110.二千年の終着点
見上げれば、どこまでも重く澱んだ冬の灰色の空が剥き出しになっていた。
雨粒のように崩れ落ちた瓦礫は大理石の床に弾かれ、血溜まりの中に落ちた。
もはや人としての輪郭すら失いかけた肉塊が、濁った声で呪詛を吐き散らしている。
その蒼い炎は、まるで柔らかな薄衣のように私を包み込み、外界の刺すような冷気から守る盾となる。
カグツチの怒りは、すべてが目の前の男へと向けられていた。
「はや、く、しろ――!」
スピカと呼ばれたその竜は、ゼファレスの断末魔のような叫びに、眉一つ動かさなかった。
青銀の髪を微かに揺らし、スピカは静かに歩を進める。
その足が床を踏みしめた瞬間――カグツチの炎の轟音も、瓦礫が崩れる音も、ゼファレスの耳障りな呻き声も、まるで遠い水底に沈んだかのように遠のいた。
そこだけ世界から切り離されたように、雲の流れのように緩やかな、静謐な時間が満ちていく。
スピカは、必死に首を持ち上げようとし、血に塗れた目で自分を見上げるゼファレスのすぐ傍を――一瞥もくれることなく、ただの石ころを通り過ぎるかのように、静かに通り過ぎた。
「……おいっ、なに、を……?」
ゼファレスの困惑に満ちた掠れ声が漏れる。
自らの命を削り、因果を書き換えてまで手に入れた最強の駒。
それが自分の支配を、存在そのものを黙殺し、敵である私の元へと歩み寄る。
その事実は、盤面の支配者を自称していた男にとって、肉体を損なわれる以上の、決定的な崩壊を意味していた。
スピカの金色の双眸が、蒼の檻の中にいる私を真っ直ぐに射抜く。
カグツチが喉の奥で低く唸り、私をより一層強く腕の中へ閉じ込め、威嚇の炎を一段と強く燃え上がらせた。
しかし、スピカはその熱を恐れる様子もなく、ただ無垢な、あまりに無垢な表情のまま、私の手の届く距離まで歩み寄ってきた。
凍るように澄んだその瞳に、私の絶望に歪んだ顔が映り込む。
ヴァレット家の誇りを、喪われた家族の名を背負わされたその竜は、炎に包まれた私たちの前で、ゆっくりと立ち止まった。
それは、かつて母が語ってくれた、誇り高き竜の礼節そのものだった。
「――やっと、会えたね」
金色の瞳が私を捉え、微笑んだ。
その微笑みは、凍りついた心に静かに寄り添う、暖炉のようなぬくもりだった。
たったそれだけのことなのに――私は、泣き出しそうになった。
「君がルシア。……アリアが、子に名前をつけるならルシアにすると言っていたのを覚えてるよ」
その名は――母の名。私が七つの時に事故で亡くなっている。
母がそう望んでいたことを、私は知らなかった。七歳で失ったその人の声は、今になって、私の胸の奥の一番深いところに落ちる。
「母からもらった名前は特別だ。僕にとっても、もちろん君にとっても」
竜の角の一部が砂のように崩れ、まるで星屑の欠片みたいに床に散らばった。
「カグツチも、久しぶり。――と言っても君は小さかったし、もう覚えていないだろうね。……うん、それでいいんだ」
スピカが満足そうにそう言うと、カグツチは炎を鎮めた。
敵意と言うものが、今のスピカからは微塵も感じられなかったからだろう。
「……スピ、カ、……っぐ……なぜ、僕を見ないッ!」
叫びは、怯えと焦燥が入り混じった、負け犬の遠吠えのようだった。
「――ゼファレス。僕は君と言う人間が個人的に大嫌いだ。もし僕に怒りがあったら、君はもうここにいないだろうね」
それまで歌声のようだったスピカの口調は、ゼファレスへ向いた瞬間に鋭利な刃物のように形状を変えた。
「――命定改名は、万能な力じゃない。言うことを聞かせるための力じゃないんだよ。竜にとって名は、母がくれる祝福だ。君のそれは、祝福を壊す呪いに過ぎない」
