108.愛された名は消えない
石造りの狭い隠し通路を抜け、カグツチに抱えられたまま最後の階段を上がりきると、目の前の石壁が音もなく横に滑った。
踏み出した先は、王城の最深部へと続く、見覚えのある広い廊下。
その突き当たりにある巨大な扉を視界に捉えた瞬間、私の背筋を、刺すような冷気が駆け抜けた。
――竜継の間。
あの日、私のすべてが奪われ、この世界が灰色に塗り潰された因果が生まれた場所。
私が声を掛けるより先に、カグツチは私を静かに床へ降ろした。
彼は何も言わなかった。
けれど、私を見つめる黄金の瞳が、確かな信頼を湛えて頷いている。
私は一度だけ深く息を吸い込み、重苦しい意匠が施された両開きの扉を押し開いた。
ギギィ、と。
静寂を裂くような、重たい金属音が広間に反響する。
かつては眩いほどの威光を放っていた天蓋のシャンデリアは、今はその灯りを消し、巨大な骸骨のように虚空にぶら下がっている。
テラスから差し込む鈍色の空の色は、広大な白い大理石の床を冷たく照らし出し、そこに立つ私の影をひどく長く、鋭く伸ばしていた。
いつだって空は救いのない色をしている。
そして、その広間の最奥。
一段高い場所に据えられた王座に、彼はいた。
「――遅かったな、ルシア・ヴァレット」
ゼファレスは、退屈そうに肘掛けに肘をつき、指先でこめかみをなぞりながら私たちを見下ろしていた。
王冠も、飾り立てたマントもそこにはない。
ただ、絶対的な支配者としての傲慢さだけをその身に纏い、彼はまるですべてが予定調和であるかのように、薄く唇を歪めた。
「黙って花を演じていれば可愛げがあったものを。一時の感情に負けて復讐などという無駄な芝居に身を投じるなど――君らしくないな」
唇の端を歪め、彼は笑う。
「愛らしく命乞いでもしたら、飾って愛でてやってもいい――しかし、君はそういう女じゃない」
ゼファレスは、全て自分の掌と言わんばかりにため息をついた。
私の目論見など、最初から筒抜けだったのだろう。
それで構わない。
私はもう、アルトを殺された憎しみだけでここに立っているのではない。
「カグツチ」
ゼファレスが名を呼ぶ。その声は、酷く愉快そうだった。
「その名は、触れられぬ隣の世界では神に匹敵するものだろう? いい名だ。カグツチの炎こそ、我がヴォルシュタイン家の象徴に相応しい。燃える者。命が名を得る時の響き――火を起こす呪」
目の前の男の言葉が私の中の何かを削り落とす。
まるで私にだけ効く毒のように、内側から壊していく。
――どうやって、殺す。
「でも、お前はもう無理だな。お前からは普通の竜種と違う匂いがする。――まるで、祖父の遺したあの不良品の黒竜と同じ匂いだ。とてもじゃないが、僕に扱える代物じゃない」
カグツチは何も答えなかった。
私は扉から一歩を踏み出す。扉が重く閉まる重厚な音が響く。
私の瞳が真っ直ぐにゼファレスを射抜いた。そこに一切の隙は見当たらない。
カグツチの足音は聞こえなかった。
「――ルシア・ヴァレット。その竜に命じればいい。そうすれば、次の瞬間に僕は消え、君の憎しみも物理的には解消されるだろう。……しかし、それは復讐か? ただ山が崩れて、僕が下敷きになったのと何が違う?」
この男は――まるで鏡に映った私だ。
私がここでカグツチにゼファレスを殺せと命じれば、全ては一瞬で、合理的に終わる。
この男はそれを分かっているから、私を説得しようとしているのだ。
