111.『さようなら、アルト』
スピカの青白い光が、冬の空の向こうへ完全に溶けて消えた。
私は、凍てつくような冷たい空気をゆっくりと肺の奥まで吸い込み、そして静かに視線を落とす。
吹き飛んだ天井。瓦礫の山と化した大広間。
無惨に砕けた大理石の床には、主を失い傾いた玉座だけが静かに残されている。
隣には、私を守り抜いた火竜。
足元には、両腕と片足を失い、己の血溜まりの中でヒュー、ヒューとひび割れた呼吸を繰り返す男の肉塊。
(あぁ……違う)
私は、その光景を眺めながら、ひどく冷静な思考の底でひとつの違和感に辿り着いていた。
かつて私が見た、あの原初の夢の光景。
この広間の惨状は、あの夢と全く同じだ。
しかし、ただ一つだけ――決定的な欠片が欠けている。
あの夢の中で、ゼファレスの首は、血溜まりの中に無造作に転がっていた。
今、目の前で仰向けに倒れているこの男の首は、まだ胴体と繋がっている。
終わっていなかった。
因果はまだ、収束していない。
私が、この手で終わらせなければならないのだ。彼を殺して復讐を遂げるためではなく、私が明日を生きる魔王として、自らの因果を完成させるために。
「ルシア……?」
私の雰囲気の変化に気づいたカグツチが、微かに身を強張らせる。
私は彼に応える代わりに、ずっと手にしていた薄刃のナイフを強く握り直し、血溜まりの中を無造作に歩み寄った。
「……あ、ガッ……」
仰向けのまま痙攣するゼファレスの焦点の合わない瞳が、私を捉える。
私は一切の感情を交えることなく、血に塗れたその胸の上に跨り、彼の身体を完全に床へと縫い留めた。
「ゼファレス。……私はあなたを殺します」
振り上げた薄刃のナイフを、男の喉元――その奥に潜む硬い頸椎を狙い、最短距離で突き立てる。
ゴフッ、とゼファレスの口から熱い血が溢れ出した。
しかし、護身用の薄い刃では、王の執念が宿った分厚い筋肉と骨に阻まれ、首を断ち切ることなど到底不可能だった。
ガチ、と硬質な音を立てて、刃が頸椎の隙間に食い込んだまま止まる。
(……通らない)
この男――死の淵にありながら、なおその骨格すらも私を拒絶しているのか。
どこまでも規格外で、どこまでも忌々しい男。
しかし、その物理的な止まりが、私の中の人間としての最後の糸に手を掛けさせた。
(それでもお前は人間で、私は竜種……)
僅かに力を込めるだけで、この男を絶命出来る。
――ようやく、この時が来た。
この瞬間をどれだけ待ちわびた事だろう。
すべてを失ったあの広場から、私は立ち止まることなく歩いてきた。
しかし、次の瞬間――胸の奥でひび割れるような音がした。
なぜだろう。
あの日からずっと、その顔をはっきりと思い出せなかった。思い出さないようにしていた。思い出したら立ち止まってしまうから。
それなのに、あの、淡い陽だまりの瞳を持つ彼の表情が――はっきりと脳裏に浮かんだ。
あの星明かりの夜、馬車から降りた私へ伸ばされた、名残惜しそうに離れなかった手が。
――大丈夫。君の明日は、きっと晴れるよ。
あの時、彼はどんな表情をしていた?
この手に力を込めたら――もう二度と思い出せなくなってしまう。
そんな気がして。
やめて。
だめ。
――そんなの、いや。
アルトが、きえちゃう。
「……おわっちゃう」
それは、予期せぬ迷い。
喉の奥からこぼれた声は、ひどく幼く、他人のもののようだった。
憎んで、憎んで、それだけを糧に灰色の空の下を歩いてきた。
けれど、この男を殺してしまえば、私の復讐は完遂され、消えてしまう。
それは、私とアルトを繋いでいた最後の糸が、永遠に失われることを意味していた。
この男を殺したら、私の中にアルトはもう残らない。
煩いくらいに脈打つ鼓動が、恐怖となって私を縛る。
分かっていたはずなのに。復讐のあとには何も残らないと。
復讐をすると言うこと、証明すると言うこと、それはあなたとほんとうのさようならをすることだと――頭では分かっていたのに。
今は、前を向くことがこんなにも辛い。
その迷いによる一瞬の硬直を、血溜まりの中の怪物は見逃さなかった。
「っぐ……はぁ、ハ……」
ゼファレスが血泡を吐きながら、醜く笑った。
不意に――はらり、と。私の角を覆い隠していた髪が解けて頬を叩く。
瞬間、その琥珀色の瞳が狂喜に染まった。
「……はは、……そうか。お前も……道具に、成り果てていたか……ルシア・ヴァレット!!」
剥き出しの角を見て、ゼファレスはすべての憎しみをぶつけるように声を震わせた。
竜を支配してきた男にとって、高貴なヴァレットの娘が、自ら汚らわしい竜の血に染まった事実は、何よりの愉悦であり、絶好の攻撃材料だった。
「……竜種に、とって……名が、そんなに大事な、ら……」
彼は王として最後の命を行使するように、残った魔力を振り絞り、最悪の詠唱を紡ぎ始めた。
「《ルシア・ヴァレット》我が……っ、王血により、葬る……!!」
空気が軋む。ゼファレスの右脚から眩い黄金の粒子が舞い上がる。血の匂いが異常な濃さで肺を刺した。
何かが、私の魂のひどく奥深くで無理やり塗り替えられていく感覚。本能的な恐怖に、全身の血の気が引いていく。
「この命により……汝の名は今より──《ルシファー》と定まるッ……!」
刹那、身体の内側が弾け飛ぶような強い衝撃を受けた。
私の名前が、響きが、音が、急速に遠ざかっていく。
つい先ほどまで当たり前に持っていた、たった三つの音の響き――【 】という単語が、記憶の引き出しから乱暴に抜き取られ、どこかへ消えていく。
(……わたし、は……だれ?)
