112.晴れの証明
立ち上がろうとして、足元がふらつく。
すぐにカグツチの腕が私の体を支えた。
私は抗うことなくその大きな身体に額を押し当てる。
身を預けるように、そっと寄りかかった。ようやく、縋ることができた気がした。
その腕が、何も言わずに私の背へまわされる。あたたかさだけがただそこにあった。
「……っ、くそ」
少し離れたところにロボと灰だけが残っていた。
スピカが抜けたあとのその身体は、熱も、形も、記憶すらも焼き尽くしたかのように、すべてが崩れ落ちていた。
その灰の色は、竜の名残にしてはあまりにも人間らしく、乾いた風に舞うたび、煌めいていた。
「……ダイヤモンド。そうだったな、それがお前の名だったな。ゼファレスのつけた名前なんざ……隣の世界に、あるわけねェんだよな」
ロボは歯を食いしばったまま、そこに座り込んでいた。
風が吹くたび、片腕で灰をかばうようにしていた。
名とは因果。
因果を結ぶ角は、還るための道しるべで――名を奪うとは、その還る場所を奪うこと。
まだ終わりではない。
それなのに――とても寒かった。
足元には、赤く染まった大理石の床の上で――命の灯を失い、形だけを残した民衆の英雄の骸がそこに転がっていた。
玉座の扉が、乱暴に押し開けられた。
竜継の間に、息を荒げた近衛兵たちが次々と雪崩れ込んでくる。
王の死に気づいたのか、あるいは異変の気配に駆けつけたのか――彼らは武器を構えたまま、足を踏み入れた途端に凍りついたように動きを止めた。
視線の先にあるのは、吹き飛んだ天井。
紅く染まった大理石の床。
そして、その血の海の中で、無残に首を斬り落とされて転がる、彼らの英雄たる王の骸。
「ゼファレス様!! ご無事です、か――」
一人の兵士の悲痛な叫びが、広間の冷たい空気に虚しく吸い込まれる。
一瞬の、息が詰まるような沈黙。
やがて、彼らの視線がゆっくりと王の骸の奥に立つ私へと集まっていった。
血塗れの手に、返り血を浴びた、少女のかたちをしたなにか。
その少女を包み込む、天を焦がすほどの熱を宿した凶悪な厄災の火竜。
状況だけを見れば、私が王を暗殺した大逆人であることは明白だ。彼らは私を憎み、即座に剣を向けて取り押さえるのが兵としての正しい振る舞いのはずだ。
しかし――彼らは誰一人として、私に踏み込もうとはしなかった。
「ひぃっ……!」
誰かの喉から、引き攣ったような悲鳴が漏れた。
私に向けられていたのは、生き物に対する感情ではなかった。
彼らは本能で悟ってしまったのだ。
目の前に立つ血塗れの少女が、人間の理法で裁けるような存在ではないことを。
ただそこにあるだけで、呼吸すら苦しくなるほどの絶対的な死の気配。私が動けば、瞬きをすれば、自分たちは無残に消し飛ばされるのだという、抗いようのない恐怖。
武器を握る彼らの腕が、ガタガタと無様に震え始める。
理解を超える恐怖を前にした時、大衆はそれに名前をつけなければ自我を保てない。
この異常な暴力。この悍ましい瘴気。
それは、絵本の中でしか存在しない、世界を滅ぼす人類の敵。
「………………魔王だ」
誰かが、震える声でそう呟いた。
その言葉が、私を世界の外へ押し出した。口にしたのが誰かはわからなかったが、その言葉は確かに場に染み込んだ。
恐怖と、畏れと、祈りのような、矛盾した温度を孕んだまま。
そして――その瞬間、何かが確定した。
扉の向こうから、ぞろぞろと追加で兵たちが現れる。
その中には、ドラグマキナの姿もあった。
剣を抜く音が響く。兵たちの意志が一斉に向けられる。討つべき敵として、魔王と呼ばれた私たちを包囲する。
私は、どんな表情をしていただろう。
まるで燃え尽きた炎。やがて消える残り火。怒る理由も、戦う力も、もう――残っていなかった。
それでも、まだ終わってはいけない。
人類が私を敵だと定義するその瞬間を、大衆に焼き付けなければ。
「――伏せなさい」
それだけだった。たったその言葉だけで、辺りは瘴気を撒いたかのように重さを持った。
竜たちの視線が、すべてこちらに集中する。次の瞬間――竜たちは膝を折った。
ひとり、またひとりと、大理石の床に跪く。
人間の兵士たちは泡を吹いて倒れる者、完全に心を折られて丸くなり怯える者、逃げ出す者――武力の心得がある屈強な男のみが呆然と立ち尽くしているだけで、全ての戦力が私のたった一言で無に帰した。
命令もしていない。威圧すらしていない。
ただ、私が在るという事実に、人々の精神状態は正常ではいられなかった。
「なんだよ、この威圧……俺も動けねぇ」
ロボが、汗を滲ませながら呟く。
例えカグツチがルシアとして繋ぎ止めてくれたのだとしても――外側はルシファーとして書き換えられている何よりの証だった。
この名の宿る因果は私には分からない。
その名前はこの世界には存在しない。