お前の復讐はそんな呆気なく、他人の手で終わらせてしまって良いのか、と。
私がゼファレスの立場で追い詰められたとして、時間を引き延ばすのであればそうする。
「あの日、君がノエルのために指を折った時、僕はそこに高潔な自己犠牲を見た。……だが、違うな。君が守りたかったのはノエルじゃない。僕の懐に入り込み、あの男の仇を討つという計画そのものだ。素晴らしいよ、ルシア。誰かのために自分を損なえるのは、完成された怪物だけだ。君は、僕と同じ側の生き物だったというわけだ」
私はその場から一歩も動かず、ただ冷たく玉座の男を見据えた。
この男が恐れているのは厄災ただひとり。
それを制御する私さえどうにか言い包めることさえ出来れば――とでも思っているのだろう。
「だが、一つ教えてやろう。復讐という名の糸を自分の手で断ち切った瞬間、君に残されるのは何もない暗闇だ。僕を見ろ。望んだ通り父を追い落とし、国を盤面に収めた僕の心に何が残っていると思う? ――虚無だ。死者のために生きてきた人間は、死者が消えた瞬間に、自分自身の生かし方を忘れてしまう」
ゼファレスに畏怖の感情は見当たらない。
本気で説得出来ると思っているのか――或いは、死すら恐れていないのか。
「そんな僕たちの対話に、その災害は必要ない。……山が崩れて僕が死ねば、君のその知略も、指を折った痛みも、すべてはただの事故として処理される。君はそれで満足か? 復讐という芸術を、そんな不潔な暴力に委ねて終わらせるのか? 君がルシア・ヴァレットとして僕を終わらせたいなら、その怪物を下がらせろ。人間として、僕の盤面を食い破ってみせろ」
「元より、この誰より美しい私の剣をお前の血で汚すつもりなど最初からありません」
怒りなど、脳をとうに焼き切っていた。
「――一つだけ、聞かせてください」
なるべく平静を装おうとしたその一言は波紋のように広がっていく。
「なぜ、アルトはあのような最期を迎えなければならなかったのでしょうか」
ゼファレスは片肘をついたまま、心底退屈そうに肩を竦めた。
空っぽの袖がわずかに揺れた。
「何を言い出すかと思えば……くだらん」
「あなたがやりたい事は、ドラグマキナ徴用制度と後宮で事足りたはず。なら、アルトから私とカグツチを奪うだけでよかった」
ゼファレスはその名を聞くと薄く笑い、指先で王座の肘掛けを叩く。
その音が、やけに乾いて響いた。
「そうだ。カグツチを徴用し、君をあの男から引き剥がせばそれで済んだ。――だが彼は、死んだ。なぜか分かるか?」
笑みを深めたゼファレスの声に背筋を冷たいものが這う。
それでも私は目を逸らさない。
「簡単だ。あんなものがこの世に存在していい理由がない」
まるで胃の腑から込み上げる吐き気を噛み殺すように、彼はひどく歪んだ声で吐き捨てた。
ゼファレスの端正な顔から、それまで張り付いていた冷徹な王の仮面が剥がれ落ちた。
琥珀色の瞳の奥で、煮えたぎるような、悍ましいほどの憎悪がどろりと溢れ出す。
それは有象無象に向けられる無関心などではない。己の存在そのものを否定する絶対悪を前にしたような、どす黒い殺意だった。
「あの男にはデッドアッシュの血をくれてやった。お前たち二人に手を出さないと誓うのなら喜んでそうすると。――まるで、ずっと前から知っていたかのような物分りの良さだった」
ゼファレスは、その時を思い返し――どうにも腑に落ちない、と首を傾げた。
――思考が止まった。
視界がうまく定まらない。
(デッドアッシュの、血……?)