声は冷たいわけではなかった。
ただ、諦念のような静けさで、まるで子供を嗜めるかのように言った。
「それにね、僕は少し特別ではあるけど……基本的に何もできない、ただ長生きなだけの竜だよ。毒を消す? そんなこと、出来るわけないじゃないか。まぁ出来てもやらないけどね」
小さく笑う。
その角が、静かに崩れ始めていた。それは、竜としての終わりを告げる静かな鐘の音のようだった。
「さて……無駄話をしている時間は、なさそうだね。二千年分の星の重さを、この小さな器が長く保っていられるわけがないから――すまないね、デッドアッシュ……いや、ダイヤモンド。君の身体を間借りしてしまって。でも君でよかった。君じゃなきゃ耐えられなかった……少しだけ、ルシアと話したいんだ。そしたら君の望む場所へ還ろう」
角だけではない。身体さえもぼろぼろと砂のように崩れていく。
欠片が、あの青白い星と同じ色の粒となって舞い上がる中、スピカはもう一度、私に視線を向けた。
「ルシア、ここまでよくがんばったね。僕は君をずっと見守ってきたよ」
あまりにも優しい声だった。
その言葉を聞いた瞬間、ふと、ある記憶が蘇る。
アルトの竜継の儀の帰り道。寂しさを押し潰して揺られた夜の馬車から見上げた空で、私とアルトとカグツチを優しく照らしてくれていた、あの小さな青白い星。
絶望の中でカグツチの番になると決めた、終わらない死の暗闇。そこで私とカグツチの魂が混ざり合うのを、干渉することなく、ただ静かに照らしていた一筋の光。
「君が泣けなかった日も。一人で寒さに凍えていた夜も。――夜空にあの光が瞬く時はいつだって、君の傍にいた」
知らなかった。顔も、声も、何一つ知らないはずなのに――あの光だけは、ずっと知っていた。あの星だけは、いつも同じ場所にあった。
ああ――あの名も知らぬ優しい星は、あなただった。
彼は運命を捻じ曲げることも、手を出して救うこともなく。ただ私たちが自ら選び取る道を、空から信じて見届けてくれていたのだ。
「……よく、頑張ったね。ヴァレットの人間として、誇らしいことこの上ないよ」
「……ちがい、ます」
ようやく絞り出した声はやはり震えていて、涙が溢れそうになる。
カグツチの腕を握り締め、決して零さぬように務めた。
「私は……復讐でヴァレットの名を穢そうとしています。二千年の歴史を、そして……あなたをも……っ!」
すると彼はまるで父のように、私のしたことなど些細ないたずらとばかりに、笑った。
「そんなことないよ。大切なのは正しさを守ることじゃない。どうあるべきかだ。――ヴァレットの人間なら誰もがそうしただろうし、僕が生きていたなら喜んで付き合っていたよ」
スピカの角が軋む音を立てた。その命の終わる音と共に、彼の身体が白い光に滲んでいく。
「出来ることなら君と一緒の時間を生きたかった。でも……僕が君に会えるのはこの一瞬だけ。遥か彼方で燃え尽きた星の光が、長い時を超えて、今ようやく君の瞳に届いたようにね」
この復讐は、誰にも肯定されるものではないと、ずっと知っていた。
知っていて、それでも前に進むためにここまで来た。その孤独に、今になって初めて、名前がついた気がした。
「二千年間、ずっとこの瞬間を待っていたよ。ルシア。僕を愛してくれた、僕が愛したヴァレットの終わりの少女」
スピカの角の一片が空へと砕け落ちた。
終わりの少女――その言葉に、胸の奥が強く締め付けられる。
狂気の中でデッドアッシュが繰り返していたのは、自分を殺して解放する死神を呼ぶ声なのだと思っていた。
でも、違ったのだ。
彼が自我が擦り切れるまで見続けていた原初の夢は、そんな残酷な結末ではなかった。彼という器にスピカの魂が舞い降り、永遠の悪夢から解放されるこの瞬間の景色。
