109.それが最悪の最適解だとも知らずに
術の破綻と共に、広間を支配していた因果の重圧が霧散する。
指先一つ動かせなかった私の身体に、再び血が巡り始めた。
「ありえない。王血の呪縛が、絶対の理が……何故だ……」
私がゼファレスの方を振り返ると、あの絶対的な余裕が完全に剥がれ落ちていた。
私の後ろから放たれる、禍々しい炎の殺意を静かに滾らせる厄災の熱。
己の術に裏切られ、盤面は完全に崩壊した。それでも、この男の異常な頭脳はコンマ数秒で生存のための再計算を行い、この場で唯一となる最適解を弾き出した。
「――動くな」
ゼファレスは即座に動揺を切り捨て、極めて冷徹に、私の首元へとその右腕を伸ばした。
自らが最も見下していた暴力を、最短距離で縋るために。
しかし、その合理的な指先が私に触れることは、永遠になかった。
広間の空気が、致死量の重圧を持って凍りついた。
呼吸の仕方すら忘れるほどの、濃密で、純粋な殺意。
常人であれば白目を剥いて泡を吹くであろうその暴威の中で、私はただ、確かな安堵と共に、その熱を守護として受け止めていた。
私の背後で、カグツチが静かに動く気配がした。
「――ルシアに、触れるな」
その低く冷たい声が響いた瞬間。
ゼファレスの身体は、私の首元まであと数センチという距離で、文字通り縫い留められたように硬直していた。
彼の異常な頭脳は「動け」と命令しているはずだ。
しかし、生物としての絶対的な本能が、カグツチの殺気を前に「これ以上進めば死ぬ」と警鐘を鳴らし、肉体のコントロールを強制的に奪っていた。
そのゼファレスの硬直という致命的な隙を、カグツチの炎が見逃すはずもない。
――閃光。
「……あ、がっ!?」
カグツチは私を一切巻き込むことなく、ゼファレスの右腕を――肘から先だけを、恐るべき精密さで完全に焼き切った。
それは、私の復讐を奪う炎ではなく。自らの番に触れようとした不敬を弾き飛ばす、彼なりの純粋な拒絶だった。
命定改名の不発、それから右腕を肘から一瞬で失った痛みにゼファレスの表情が焦燥で染まりきったその瞬間を――私は見逃さない。
静かにスカートの影へと手を伸ばし、太ももに仕込んでいた薄刃のナイフを引き抜く。
そして一切の躊躇なく、無様に膝を突いた男の首元へ向けて、その刃を振り上げた。
「……ッ!」
両腕というすべての手駒を失い、死の刃が迫る絶望的な状況。
しかし、この期に及んでもなお、男の異常な演算能力は止まっていなかった。
彼は、自らを殺そうと迫る私の右腕に向けて、頭から食らいついてきた。
この男は――この窮地に至っても知性の敗北を認めない。盤面上の手駒も、武器も、自らの両腕すらも失った極限状態。そこで彼の冷徹な頭脳が弾き出した生存への唯一の最適解とは、暴走する厄災を止めるため、その意思決定権を持つ私を物理的に拘束し、盾にすること――と、ゼファレスは思っているのだろう。
「っ……!」
腕の肉に牙が食い込む鋭い痛みに、私は微かに顔を歪めた。
同時に、背後の空気が爆発的に膨張するのを感じた。
カグツチだ。
自らの臓器が傷つけられる光景を前に、彼の中で辛うじて保たれていた理性が完全に焼き切れ、今度こそこの城ごとゼファレスを灰にしようと破滅の熱を滾らせたのだ。
私の腕に食らいつき、盾或いは人質として抑止力にする。
カグツチは私を傷つけることを恐れて手出しができなくなる――と思っているのだろうか、この男は。
「――カグツチ」
私は右腕の痛みを堪えながら、彼を宥めるように、ただ静かに微笑みかけた。
カグツチの青い炎であれば、私に傷一つ付ける事なく、今すぐにだって一瞬でこの男を葬れる。
カグツチがいま、この男を殺さないのは私を盾に取られているからじゃない。
カグツチの意思決定権なんて、私は持っていない。
この男は知らないのだ。
カグツチは私との約束を忠実に守ってくれているだけだと言う事を。
私は右腕に鋭い痛みを感じながらも――目の前のゼファレスの顔など、ただの一瞥もくれなかった。
私が真っ直ぐに見つめたのは、激昂し、今にも我を忘れそうな私の愛おしい厄災だけ。
「……ごめんなさい。また、私は自分をぞんざいに扱ってしまいましたね」
背後から伝わる彼の巨大な熱は、今にも爆発しそうなほど小刻みに震えていた。
「お説教は後で聞きます。だから今は――私を信じて」
しかし私のその言葉と視線に、カグツチの業火がピタリと止まる。
私の真意を理解していないゼファレスは、私が痛みに耐えかねて動きを止めたのだと錯覚したのだろう。
喉の奥で這いずるような唸り声を上げ、カグツチの炎から身を守る盾として私を完全に固定すべく、更に顎の力を強めた。