分からないのに、誰よりもその重さを感じていた。
どうしようもない虚無だけが心に巣食う。
「……行こうか、ルシア」
そう呟いたのは、カグツチだった。
彼は、ゆっくりと私を抱き上げようと手を伸ばす。
その金色の瞳は、ただ、真っ直ぐに私だけを見ていた。
僅かに残った屈強な兵士たちが恐怖を振り払って剣を取る。
その様子にカグツチは忌々しげに目を細めると、小さくため息をついた。
「――待て!!」
張り詰めた空気を切り裂くように、一人の男が群衆を掻き分けて最前線へと進み出た。
分厚いレンズの奥の琥珀色の瞳。
アシュレイ・ファ・ヴォルシュタインだった。
兵士の盾を押しのけ、私の前に立った瞬間。
アシュレイの足が、ガクッと微かに震えたのが見えた。
無理もない。今この広間を満たしているルシファーの瘴気は、ただそこに在るだけで人間の理性をへし折る絶対的な死の圧。強靭な精神を持つ彼であっても、本能が「これ以上近づけば精神が焼き切れる」と警鐘を鳴らしているはずだ。
それでも、彼は奥歯を噛みしめるほどの力で耐え、決して膝を折らなかった。血の滲むような気力だけでその場に踏みとどまり、血の海に沈むゼファレスを一瞥し、そして――ひどく芝居がかった、けれど広間の全員の耳に届くほどの悲痛な怒声を張り上げた。
「……よくも、我が弟を! この国の正当なる王を弑逆したな!!」
それは、事前に示し合わせていた完璧な茶番だった。
この国をまとめるためには、共通の巨大な敵が必要だ。
彼は私を人類の敵として定義し、自らがそれを討伐せんとする英雄としての初仕事を、今この盤面で果たそうとしているのだ。
「全軍、構えろ!! 王の仇たるあの化物を――魔王を討てッ!!」
アシュレイの号令が飛ぶ。
しかし、兵士たちの足は微かに震えるだけで、誰一人として私に踏み込める者はいなかった。
いや、アシュレイの背後に立つ彼らには分かっているのだ。最前線で剣を抜くあの次期王の背中が、どれほどの重圧に耐え、己の命を削って立っているのかということを。
誰も魔王を止められない。
けれど『アシュレイ殿下だけは、一歩も引かずにあの魔王へ立ち向かった』という絶対的な事実が、今ここで大衆の目に焼き付けられた。
それで十分だった。
(……見事です、アシュレイ。あとは立派な王になりなさい)
私は彼に向けて、心の中で小さく称賛を贈りながら――表向きは、人類の敵である魔王としての、ひどく冷酷で傲慢な笑みを浮かべてみせた。
アシュレイの双眸が微かに見開かれ、そして、静かに覚悟を決めたように顎を引くのが見えた。
「――もういいだろ。行くよ、ルシア」
カグツチが、私の身体をふわりと抱き上げた。
次の瞬間、彼の身体を眩い朱の焔が包み込む。
熱を持たないその炎がほどけた時、私の身体は、巨大な火竜の背の上にあった。
硬質で美しい、宝石のような鱗を持つ赤銀の竜。
僅かに動くたびに、その美しい鱗がちりん、と心地よい音を鳴らした。
カグツチは、吹き飛んだ天井――剥き出しになった冬の灰色の空を見上げた。
「ほんっと、この世界の空って曇ってばっかり。だからルシアの顔も暗くなっちゃうんだよ」
竜の喉から響く、地鳴りのような低い声。
兵士たちが怯えて後ずさる中、カグツチは強靭な後脚で瓦礫を踏み締め、巨大な翼を広げた。
「ねぇルシア、見てて」
彼が大きく顎を開く。
竜の口の奥で、星すらも焼き尽くすほどの極大の熱量が、限界まで圧縮されていくのが分かった。
――咆哮。
カグツチの口から放たれた極大の炎の柱が、真っ直ぐに天を穿った。
それはまるで、空を切り裂く一閃。
轟音と共に、視界のすべてが紅蓮に染まる。
それは破壊のための炎ではない。
私を縛り続けていた、あの冷たい灰色の空を終わらせるための炎。
天空を覆い尽くしていた分厚い灰色の雲に突き刺さった熱の柱は、巨大な一閃となって雲を蹴散らし、瞬く間にすべてを焼き払っていった。
熱波が王都の空を駆け抜け、絶望の象徴だった曇天が、みるみると晴れ渡っていく。
あとに残ったのは――。
「あ……」
広間にいた兵士の一人が、武器を取り落として呆然と空を見上げた。
どこまでも高く澄み切った青空。
そして、凍てついた世界を優しく溶かすような、眩しいほどのあたたかな陽光だった。
光の柱が、瓦礫の山となった広間を、そして竜の背にいる私を神々しく照らし出す。
あぁ、そうか。
これが、魔王に定められた、因果の定まる瞬間。
私の原初の夢の、本当の結末。
晴れの証明。
あの日、彼が私にくれた明日は晴れるという約束が、完璧に果たされた瞬間の景色だったのだ。
カグツチは力強く地を蹴り、陽光の降り注ぐ冬の青空へと舞い上がった。
悲鳴と絶望が入り混じる王城を眼下に置き去りにして。
私たちはついに、終わらない灰色の呪縛から抜け出し、光の中へと飛び立ったのだった。