なぜ、よりによってあの灰色の竜の血なのか。
デッドアッシュは、カグツチの父親だ。そしてアルトは、カグツチが自ら選んだ主であり、親友であり、かけがえのない最愛の家族だった。
ゼファレスは、ただアルトを殺したのではない。カグツチの父親の血を毒として用い、カグツチの主の身体を内部から食い破らせたのだ。
己に刃向かった者への罰として、彼らの尊い絆と因果を根底から冒涜し、嘲笑うかのように。
世界が、ぐらりと揺れた。
吐き気を催すほどの屈辱。
この男は知らない。
人の身で竜の血を口にすると言うこと――それは、身体が竜種に書き変わるということ。あの終わりのない死に焼かれ続けると言うこと。
あの不器用で優しい人が。私とカグツチを守るために、どれほどの苦痛の中で、どれほど無惨にその命をすり減らし、絶望の中で死んでいったのか。
想像することさえ出来ない痛みの中に消えていってしまったその背中を追いかけることも出来ず、私は一人、目の前の男を見据えたまま立ち尽くしていた。
思考が波のように再び戻ってくる。
アルトが――それを知っていて、あの日まで生きていたと言うのだとしたら。
『――俺はもう自分のためには泣かない。残りの時間は全部、ルシアとお前のために使う』
あの日、彼がどんな思いでその言葉を遺したのか。
やがて訪れる究極の苦痛をひとりで背負い込みながら、どんな思いで、明日は晴れると笑ってくれたのか。
足元が崩れていくような絶望。視界は明滅し、指先が自分の意思とは関係なく震え始めた。
その震えは、悲しみからではない。恐怖からでもない。
私の中にある、人間としての最後の理性が、焼け焦げて崩れ落ちていく震えだった。
「道具が僕に手を出した罪の所在など、心底どうでもいい」
この男は――どれほど、アルトを貶めれば気が済むのか。
これをただの怒りと呼ぶには、あまりにも足りなさすぎた。
この男の存在そのものを、一欠片の灰すら残さずに世界から消し去らなければならない。
ゼファレスの声が途切れた瞬間、世界から一切の音が失われた。
代わりに――冷たい大理石を叩く私の足音だけが、空虚な広間に反響していた。
気づけば、私は無意識に一歩、また一歩と、王座に座るその男へと歩み寄っていた。
背中が、焼けるように熱い。
振り返る必要などなかった。
私と魂を共有する番の繋がりを通して、血を吐くような慟哭と、世界そのものを灰に帰すほどの底知れぬ殺意が流れ込んでくる。
アルトというたった一人の親友を冒涜された激怒。
私という歩く殺意の背後で、カグツチという厄災もまた、完全に理性のタガを外して臨界点を迎えていた。
大気が爆発するような轟音と共に、青い光がゼファレスの顔を照らす。
荒れ狂う火柱はそのまま竜継の間の高い天井へと直撃し、堅牢な石の天蓋をまるで飴細工のようにドロドロに融解させていく。
広間中の酸素が一瞬で干上がり、呼吸すら肺が焼け焦げそうな地獄の熱量。
――しかし、その世界を滅ぼすほどの青い炎は、前を歩く私のことだけは、決して焼きはしない。
どれほど理性を失い、激怒に我を忘れたとしても。彼にとって私を守ることだけは、決して揺らぐことのない絶対の因果なのだ。
しかし、ゼファレスはそんな私たちを一瞥もせず、ただひどく退屈そうにため息をついた。
「……さて、無駄話は終わりだ。最後の仕上げと行こう。代償は……」
直後、ゼファレスの右腕を眩い金色の粒子が包み込んだ。
右腕から、爆発的に噴き出した光の粒が濁流となって、あっという間に広間の空間を満たしていく。
「……右腕か。いいだろう。ペンを握れなくなる程度、僕の頭脳があればどうとでもなる。だが、ここでルシア・ヴァレットを失えば、僕の盤面は永遠に完成しない」
空気が軋んだ。