ブツリ、と。
私を強引に引きずり込もうとしたその力が皮膚を裂き、確かな激痛と共に、赤い滴りがゼファレスの口腔へと流れ込んだ。
――彼が、自らの意志でそれを飲み込んだ瞬間。
「えぇ。あなたならどんな死の淵でも諦めず足掻き続けると思っていましたよ、ゼファレス」
痛みに耐えながら、それでも私は勝利を確信し、笑った。
「……、ぁ……」
ゼファレスの喉の奥から、空気が漏れるような間抜けな音が鳴った。
私の腕に突き立てられていた牙から、急激に力が抜けていく。
ゼファレスはゆっくりと私の腕から口を離し、ふらつく足取りで一歩、後ずさった。
その琥珀色の瞳は極限まで見開かれ、虚空を彷徨っている。
彼の異常な演算能力をもってしても、今己の肉体に何が起きているのか、全く理解できていないのだ。
ただの女の血を啜っただけだ。それなのに、なぜ全身の臓器が焼け焦げるような激痛に襲われているのか。なぜ、視界が急速に泥のように濁っていくのか。
――パニックすら起こせないほどの、絶対的な死の進行。
呆然と立ち尽くすその男から私を隠すように、ぐんと強い力で背後へと引き寄せられた。
カグツチだった。
彼は私の肩を抱き寄せ、獣の牙から私を完全に奪い返した。
「……あ」
その瞬間、視界が青白く染まった。
轟音すらなかった。ただ、絶対的な熱量が垂直に跳ね上がったのだ。
カグツチから放たれた蒼い炎の一閃が、瞬時にして竜継の間の巨大な天井を跡形もなく焼き払い、灰色の空へと突き抜けた。
崩れ落ちる瓦礫さえ、地上に届く前に灰へと変わる。
王城を震わせるようなその暴力的なまでの余熱の中で、カグツチは私を壊れ物のように抱きしめたまま、ただゼファレスを見下ろしていた。
私に触れる手は、あんなにも高く天を焼いたとは思えないほどに、ひどく優しく。
けれど、男を見下ろす黄金の瞳は、汚物を見るかのような絶対的な冷酷さに満ちていた。
「……あ、ガッ、ごぼっ……!!」
直後、ゼファレスの口から、どす黒い血液が爆発するように溢れ出した。
抗う術など何一つ残されてはいなかった。
彼は糸が切れた操り人形のように無様に両膝を突き、冷たい大理石の床に大量の血を吐き散らす。
激しく咳き込むたびに、絶え間なく赤い塊が撒き散らされ、己の吐瀉物で純白の床を汚していく。
盤面の支配者として君臨していた男は、もはや言葉を紡ぐことすらできず、自らの血溜まりの中で、ただヒュー、ヒューとひび割れた呼吸を繰り返すだけの肉塊へと成り果てていた。
すべてが、終わる。
私がこの復讐の果てに何を見るのか、それはまだ分からない。
それでも、この男の最期の数秒を見届けることだけが、私が唯一果たさなければならない義務だった。
――ギィィ、と。
その時、沈黙に支配されていた広間に、重たい金属音が響き渡った。
竜継の間の巨大な扉が、ゆっくりと押し開かれていく。
そこに立っていたのは――ロボと、彼の肩に弱々しくすがりつくようにして歩みを進める、デッドアッシュだった。
ロボは広間の惨状を一瞥し、そして自らの血の海に沈む主の姿を認めた瞬間、息を呑んで絶句した。
何が起きたのか、誰が勝者であるかなど、一目見れば明らかだった。
しかし、デッドアッシュは違った。
彼は支えになっていたロボの手から静かに離れると、虚ろな、しかし真っ直ぐな瞳でゼファレスを見つめ、ふらつく足取りで一歩、また一歩と前へ出た。
肉体は限界を超えているのだろう。
その角にはひびが入っていた。
数歩進んでは大理石の床に力なく倒れ込み、それでも痛ましいほど必死に身体を引きずり起こしては、ゼファレスのもとへと歩みを進める。
同情か、憐憫か、それともかつて家族だった男へのせめてもの手向けか。
だが、その痛ましい忠誠を前にして、血溜まりに這いつくばるゼファレスの反応は、私の理解を遥かに超えていた。
ゼファレスは、己に歩み寄るデッドアッシュの姿を――ギリリと、嫌な音が鳴るほど強く奥歯を噛み締めながら、底知れぬ憎悪と屈辱の入り混じった眼差しで睨みつけていたのだ。
それは死の淵にある者の目ではない。自らの完璧な盤面に、最後まで土足で踏み込んでくる予測不能な感情に対する、絶対的な拒絶だった。
「……ゼファレス、様」
ようやくその傍まで辿り着いたデッドアッシュが、かすれる声で何かを伝えようとした、その瞬間だった。
血溜まりに這いつくばるゼファレスの顔が、見たこともないほど醜く、激しく歪んだ。
それは、自分に触れようとするボロボロの道具に対する、剥き出しの嫌悪と拒絶だった。
次の瞬間、ゼファレスの左脚を眩い金色の粒子が包み込んだ。