名乗ったこともない不吉な名が、芯に絡みつく糸のように脳の奥へと溶けて広がる。
自分の名前が思い出せない。
三音の響きが、世界から完全に欠落してしまった。
すべてから、遠ざかっていく。
手を伸ばすことさえ敵わない。それはもう、既に、この世界には存在していない。
黒く、ねっとりとした不快感だけが私の中身を満たしていた。
あぁ――名を奪われるとは、因果を殺されるとは、こういう絶望なのか。
「喜べ……王の名を与えて、やる……。苦しめ……その名に焼かれつづ、け……っ」
ゼファレスの声が途切れる。
しかし、彼の呪いは完成しつつあった。
空っぽになった自我の隙間に、ねっとりとした不快な闇が滑り込んでくる。
それが何であるか、竜の血を宿した本能が即座に理解した。
新たに上書きされた名が持つ、絶対に変えられない因果の定まる瞬間。
――原初の夢、だ。
因果を書き換えられた以上、これから見る光景からは決して逃れることはできない。
ならば、目を逸らすな。
この先にどんな残酷な結末が待っていようと、何が焼き尽くされていようと。
私はこの因果を、真っ直ぐに見届けなければならない。
――そして、視界が白く焼けた。
私は、すべてが灰に帰す絶対的な破滅を覚悟して、その光景を見据えた。
しかし、そこに地獄はなかった。
私の世界をずっと塞いでいた分厚い灰色の雲は消え去り、あとに残っていたのは――どこまでも高く澄み切った青空と、眩しいほどのあたたかな陽光だけだった。
『――大丈夫。君の明日は、きっと晴れるよ』
あぁ、そうか。
これが、魔王に定められた因果。
破滅でも、孤独でもなかった。
その晴れた空の下には、宝石のような鱗を鈴のように鳴らす、愛おしい私の厄災がいたから。
それは、彼らが私にくれた、明日は晴れるという約束が、完璧に果たされる瞬間の景色だったのだ。
すべてから遠ざかろうとしていた私の意識が、あたたかな光に満ちたその光景に強く縛り付けられる。
絶望の深淵に沈む必要など、どこにもなかった。
例え【 】と言う名前を失ったとしても、私は歩いていける。
澄んだ気持ちで魔王の名を受け入れようとした、その時だった。
「――ルシア」
鼓膜を揺らす声があった。
現実の、カグツチの声だ。
混濁する意識の中で、彼の声だけが、一音一音を丁寧に紡いで私の存在を強く定義する。
金色の粒子が解け、四散していく。
指先を僅かに動かすことが出来た。
あなたは――私という個をひとつだって取りこぼさない。
そうだ。
私の名は、ルシア。
ルシア・ヴァレット。
例え世界からその名を奪われたとしても、その声が紡ぐこの響きだけは――決して、誰にも奪わせはしない。
迷いは、霧散していた。
ここが、私が目指した復讐の終わり。
例えあなたとの繋がりがここで途絶えてしまったとしても――その糸を、自らの手で断ち切ったとしても。
私はもう後悔しない。この温かな炎を隣に、前を向けるから。
不意に――耳の奥で、あの日の、陽だまりのような声がした。
『大丈夫だよ。……泣いていいんだ。いっぱい泣いて、あとのことは、全部、泣き止んでからでいいんだ』
懐かしい声。愛しい声。大好きだった、その声。
もう二度と聞くことは出来ないけれど、今だけは、確かにこの耳に届いた気がした。
さぁ、私を過去に繋ぎ止める――やさしい鎖を外す時だ。
私は顔を上げ、血塗れの顔で、きれいに笑った。
「泣いたあとに、ゆっくり考えるとしましょう」
さようならは、笑顔で。
それを教えてくれたのは、他の誰でもない、アルトだった。
「――さようなら、アルト」
私はゼファレスの頚椎に刺さったナイフを抜き取ると、無造作に放り捨てた。
金属の軋みが、冷えた床を小さく転がっていく。
代わりに、私の指がゼファレスの首筋を、竜種の膂力をもって強く掴んでいた。
もう、躊躇はない。祈りも、許しも、あの日あの人と共に終わったのだ。
私は最後の糸を断ち切るように、その指先に全力を込めた。
首の骨が砕け、肉がねじ切れる生々しい音が、静まり返った広間に響いた。
噴き上がった生暖かい血が、私の視界を真っ赤に染め上げる。
血溜まりの中へ、無造作に頭部を投げ捨てた。
重たい音がして、沈黙が訪れる。
終わりは、一瞬だった。
私は真っ赤に染まった手を見つめながら、ようやく、ひとつ息を吐いた。
始まりは、銀貨一枚だった。
アグレスト家が表舞台に立ったあの日から、世界は形を変えてしまった。
竜は因果の生き物であるのなら、今日の日の事もまた、種の定められた一頁に過ぎないのだろう。
復讐は終わった。
同時に、私の中の人間としての世界もまた、静かに終わりを告げていた。




