無事にそこに立っているという事実だけを安堵する、痛切な焦燥。
打算も、利益も、権力欲も一切ない。
それは――かつて母が僕に向けてくれていたものと全く同じ、完璧な無償の愛だった。
「…………」
その瞬間。
僕の胸の奥で、重い蓋で閉じ込めていたはずの昏い泥が、音を立てて噴き上がった。
僕が十三歳のあの夜、永遠に失ったもの。
手に入れたくて、縋り付いて、結局は血みどろの蜘蛛の巣だと知って自らへし折ったもの。
どれほど権力を手に入れても、どれほど他人を操っても、二度と僕の心を満たすことのない――あの温かな安全地帯。
それを、よりにもよって。
あの男は、ただ呼吸をしているだけで当たり前のように享受している。
恐らくこのオルドレアに敵なしであるカグツチを。
その竜との絆を。
貴族社会において没落貴族と謳われながらもその輝きを失わないヴァレットの威光を。
その無償の愛を。
――そして。
(……あぁ。初めてだ、人を殺したいと思ったのは)
貴賓席の暗がりの中で、僕はひどく歪な形に唇を吊り上げた。
吐き気がする。
目障りで、不快で、どうしようもなく殺意が湧く。
計算し尽くされた僕の盤面の上で、あんな非合理な幸福が成立していることなど許されない。
僕が手に入れられなかったものを、あんな凡庸な男が持っているなど絶対に許さない。
だから、奪ってやろう。
そのどちらもを。
時間はいくらだってある。アルトという光を根こそぎ奪い取り、彼女が僕以外に縋れないように心を砕いて、あの温かな愛をすべて僕に向けて搾取し続けてやればいいのだ。
あの紫水晶の瞳も、規格外の火竜も、すべて僕のものだ。
そうでなければ、釣り合わないだろう?
僕は、石畳で笑い合うあの男と火竜、そして美しい令嬢を見下ろし、音もなく冷たい笑みをこぼした。
◆ ◆ ◆
王城の奥深く、冷え切った私室。
眼の前に立つ青年――アルト・アグレストは、少し戸惑ったような様子で僕を見ていた。
「道具が王太子に牙を剥いた。その責を問う」
彼を呼び出した名目はそれだ。だが、僕にとってあんな火竜の不始末などどうでもよかった。
あの火竜は別室で待機させている。目の前の青年が「少し待ってて」と言ったそれだけで、何一つ疑うことなく主と離れた。所詮竜など、人の命令なしでは生きられない欠陥品だ。道具だ。
この男が当たり前のように享受している無償の愛、不気味なほどの幸福。
それを根こそぎ奪い、ルシア・ヴァレットを僕の盤面に引きずり落とすための口実に過ぎない。
僕は部屋の隅にあるショーケースから、実用性のない銀の飾り杯とナイフを無造作に取り出した。
そして、背後に控えていたデッドアッシュの腕を、ナイフで躊躇いなく切り裂いた。
灰色の竜は表情ひとつ変えず、ただ無機質に己の血を流す。
どくどくと溢れる赤黒い液体を杯に注ぎ、僕はそれを男の目の前に差し出した。
「竜の血は猛毒だと聞くが、知っているか?」
僕の問いに、目の前の男は静かに首を横に振った。
その顔に、死への恐怖はない。
(……呆れた。本当に何も知らないのだな)
僕は内心でひどく冷笑した。世間知らずの下級貴族。貴族社会の恐ろしさも、毒の匂いも何も知らない。
一昨日の貴族遊戯だってそうだ。ルシア・ヴァレットという強固な盾に守られ、彼女がその身を呈して盤面を整えたからこそ、なんのお咎めもなく帰れたというのに。自分が何に守られているのかすら理解していない愚か者。
母親の腕の中でぬくぬくと甘えるだけの子供と何が違う。無知蒙昧とはまさにこのことだ。
こんな何も持たない空っぽの男が、あの美しい令嬢の隣に立ち、あの規格外の火竜から親愛を向けられている。
その非合理な事実が、僕の臓器をひどく不快に逆撫でした。
「竜の血を飲め」
僕は、血の入った杯を突きつける。
「そうすれば、カグツチとルシア・ヴァレットには手を出さない」
嘘だ。もちろん、全部嘘だ。