終わりの少女とは、死神の呼称ではなく――魂を空へ還す奇跡の目印のことだった。
「因果の外の名もなき星のことを――僕のことを、愛してくれてありがとう」
その言葉は私だけに向けられたものではなかった。その祈りは遥か二千年を遡ったヴァレットの一族へ。
私はそれを確かに受け取っていた。
スピカを象っていたものは最期の瞬間に宝石のような煌めきを放った後、灰となり地面に降り積もっていく。
私の瞳が、その瞬間を捉えた。
崩れた天井の向こう、開かれた冬の天へと魂が昇っていくのを――確かに、見た。
天を目指して昇っていくのは、どこまでも澄んだ青白い光。
しかしその眩い光の軌跡の中から、ぽろりとこぼれ落ちるように、もう一つの光が静かに分離した。
終わりのない夢の呪縛から解放されたひとつの魂。
デッドアッシュ――否、彼のその名はダイヤモンド。
青い光から離れ、どこか頼りなく夜の闇を昇ろうとするその光の前に。
ふわりと、どこからともなくもう一つの光体が現れた。
それはまるで、迷子を迎えに来たかのように。ずっとこの時を、この空で待っていたかのように。
ふたつの光は言葉を交わすように優しく寄り添い、やがてひとつに溶け合って、高い天の彼方へと昇っていった。
「……そっか。あれが、オレの生みの親」
私の隣で、剥き出しになった灰色の空を見上げていたカグツチが、ぽつりと呟いた。
しかし、その声に肉親との別れを悲しむような感傷はない。竜種にとって血の繋がりは希薄なものであり、何よりカグツチにとっての家族は、あのアグレスト家で過ごした記憶の中にしかないのだから。
それでも。
「……やっと、一緒にいられるんだね。よかった」
彼らを空へ見送るその眼差しは、過酷な運命から解放された二つの魂への、彼なりの穏やかな祝福に満ちていた。
センスの葬送の日――なぜカグツチは空を見上げていたのか。
その答えを、私はようやく理解した気がした。
煌々と明滅するような眩い二つの光体は、やがて空を越えて消えていった。
否――消えたのではない。
還ったのだ。二度と触ることの出来ない、隣の世界へ。
けれど。
スピカ――あの青白い光だけは、彼らとは違っていた。
吹き飛んだ天井の向こう。灰色の雲が重く垂れこめ、昼の光が世界を平坦に塗り潰している。
魔王となって王家に牙を剥く。
それは、由緒正しきヴァレットの家名を決定的に穢し、二千年の歴史を私の代で完全に終わらせることを意味していた。
家名を泥に落とした罪人として、孤独に見上げるのだと思っていたあの空。
肉眼では星ひとつ見えないはずのその空の断絶の向こう側に。
今も変わらず、あの青白い一番星が毅然と在り続けていることを、もう人ではなくなった、私の竜の目は捉えていた。
彼はどこへも行かない。
還る場所すら持たない因果の外側で、彼はただ、私を――ヴァレットという家の立派な終幕をずっと見守り続けている。
彼がそこにいる限り、私はもう、過去を終わらせる罪悪感に一人で凍えることはないのだ。
「――スピカ」
震える唇が、誇りを込めて自然とその名を紡ぐ。
今にも涙があふれ出しそうだった。
それでも、耐えなければならないと思った。
誇りとともに名前を呼ぶ。
それが、彼に見守られながらヴァレットを終わらせる者としての、せめてもの矜持だからだ。
それは、誇り高き過去との決別であり、カグツチとともに明日を生きるための、はじまりの祈りだった。
決して触れられないはずだった隣の世界――その結び目は、確かに今、私のこの手の届く場所にあった。
青白い光は、もう彼方ではない。
私の中に宿り、終わるための――そして歩み出すための勇気として、息づいている。