じりじりと、肉と骨を直接削り取るような悍ましい音。代償となった左脚から爆発的に噴き出した光の粒が、濁流となってあっという間に玉座の間の空間を満たしていく。
「《デッドアッシュ》その名は我が王血により葬る――ッ!!!」
ゼファレスが、その口から大量の血の塊を吐き散らしながら、絶叫のように詠唱を紡ぎ始めた。
広間の空気が、再び異常な密度を持って軋み始める。
あり得ない。これほどの猛毒を急所に受け、もはや両腕もなく、呼吸すらままならない状態の男が、どうして因果を書き換えるだけの術を起動できるというのか。
この男に流れている竜の血とは、これほどまでに強靭なものなのか。
私とカグツチ、そしてロボの間に、底知れぬ困惑が走った。
誰に向かって、何を書き換えようというのか。私たちを道連れにするつもりか、それとも――。
誰の予測よりも、私の剣の反応の方が遥かに速かった。
ゼファレスの身体から眩い黄金の粒子が空間を侵食するより早く。
カグツチは私を強引に引き寄せ、その腕の中にきつく、私の一切の痛みを遮断するように抱きしめた。
どんな因果が襲いかかろうとも、彼は私に指一本触れさせるつもりはなかった。
「やめろ……やめろ、それは……ッ! デッドアッシュが持たねぇッ!!」
ロボの切実な絶叫が虚しく響く。
「この命により、汝の名は今より──《スピカ》と定まるッ!!」
黄金の粒子が爆発的に噴き上がり、玉座の間の空気が悲鳴を上げるように軋んだ。
その瞬間――私の脳内から、ひとつの単語がすっぽりと抜け落ちた。
まるで手のひらですくい上げた水が溢れるような呆気なさに、呆然とする。
目の前で光に包まれていく、灰色の竜。
つい数秒前まで、私は彼の名前を知っていたはずだった。
ロボの戦友であり、ゼファレスを守るために狂い果てたあの竜であり、カグツチの父である――彼の名前を。
なのに、思い出せない。
彼が何者であるかははっきりと分かっているのに、喉まで出かかっているその音の響きだけが、記憶から乱暴にくり抜かれたように完全に消失している。
――名を殺されるということは、魂ごと今までの因果を世界から葬られるということ。その意味を、この空虚と共に身を持って実感したのだった。
そして、空っぽになったその器へ、ゼファレスが新たな呪いとして上書きした名前。
――スピカ。
聞き間違えるはずがない。
それは、かつてヴァレット家が所有し、喪った竜の名。
私の一族が道具としてではなく、愛すべき家族として接し――私の名にも刻まれるはずだった、大切な竜の名前だ。
広間を満たしていた異常な重圧が消え、硬直していた私の身体が解け、自由に動くようになる。
世界が、強引に書き換えられた因果を認識した証拠だった。
「ゼファレス……あなたという人間は……どこまで私を貶めれば気が済むのですか」
絶句。それは呆れでも、怒りでも、軽蔑のどれともつかない――すべてだった。
灰色の竜の身体が、ひび割れていく。
金の粒子が骨の奥まで染み込み、竜の姿そのものを塗り替えていく。
やがて――光の粒が弾け、その中心にひとりの竜が立っていた。
絹のように細く、柔らかく流れる青銀の長髪。頭頂部には天に向かって渦巻く黒い角。
口元には笑みを湛えながら、凍るように澄んだ金色の双眸が、ただ無垢にこちらを見つめている。
瞬きすらできなかった。
その姿は、母がかつて語ってくれた彼に、あまりに酷似していた。
確信と共に喉が詰まる。
私はスピカに会ったことなどない。写真もなければ絵もない。
けれど、この気配は、ただの竜などではあり得なかった。
「は、……グ、ァ……」
背後から、息も絶え絶えのゼファレスが嗚咽のように呻いた。
大理石の床に転がるゼファレス。その左脚は、代償によって根元から消失していた。
――他者の因果を喰らい、名を変えた代償だ。
両腕に続き、身体を支える脚までも失った彼は、もはや膝をつくことすらできず、己の血溜まりの中で無様に這いつくばっている。
それだけではない。床に擦り付けられた頬を伝う血の筋が、顔を真っ赤に染め上げている。
頭部からは、あるはずのない角が醜く生えかけており、そこからも絶え間なく血が溢れていた。
もはや、人でも竜でもない。ただの、泥に塗れた化物。
「スピカ……貴族の間でも、誰も手が出せない、神の言葉を持つドラグマキナだと……聞いている……ッ」
血の海を這いずる肉塊と化したまま、ゼファレスは必死に首だけをもたげ、すがるように命じた。
「スピカ、僕の毒を消し去り、カグツチを殺せ――っ!」
私の前へ出たカグツチの炎が、これまでで最も重く、悲痛な熱を帯びて膨れ上がる。
愛する剣と、誇り高き家族の名が、今まさに最悪の形で激突しようとしていた。