恐怖に顔を歪め、生に執着して命乞いをする無様な姿を期待した。
しかし――この男は、笑ったのだ。
まるで、ずっと昔からこの瞬間が来ることを、予め知っていたかのように。
あの目障りな、自分と同じ色をした瞳が静かに細められる。
「……ええ。あなたが二人に手を出さないと誓ってくれるのなら、喜んで」
彼は差し出された杯を両手で受け取ると、その表面で揺れる猛毒を見つめ――ふと、僕の顔を見て、哀れむように穏やかな声で告げた。
「ですが……こんな事をしても、あなたが欲しいものは手に入りませんよ」
「……なに?」
僕の喉から、低い唸りが漏れる。
この男は、今自分がどんな状況に置かれているか分かっているのか。僕が何を欲していると、知った風な口を利くのか。
「あなたのその言葉が嘘だとしても、構いません。あなたが何をどう奪おうと……ルシアから俺は消せない。もしルシアが俺を断ち切る事を選んだのなら、それはきっと晴れた時だ。あなたの隣ではない」
僕の与えた絶望など端から眼中にないと言わんばかりに。
彼は一切の躊躇いなく、その猛毒を飲み干した。
猛毒を飲み干したアルトの身体に、やがて恐るべき変化が訪れた。
彼は激しくもがき、苦しみ、その頭頂部からは悍ましい角のようなものまで突き出し、まるで内側から自壊していくかのように無惨に壊れていった。
「……広場に晒しておけ」
デッドアッシュに短く命じ、僕は冷え切ったソファへと深く身を沈める。
こんなに感情を表に出したのは――何年ぶりだ。
あの男はこの世に存在してはいけない。殺してやったことに後悔はない。
後の事務処理にしたって、あの男はヴァレットの婚約者という肩書を持つだけの下級貴族。それも貴族からさえ疎まれるほどのはみ出し者だ。
もっと、爽快感に満ちた感覚を得るのだと思っていた。
しかしあの男を殺した後に残ったのは、事務処理の面倒くささだけだった。
喉の奥には、吐き気を催すような苦い沈殿物だけが残っている。
すべてを奪い尽くしたはずなのに、僕の心には何も残らない。何も得られない。
その拭い去れない苛立ちだけが、暗闇の中で黒く、深く、渦巻いていた。
◆ ◆ ◆
(……なぜ、死の間際になって、どうでもいいことばかり思い出すのだろう)
仰向けのまま、身体の芯から冷えていくのを感じていた。震えが止まらない。寒くて堪らない。
カグツチへの改名は失敗。代償は払われなかった。しかしルシア・ヴァレットに触れようとしてカグツチに焼き落とされた。これも因果。
デッドアッシュへの改名は成功した。左脚と言う代償を支払って、僕はルシア・ヴァレットに感動の再会の場を与えただけ。これも、因果。
何が兆しだ、何が証だ、何が名誉だ。
僕の四肢に発現した火傷のような跡――これは父が渇望して止まなかった命定改名発現の証。
違う、これは呪いだ。
デッドアッシュを改名したあの日、僕は冷静に――祖父には左腕にしかこの跡がなかったと聞かされたことを思い出していた。
なら、四肢にある僕は全てを失うのだろう。
何が因果だ。まるで生贄じゃないか。
――まだだ。まだ、右脚が残っている。
ルシア・ヴァレットが僕の胸元へ跨った。
「ゼファレス。……私はあなたを殺します」
振り上げた薄刃のナイフを、喉笛に向かって容赦なく突き立てる。
この女には躊躇いと言うものが存在しないのか。
復讐のためなら指を折ることも、仇に傅くこともなんとも思わない――恐ろしい女だった。
それらは全て、死者のためだった。そんな事、理解出来るわけないじゃないか。
狂っている。
この女の呪いを測りきれなかった僕の完敗だ。
口から大量の血が溢れ出した。
しかし、そんな細いナイフとか弱い令嬢の力で僕を物理的に殺すことは出来ない。
――それは本当に一瞬だった。
ルシア・ヴァレットの中に迷いが生じた。
「……おわっちゃう」