嫌な予感に慌ててカグツチの方を振り返るも、広間を支配した圧倒的な因果の重圧に、私の身体は――指の先一本動かせなくなった。
「……っ?」
蒼い炎の気配が消え、代わりに引きつったような呻き声が聞こえる。
厄災すら縛り付ける絶対の因果。
完全に安全な盤面を作り上げたゼファレスは、硬直する私を見下ろして薄く笑う。
「君という宝石を、こんな不潔な復讐の道具にさせておくのは忍びない。……大丈夫だ、ルシア。君の中に残るあの男の未練も、その狂った火竜との絆も、僕がすべて上書きしてあげよう」
そしてゼファレスは、決定的な呪いの詠唱を紡ぐ。
「《カグツチ》その名は我が王血により葬る――」
黄金の粒子がさらに激しさを増し、広間の空気が悲鳴を上げるように軋んだ。
その詠唱は、必ず全文言わせるための因果があるのか――指の先一本さえ動かすことは叶わなかった。
「……大丈夫ですよ、カグツチ。怯える必要はありません」
私の静かな声に、ゼファレスの詠唱が僅かに揺らぐ。
私は、絶望に震える私の竜――アグレスト家がその慈しみで包み込み、隠し通してきた火種を見つめ、確信を込めて福音を告げた。
「あなたは……アルトに――アグレストの人々に愛されているのですから」
その名前に、言葉に、カグツチは瞳を揺らした。
私が見せた迷いのない視線に、彼の中で何かがすとんと落ちたのだろう。
カグツチは何かを吹っ切るように大きく息を吸い込むと、先程までの怯えを完全に拭い去った。
そして、己を縛ろうとする黄金の光の奥で、ゼファレスを――この絶対的な盤面の支配者を、微塵の不安もない澄んだ瞳で真っ直ぐに見据え返した。
その理解不能な態度に、ゼファレスが不快そうに顔を歪める。
「この命により、汝の名は今より──《灰》と定まるッ!!」
金色の粒子が爆ぜる。
……しかし、何も起きない。起きていない確証があった。
術の代償として奪われるはずだったゼファレスの右腕を包む光は、不発に終わった火薬のように力なく霧散し――彼の右腕は、欠損することなくそこにあった。
世界が、対価の没収すら拒絶したのだ。
その事実こそが、カグツチへの改名が完全に不成立に終わったという何よりの確証だった。
カグツチの存在は、揺らぐどころか、より一層その輪郭を鮮明に、眩く輝かせていた。
彼を縛ろうとした金色の光は、その肌に触れることすらできず、まるで熱い鉄板に落ちた水滴のように弾け、虚空へと消えていく。
「……命定改名が、効かない……? 何故だ?」
ゼファレスの声が、初めて震えていた。
(……やはり、そうですか)
私は、弾け飛ぶ黄金の光を冷たく見つめた。
かつてシロクマが語っていた、因果逃れのおまじない。
魂そのものである真名を伏せ、別の名で呼ぶことで、定められた過酷な因果から竜を切り離す――。
アグレスト家が、なぜ彼を略称で呼び続けていたのか。その正確な理由は、歴史書にも、今の私にも分からない。
けれど、一つだけ確信を持って言えることがある。
社交界にも出さず、外界から遮断されたあの静かな屋敷で、彼らがこの火竜に「カグツチ」という偽りの名を与え、守り続けてきた理由。
――それは、絶対に愛だ。
彼がカグツチとして笑い、カグツチとして誰かを愛せるように。
親殺しの因果も、王の呪いも届かない場所へ、全て彼を逃がしてやるための祈りとなった。
アルトが、文字通り命を懸けて守り抜いたのは、ただの便利なドラグマキナなどではない。
「カグツチ」という偽名で編まれた、この世で最も強固な、優しさという名の防壁だったのだ。
「カグツチにそれは効きません」
私の言葉に、ゼファレスが驚愕に目を見開く。
「そしてそれは、あなたには一生理解出来ない」
私は、黄金の光を完全に無効化した我が竜の横顔を見上げた。
「ゼファレス。……あなたの言葉は、もう誰にも届かない」