まるで迷子の子供のようなその一瞬は命取りになる。
僕は血を吐き出しながら笑った。
笑わずにはいられなかった。
この一瞬で、僕が両手と左脚を失った状態でも、三回はお前を殺せた。でも僕はそれをしない。
一分一秒でも長く、この女が復讐の後の虚無に怯える姿を見ていたかったからだ。
もう僕には何も残されていない。何も残らない。このまま死ぬことに未練などない。
なぜなら、この女は何十年待てど僕のことなど見向きもしないと分かってしまったからだ。
全て、あの男の言う通りだった。
なら、もういい。この女が虚無に堕ちるのを見届けて、全部終わりにしたい。
――はらり、と。
彼女の纏められていた髪の毛束が解けて落ちる。
現れたのは黒い、渦巻状の小さな角だった。
「……はは、……そうか。お前も……道具に、成り果てていたか……ルシア・ヴァレット!!」
なぜ彼女が竜種であるのか、理屈は分からない。
分かる必要はない。それよりももっと重要な事に気付いたからだ。
四肢に刻まれた呪い――やはり、因果は一つ残らず、余すことなく持っていくのだ。
僕には何も残らない。
母を失い、名を奪われ、貴族と父への復讐を誓い、心を壊されたあの日に人を信じることをやめると決めた日から――僕には燃えカス一つ残らないことは決まっていた。
「……竜種に、とって……名が、そんなに大事な、ら……」
ならせめて、決して手に入ることのないこの女に僕と言う呪いを刻みつけてやる。
「《ルシア・ヴァレット》我が……っ、王血により、葬る……!!」
ゼファレス・ファ・ヴォルシュタイン――その真ん中の名を持つ者は、世界に火をつけるために生まれたのだと。
「この命により……汝の名は今より──《ルシファー》と定まるッ……!」
金色の粒子がルシア・ヴァレットを包み込む。
穢してやった。その名を、その誇りを、忌まわしきファの呪いで焼き尽くしてやった。
かつて僕がそうであったように。
「喜べ……王の名を与えて、やる……。苦しめ……その名に焼かれつづ、け……っ」
もう、声は出なかった。
意識が遠のいていく。
もういい。もう、満足だ。この女が命尽きるその日まで、僕と言う火に焼かれ呪われ続けるのなら――こんなに満たされることは他にない。
やがて彼女は、笑った。
その笑顔は僕に向けられたものじゃなかった。
ずっと瞳の奥で鋭く研ぎ澄ませていた僕への憎悪さえ、今は感じられない。
この女は、ぼくを、まったく見ていない。
「――さようなら、アルト」
音が、止んだ。
なぜ、その名を知っている。
そんなはずはない。この女が僕の本当の名前など知る由もない。
彼女が呼んでいるのは、僕ではない。僕の代わりにそれを名乗っていた、あの忌々しい贋作だ。
分かっている。
彼女は最期まで僕を見ていない。彼女の紫水晶の瞳に映っているのは、もうここにはいない死者の幻影だ。
僕は彼女の盤面にすら乗せてもらえず、ただの不快な障害物として排除されるだけ。
あぁ、滑稽だ。
僕の命をかけて、奪い、穢し、作り変えようとした宝石は、僕を認識することすら拒絶して、僕の喉を掴んでいる。
――だというのに。
脳に響いたその音は。
かつて冬の廊下で母が僕を呼んだ声と、あまりに、あまりにも似ていた。
誰にも呼ばれなかった名。
父に剥ぎ取られた名。
王の冠を被るために僕自身が殺した、あの頃の僕の名前。
それを、よりによってお前が紡ぐのか。
指先が食い込む。骨が砕ける。
視界が、真っ赤に燃える。
思考が消える寸前、僕は、勝手に満たされてしまった。
彼女が僕に向けて言ったのではないことなど、どうでもいい。
この孤独な世界で、最後に耳に届いたのが母の愛した僕の名前であったという、ただそれだけのこと。
あぁ――。
お前は最期まで、僕の思い通りにはならなかった。
なのに、お前が僕に与えたのは、僕が一生かけても計算できなかった――救済だった。




